第98話「死にたくないの意味」
絨毯の上に落ちる赤黒い液体。
じわりと広がっていくそれを睨みながら、声が上がる。
『どうして邪魔をした!?』
声は一つではなかった。どちらも怒気を孕んでいるが、他に宿る感情が異なる。
片方は困惑と恐怖。もう片方は苛立ちと焦燥。
血に濡れた剣の先で倒れる人間は、胸の中に抱えた洋燈の様子を確かめる。
硝子にひび割れは存在せず、中では白い炎が糸車を中心に煌々と燃えていた。
金粉のような輝きは舞い散る砂粒のように繊細で、何も変わっていない。
吊り下げるための鎖にも欠けた部分はなく、右胸を背中から貫かれた人間は安堵する。
「な、んで……」
困惑と恐怖から剣の柄から手を離した第二王子は、自らの手がガタガタと震えているのを目視する。
初めて自らの手を汚して人を殺めかけた。その重さに耐えきれないと言わんばかりに、絨毯の上にうずくまって「うぅ……」と呻く。
剣を体に突き刺したままの人間は、口から大量の血を吐きながら空気漏れする皮袋のような呼吸音と共に問いかける。
「お前、なんで笑った?」
掠れた声でもはっきりと聞こえ、指先で顔表面をなぞる。
口角が上がり、頬全体が上向きに動いていた。感情の制御を知らない魔物にとって、それを隠すという技能はまだ身についていない。
骨壷騎士や聖女もその笑顔を見た。国王も身震いするほどの、陶酔した狂気の微笑み。
人型スライムは笑っていた。
自らの命――生命核が破壊されることを喜んだのだ。
「これは……その……」
死の瞬間に諦めたからと言い訳できればよかったのだろうが、人間のその微細な感情と表情の連動を魔物は知らない。
死を恐れてはいない者の顔ではなかった。待ち望んだ夢が叶う瞬間を目の当たりにした、苦労を積み重ねた先の歓喜。
視線がきょろきょろと動くのは、女神の声ではなく動揺して言葉が出てこないからだ。
「ほら、大事にしろ」
「……」
どうにか言葉を紡ごうとする人型スライムの手に、傷一つ付いていない洋燈を渡す。心臓とも呼べるものが戻ってきたというのに、顔色は冴えない。
むしろ敵意を探るように、国王や貴族など魔物に対して好意的でない相手へと視線を向け始めた。
「夕焼けの街で」
「腕が千切れたお前を見て、魔物だとわかった」
「結界を抜けた人型の魔物……すぐに殺した方がいいと考えた」
赤い瞳は次第に焦点を失っており、耳に届く声は水中から風の音を聞くように遠い。
ぼんやりとしてきた意識の中で、魔導騎士はどうにか思い出す。抱えてきた違和感を少しずつ拾い上げて、並べてみる。
「でもお前は命乞いした。おみずくださいって、片言でさ」
「最初は生きたいのかと思ったけど、今は違う」
「聖女様に出会う必要があったんだな」
人型スライムが返事をしないので、独り言のように魔導騎士は呟き続ける。
医療箱や医者の手配とか、処刑人が斧を片手に怒りながら魔導騎士を睨んでいるや、婚約者が泣きながら縋り付いていることも。
全てが遠い夢のような、濃霧の中で座り続けているような心地が強くなっていく。
「でも俺と出会った時、殺されてもよかったんだろ?」
「お前としては、それが最短だった」
「だからわざと腕を千切って、魔物であることを見せつけた」
一際大きな塊が喉の奥からせり上がり、ごぷっとゆで卵を丸ごと吐き出すような音と共に苦味が口の中に広がった。
赤い絨毯の毛足に消えない汚れを残すほどの血液を吐き出したことで、少しだけ意識が鮮明になる。
辛苦によってはっきりした思考で、魔導騎士は結論を出す。
「お前は人間に殺されたかったんだな」
答えを導き出して満足したせいか、頭が重くなって仕方ない。
ぐらりと揺れた体を大きな腕が支えたのはわかるが、それが誰かと認識することも朧になってしまった。
名前を思い出すのも億劫で、感謝の言葉も告げられないまま瞼を閉じようとした矢先。
「忌々しい」
地獄の底から這うような声で、人型スライムが吐き捨てた。
洋燈を掴む指先には力が込められており、割るには至らずとも硝子が軋む音が鳴る。
瞳孔が開きかけてきた赤い瞳には映らないが、怒りと憎しみに彩られた表情を人型スライムは浮かべている。誰も見たことがない、感情の露出。
「女神が余計なことをしなければ、愚かな人類を世界ごと滅ぼせたのに」
それは魔物らしいといえば、印象的には妥当なのだろう。
しかし聖女や護衛騎士、人型スライムの淡々としながらも他者に危害を加えようという行動がなかった時を知っている者にとっては衝撃だった。
人型スライムが唇を噛み締めても溢れるのは水滴であり、血は一切流れない。
「ら、ライムさん……?」
「……ハルカも、なんで元の世界に戻らない?」
「だって心配だから」
「この世界の問題はハルカには関係ない!」
苛立ちから放たれる声は大きく、怯えた聖女が肩を尖らせる。
男装女騎士が庇うように前へ出るが、洋燈を抱えたまま絨毯の上に座り込んでいる人型スライムは動かない。
「女神がずっとうるさい……聖女を元の世界に帰すまでは、仕掛けるなと……」
「声が聞こえるのか!?魔物が、女神の言葉を……」
国王だけでなく第一王子や貴族達も驚愕するが、人型スライムにとってはどうでもいいことだ。
今も四方八方から人型スライムを責め立てる、罵詈雑言の数々。失敗の責任や、吐露して苦労を水の泡にするな、など酷いものである。
しかしここまできたら人型スライムにもわかる。失敗したのだ。転生だけでなく、ずっと秘めてきた計画さえも。
「ハルカ、この世界は嫌になるだろう?」
「……」
「だから元の世界へ」
「まだ帰りません」
人型スライムの言葉を遮るように、聖女ははっきりと断言する。
青い瞳に憎悪の感情が浮かんで、それを視線で射抜こうとしても。体の震えを誤魔化すように聖女は言い返す。
「ライムさんを助けるまで、絶対に」
「やめろっ!それが迷惑なんだ!」
「馬車の中で死にたくないって言ってたじゃないですか!」
耳を塞いで頭を振る人型スライムに、浄化遠征の馬車内部での会話を思い出しながら叫ぶ。
あの時はまだわからなかった。けれど今なら少しだけ真意が見える。生まれたら悪いのかという疑問も、倒されて当然なのかという問いかけも。
二人きりの会話は人型スライムの本心だった。異世界の少女にだけ打ち明けた、人型スライム自身はそうと感じていない気持ち。
「……」
「殺されたいから?」
魔導騎士の言葉を思い出して、死にたくないという発言の意味が変化する。
「無駄死にしたくない、ってことだったんですか?」
魔物としての当たり前な死因。
人間の手によって殺害される。罪に問われない、公然の正義。
それ以外を恐れたから、人型スライムは死にたくないとこぼした。
「ライムさん、教えてください」
「……」
「黙ってたら、何もわからないです」
聖女の真剣な瞳に、国王や骨壷騎士のような迫力はない。
しかし人型スライムは何故かその視線が無視できず、体中の空気を抜くように大きな息を吐いた。
かちり、と硝子扉が開く音がする。
伸びる糸が見えたのは大神官だけ。聖女には女神が紡ぐ糸は見えない。
夢を失った若者のような茫然自失の表情のまま、人型スライムは女神の力を使うのだった。




