第88話「失われた故郷」
竜は混沌の海から掬い出された要素ではない。魔神の兄貴分である竜神が男神への感謝を兼ねて、世界を調整するために生み出した。
瘴気に耐える体、どのような環境にも適応する柔軟さ、どの生物よりも優秀な頭脳、魔神の加護により自在に魔法を使える才覚、空の果てへ飛来できる翼。
あらゆる生物を超越した規格だったが、浄化の力だけは女神から授からなくては意味がない。男神の体を癒すため、竜神は女神へ交渉した。
混沌の海から「本来の世界」が取り戻せれば、男神がこれ以上を苦しまなくて済む。
そのために必要なのは浄化。人類に任せていては、男神の体が先に限界を迎えてしまう。文化や文明は人類が築き、竜を神子として崇め奉る。
混沌の海の消失を早め、瘴気を迅速に消していけば男神を頂点とした神々による世界の均衡が完成するのだと。
女神は拒否した。
竜神の目的を看破した女神は、龍には決して浄化の力を与えないと宣言した。
そして神々と竜の戦争が起こり、竜神と数多くの竜は姿を消した。女神の森で生まれた竜は、消えていく仲間達の群れを見送った。
それが王都に飛来した竜の、胸に残る一番古い記憶だ。
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第三王子と早朝から話している最中、魔道具を持ってきた冷や汗騎士が声をかけてきた。
人類が魔法の力を道具に封じ込めているというのは知っていたが、どうにも竜には必要かどうかわからない機能ばかりだ。
人類は魔法が使えるのは個体の性能によることが、魔神の加護を生まれながらに与えられている竜には不可解なのだ。
{それが必要なのか?}
「人間の出入りが制限されておりますので、医者を呼ぶ際には必須なのです」
{そこの猿みたいに身軽な人間は魔法を使えるだろ?}
「いやー、通信という繊細な類は苦手で……」
急に話題を振られた軽薄騎士は、竜に個体として認識されたことに驚きつつ返事をする。
動き回っていたことと髪色が赤いため目立っていたのだろうと推測。下手な動きをすれば勘繰られると判断した。
遠方との会話は実際に魔法としては繊細で、エルフでさえ長時間の瞑想が必要と言われているほどだ。
{人類は苦労が多いな}
「ねえ、あいつはヤン兄いじめたのー」
「燃やしてー」
「チビ達!?いつの間に!?」
第三王子は一見して強く見えない華奢な青年だ。それが竜と会話していることで警戒が解けた子供達が、近寄って話しかける。
いきなり標的にされた軽薄騎士が顔を青ざめさせ、不良騎士は子供達を回収しようと駆けつける。しかし両腕では抱えきれない子供が竜の周囲へと集まっていた。
{ふん、人類の命令など聞かぬ}
「じゃあミツギモノ?はいらない?」
{は?}
「いっぱい美味しいものとかキラキラしたのきてるよ」
幼子から出てくるとは思わなかった単語に動揺する竜の目前で、戻ってきた言い訳騎士が滑車道具を手に立っている。
「どうしました?」
「貴族の方々が高貴なる竜に捧げたいと贈り物が壁下に集まっておりまして……」
「予想よりも早い動きですね」
{人類の悪しき習性である賄賂だな!本当に存在していたとは}
第三王子は竜に滑車道具による運搬の許可をもらい、言い訳騎士に魔道具の通信機を使って壁下と連携するように指示する。
浮遊階段であらかじめ運ばれた貢ぎ物に関しては早速竜の手前に運ばれ、冷や汗騎士が貴族の家名と内容を照らし合わせた一覧表を第三王子に渡す。
芳醇な香りのワインに絶妙な焼き加減の肉の塊。金銀財宝や家宝の絵画など。王都内の贅沢品が集められていた。
{いらぬ。全員平等だ}
一覧表をもとに金銀財宝などの財物の返還手続きを始め、魔道具通信機で壁下に竜は貢ぎ物を受け取らないと伝える。
