第85話「みなぎってきた」
避難民の老人が一人、容態が急変した。
雪が降りそうな気候が続く中で風が強い壁の上で数日、慣れない避難生活をして負荷がかかる中で竜の登場。
顔色が青を超えて土気色になっており、口の端には泡が付着している。呼吸音が途切れかけて、体全体がガクガクと痙攣している。
「今すぐ壁下の医者のもとへ……」
{ならぬ}
搬送をしようとした矢先、竜から制止の声がかかった。
その様子を魔道具愛好騎士は興味深く眺めていた。口を開いておらず、喉も動いていない。人間のように声帯を使っているわけではない。
空気が震えていないのに、距離を変えても一定の音量で耳に届く。魔法ではあるが、風などの空気を動かしていないのだ。
「ペンドラゴン殿、人間は貴方に比べれば貧弱ですのでご容赦を……」
{お前達は人質だ}
見下ろしてくる黄金の瞳に威圧を込められ、老若男女関係なく体全体が重くのしかかるような緊張に包まれた。
竜が体を動かずだけで地震のような音が鳴る。ズズ……と大地がズレているのではないかと、壁上に震えが襲う。
{神子を呼べ。早く}
「……っ!」
竜の要求は単純だが、それが真の意味で叶えられることはできない。
死者を復活させる魔法などない。遺体も灰すら残らなかった。説明をして逆上による暴走が始まったら、止められなくなるだろう。
神子。二人目の神子――聖女で納得するとしても、それは冤罪を被せて犠牲にするだけだ。
嘘を吐いて、一時凌ぎにするか。
それこそ二度と元に戻らない決裂になり、竜は人間を敵とする。
今はまだ神子だけを敵視してるから、会話を交わしてくれるのだ。
圧倒的な脅威。上位存在としての歯牙にもかからないという認識。
わざわざ虫の棲家を殺して遊ぶほどの残虐さを持っているわけではないし、合理性を感じないだけなのだ。
しかし虫が意思を持って騙し、攻撃を仕掛けるならば――竜は速やかに人間を全て殺すだろう。
「ペンドラゴン殿。神子を呼ぶお時間をいただけないだろうか?」
{む?}
第一王子が緩やかに挙手をしてから発言をする。それは議会での仕草だが、手の平には何もないことを相手に伝えた。
それくらいの動作については竜も心得ている。人間が意見を申し出る時に行う儀礼に近いものだということも。
「浄化遠征からまだ帰っておりません。早馬を出しますが、三日ほど……」
{明日の夕暮れまでだ}
「……間に合わない場合は?」
{視界に入る全てを焼き尽くす}
しばし思考を挟んだ第一王子は、チラリと第三王子に視線を向けた。
竜を前にして思考が止まった弟の背中を軽くつねり、痛みで肩を尖らせたのを確認してから話を続ける。
「かしこまりました。明日の陽が沈むまでにはお呼びできるよう手配します」
{これだから体が小さいものは……鈍間で怒りが湧く}
「しかし死者から疫病が発生しますと、神子を呼べなくなるかもしれません」
{虚弱な生命め!ええい、そいつをこちらに近づけろ!!}
痙攣すらも弱くなってきた老人に怒りの視線を向け、竜は苛立ちながらも四つ足の右前脚を動かす。
犬がテーブルに頭を乗っけるような姿勢で、右前脚の爪を空中で器用に動かす。それは石板に描かれていた文字と同様の形で、円を描くように文章を滑らかに作っていく。
空に白い墨汁が浮かんでいるような光景が広がり、魔道具愛好騎士だけでなく不良騎士や酔っ払い騎士も興味深そうに眺めていた。
{そいっ!}
しかし掛け声が神秘さをあっさり打ち砕く。もう少しかっこいい呪文等を期待していた数人かは、肩から力が抜けてしまった。
軽薄騎士は行使された魔法の精密さに驚きを隠さず、白い墨汁のような光が息絶えそうな老人に吸い込まれていくのを視線で追う。