命乞いの品物を竜が見下していると、子供達だけでなく大人も味わいたいと言わんばかりに凝視していた。
骨のように痩せ細った者達。しかし竜は同情しない。人間が虫の体格差などを気にしないのと同じである。
「ごはん食べなくて平気なの?」
痩せ細った弟を抱きしめた少女――エライノが竜へと問いかける。
避難所で用意されたお湯で肌表面を拭き取ってもらっても、貧民街の生活で染みついた汚れはそう簡単には落ちない。
竜の瞳が少女をじっと眺める。弟よりも細く、肉がついている様子はない。髪はパサパサとしており、服はボロ切れだ。
{貴様らと違って魔力だけでも生きていける体だ}
「でも美味しいものがわからないよ」
{……}
「食べないともったいないな」
口にしないとわからないこと。生きていく上で、味覚というのは必須ではない。
しかし人類よりも最上の叡智を保有するものとして、今の言葉は無視できなかった。
{ではその肉をもらおう。他はお前達が食べろ}
「いいの?」
{ああ。ただし少し待て}
巨大な前脚が動き、爪が空中に白い墨汁を残すように文字を描いていく。
その文字が完成すると空中で水飛沫へと変化し、霧雨のように貢ぎ物の食事に向かって降り注いだ。
そしていくつかの皿が空中に浮かび上がり、壁向こうの王都へと飛んでいく。それは貴族街の上空で拡散し、特定の屋敷へと降り注いだ。
{毒など姑息な手を使いおって。忌々しい}
「食べれなかったてこと?」
{そうだ。他は大丈夫だ。もったいないのだろう?}
「うん!ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた少女は、騎士達が避難民に分配するために切り分けるのを眺める。
爪で巨大な肉塊を突き刺し、口の中へと放り投げる。骨ごと噛み砕き、人間が作り上げた美味に目を見開いた。
塩を燻製する技術、弱火による赤身を残す範囲の繊細な加減。竜神が「最終的に奪う予定だったもの」の価値を、竜は衝撃として受け止める。
{我が故郷にはないものだな}
「どんな場所なの?」
{……美しいとは、あの森のためにある言葉だ}
太陽の寵愛を受けて、植物が瑞々しく生い茂る。
泉には動物達が集まって水を分け合い、全てが完璧な均衡で循環していた。
瞼を閉じて思い浮かべるのは山のようなエメラルドよりも価値がある、清浄なる緑に溢れた場所。
たとえ瘴気によって全てが変質しても、その美しさは変わらなかった。
動物の代わりに魔物が跋扈しても、均衡に一切の揺らぎはなかった。太陽と月に愛されたかのように光が注ぎ、瘴気の闇が木々の隙間を通り抜ける風のように緩やか。
瘴気の中でしか生み出されない変化は知識に新たな刺激を与え、日毎に更新される光景を楽しんでいたのに。
ほんの少し、目を離しただけ。
子孫を残すために竜谷へと赴いた隙に、森は燃えた。
戻ってきた竜の瞳に映るのは野原だけ。真っ白な灰の下で、大地が赤黒く焼け続ける平野。
命の息吹が消えた悲しみは、竜の慟哭となって空に響いた。
{大事な場所だった……}
短い言葉の中に込められた感情は、少女が受け止めるには複雑で大きすぎるものだった。
「ほら、あっちで食事を配ってるぞ」
「わかった」
不良騎士に声をかけられて、少女は弟の手を引っ張って竜から遠ざかっていく。
それをゆっくりと追いかける不良騎士は、何かを言ってやろうかとも考えた。貧民街は彼にとって、故郷ともいえる場所だ。
それが壊されたことに対しての文句は山のようにあったが、竜の瞳に宿った故郷の喪失による悲しみを垣間見てしまったのである。
「……ヤン」
「わかってるっす」
冷や汗騎士に声をかけられ、不良騎士は足を進めることを選んだ。
今はこの問題がどの結果に向かっていくのかを、見届けなくてはならない。