体を覆う光が胸の上で収束して消えていくと、老人が深い呼吸をしてから大いに咳き込む。その反動で起き上がり、六十代とは思えない跳ね方で立ち上がった。
「な、なんじゃっ!?体に力が漲る!」
{ふふん、これくらい朝飯前……}
ドバッ、と老人の鼻から大量の血が噴き出た。鉄砲水のような勢いが止まらず、地面の上に血溜まりを作るほどだ。
「過剰な魔力を体が受け止めきれてないんだ!今すぐ脱魔力処置と止血!!」
「ああ、ばーさんが川向こうで綺麗な笑顔を浮かべておるわ……」
「勝手に殺すな、じーさん!股間を膨らませる元気があるなら、ボケを直さんかい!!」
「おばあさん、死にかけの体を叩かないで!」
心配して駆け寄ってきた老婆が、誰よその女と言いかねない形相で怒り狂うので、騎士達が数人駆け寄って興奮を抑えようと懸命に宥める。
鼻血を噴き出し続ける老人は目をギラギラと輝かせており、股間が爆発すると漲る力に泣き始めてしまった。
一気に混迷化した状況からそっと視線を逸らす竜を見上げながら、第一王子は冷静に何事もなかったかのように振る舞う。
「素晴らしいお力ですね」
{嫌味か!?}
「いえ、我々の魔法では死にかけの老人をあそこまで元気にはできません。そうだな?」
「え、あ、はい!竜神文字による魔法の行使……叡智の奥深くに眠る技術を拝見できて光栄です」
急に話題を振られた第三王子が素直な感想を漏らすと、少しだけ機嫌を直した竜が黄金の瞳を二人へと向けた。
{ほう……我らが文字を知るか?}
「形のみで把握しておりましたが、解読はできませんでした。竜にしか読めないと聞いておりましたが、複雑性は世界一と言っていいかと」
{世界一……ふむふむ}
第三王子の言葉が気に入ったのか、竜は嬉しそうに何度も頷く。
それだけで壁の一部が壊れるかもしれない大きな頭が動くのだが、会話を続けることで初見ほどの恐怖は失われつつあった。
「ペンドラゴン殿、彼はこの国の王族です。この場にいる多くは貧民でして、その全てよりも価値がある存在です」
「っ!?」
ようやく第一王子の思惑を読み取った第三王子は、文句は言わないが驚愕を大いに浮かべた。
竜も同じことを悟ったのだろう。黄金の瞳で第一王子を睨みつけ、牙の隙間から炎を漏らして威嚇する。
「私も帰らないといけません。第三王子を残す代わりに、一度だけ機会をいただけないでしょうか?」
{内容次第では焼死する覚悟で言ってみろ}
「体の弱い者を選出し、医者へ連れて行きたいのです。それ以降は入ることは許しても、出ることを禁じます」
{……}
竜に利点はない提案だが、第一王子にも有利な条件というわけではない。
どうせ一晩の付き合い。鈍間な人間達が逃げ切るほどの余裕がないのは自明の理。
ここで下手に拒否して神子を逃がされては、下準備が無意味になってしまう。それは竜にとっても好ましくない話だ。
{いいだろう。出入り口に今の条件を満たす魔法をかけるが構わんな?}
「もちろんです。お聞きくださり感謝します」
{ふんっ。第三王子の知識とやらを試す。稚拙であれば時を早めてやるからな}
「それならご心配なく」
薄い笑みを浮かべた第一王子は、自慢げに告げる。
「この国の後継に一番相応しい王子です」
竜と第三王子以外には聞こえない声だった。しかしそれが本心からの言葉というのは間違いない。
今まではっきりそう告げられたことがない第三王子は照れくさい気持ちになったが、竜の興味を向けられて硬直してしまう。
{ならば試してやろう}
爬虫類の顔でニンマリと笑う竜は、意地の悪さを隠さないのだった。




