第50話「ありがとう」
浄化の光が消えると、瘴気は跡形もなかった。
数年間放置された大地には草が生えており、土はめくれていた。人が住んでいた家には苔が生えていて、当時慌てて逃げたせいで割れた壷が道端に転がっている。
死体は一つもない、ただ無人のジャルネット村が冬前の柔らかい陽射しを受けて、思い出したように形を取り戻したような光景。
視界を白く染めた光に驚いた避難民達が、恐る恐る表へ歩みを進める。
エリは歩くのも大変そうな老人に手を貸しながら、目前の風景に郷愁を覚えた。
林檎や蜂蜜の匂いはないけれど。牧草や畑など見当たらないのに。それでも記憶に根付く優しい面影が残っている。
「村だ……」
「おら達の……故郷……」
「帰れるの?」
祖父母の手を握る幼い少女が、丸い瞳で不思議そうに村を見つめている。
当時は赤ん坊だった子供が、初めて目にした誕生の場所。遠くに出稼ぎに向かった両親が語った風景しか知らないはずなのに。
それでも「帰る」という言葉を選び、ぬいぐるみを抱きしめながらトコトコと前に進む。
ゾロゾロと避難民達が誘われるように村へと戻っていく。
中には涙をこぼし、感謝を捧げ、肩や胸を震わせて「ただいま」と告げる者など様々な帰郷が見受けられた。
それを眺めていたエリの理知的な黒い瞳から、大粒の熱い涙がいくつもこぼれ落ちていく。真珠のように大きく、地面に触れると嬉しそうに大きく弾けるのだ。
「エリちゃん……よかったねぇ」
杖で体を支えないといけない老婆も、弛んだまぶたのせいで隠れてしまう瞳を潤ませていた。
生きている間に帰ることが叶った。そうしたら次は何をしよう。やはり林檎パイをたくさん作るべきだろうか。
かつて領地を治める貴族の家族が喜んでくれた、老婆自慢の愛情料理。
「聖女様、ありがとうございます」
青い空を仰ぎ見て、声を上げて泣く。
十五という年に似合わない大人びた少女が、子供のように口を開けて涙を生み出し続ける。
つらくて、苦しくて、悲しかった。それらの終わりに少しだけ触れて、喉の奥から出てくるのは感謝だった。
どれだけ喉が痛くなっても構わない。何度でも口に出す。
本当にありがとう。そしてごめんなさい。
若侍女はエプロンドレスの裾を握りしめる。これから待ち受ける決断を知りながらも、今はただ大好きな村が戻ってきたことを言祝いだ。
避難民達が村へと戻る中、騎士達は葬儀場に参列するかのように静かだった。
浄化遠征隊長のハナヤが地面に膝をつき、倒した巨体スケルトンの骨体を抱き起こしている。
その表情は苦悶や後悔に滲んでおり、忌々しいと言わんばかりに大声で言葉を巨体スケルトンに叩きつける。
「なぜ、どうして」
それは何度も胸の中で湧き上がった感情。
「どうしてわざと倒されたのだ!?」
最後の一撃。ハナヤにとって、疲労が蓄積した末に繰り出した、あまりにも大振りで情けない上段斬り。
脇や胴体が無防備で隙だらけだというのに、巨体スケルトンは剣を動かさなかった。
断頭台で落ち着き払った囚人のように、剣の軌道をがらんどうの眼孔で見つめて待ち構えていたのである。
どうしてお前はいつもそうなんだ。
だから私は――。
「答えろ、バカア!」
声帯がないとわかっていても、問わずにはいられなかった。
恨み言でも、呪いを刻みつける文句だって構わない。激しい咆哮を上げた巨体スケルトンに相応しい、今際の言葉を待つ。
毒で殺されて苦しかったはずだ。死体を捨てられて怒ったはずだ。全ての栄光を奪った男に復讐したいと思ったはずだ。
その全てを込めた言葉を、巨体スケルトンが解き放つのを待ち構える。
骨に響く声が魂を揺さぶる。生命核にヒビが入り、死神の指先がうっすらと伸びてきた。
魔力を使って言葉を形成できるのは一度だけ。文章すらも作れないが、これが巨体スケルトン――バカア・ダーナが目指した到達地点。
生前から考えていた死に際。ようやく叶えることができる瞬間に、骨の顔ながら表情を作るように歪ませる。
アリガトウ。
その場にいた誰もが、告げられた言葉の意味を即時には理解できなかった。
魔物を倒し尽くした魔導騎士や、体の半分以上を燃やされても生命核が無事だったヤドロギも同じである。
全ての事情を把握しており、幼い頃から数十年一緒だったハナヤでさえ意味不明としか思えない。
神々に請い願った一度きりの機会。
魔物に堕ちてまで死に永らえた先に告げた一言。
ようやく口に出せたと、バカアは安らかな気持ちで微笑む。
最初からいつか殺されることなどわかっていた。
知りながら貴族の屋敷で住むことを願い、そして理想と言えるべき存在に出会ったのである。
自分の全てを捧げるに相応しい、高名な貴族の子息。瓜二つでありながら、運命に選ばれたかのように光り輝く素晴らしい少年。
名前も、おやつも、構成する全てを少年に寄せていく。
まるで少年の半生を分け与えてもらっているようで、恐れ多くも心の底から嬉しかった。
同時に返さないといけないと思った。
バカアが手に入れた全ては、本来ハナヤに与えられるべきものだ。
それを分け与えてもらったに過ぎない。だからいつか感謝を伝えるべきだったのに。
遅くなってしまった。わざわざ毒なんか使わなくても、いつだって自害する準備を整えていたのに。
手を汚させてしまってすまない、我が友よ。しかしようやく誤解を解くことができるようだ。
恨みも、憎しみすらも。最初から抱いていない。もしも持っていたとしても、それは与えられていただけで、返すべきものだった。
ハナヤ・カーナ。
我が友であり、理想の栄華を進む光の君。
君の半生を担うことができて、僕は本当に果報者だった。
骨の指が勲章を外し、主君に捧げるようにハナヤの鼻先に差し出される。
血に染まったのも君のため。あらゆる鏖殺を引き受けたのも、光り輝く君が汚れないため。
君の栄華の礎になるならば、僕は恩義ある神々だって殺してみせる。
勲章ごと骨の手を握りしめる、骨ばった大きな手。
骨だけになっても瓜二つな男達は、死によって引き裂かれる。
そうして魂は死神の手に渡り、巨体スケルトンの生命核は粉のように砕けて大地の上へと落ちていく。
「どうして……」
昔からそうだった。何をされてもニコニコと笑い、ハナヤを褒め称える。
最後まで文句の一つもこぼさず、綺麗な言葉を置き去っていく。それがどれだけ忌々しく、鬱陶しくてもどかしかったか。
どうしてお前はそうなのだ。純粋無垢というには歪なくせに、美しいくらいにまっすぐとこちらを見つめてくる。
「だから私はお前を殺すしかなかったのに」
その綺麗な瞳で見ないでほしかった。星を眺めるような、憧れの眼差しに耐えられない。
賞賛の言葉を聞くたび惨めになって、与えられたという事実に吐き気が込み上げてくる。
それでもお前がいない人生など考えられないくらい、私の半身だった友よ。
出会わなければよかったのに、どうして出会えてよかったと感謝するのだ。
友よ。もう二度と会えぬ理想の私だった美しきお前よ。
弱い私に復讐を果たせ。罰してくれ。感謝など建前だと言って、罵倒を吐き散らかしてしまえ。
でないと私は救われないのだ。
お前は生涯消えぬ傷を私に残した。
感謝という形で、私を最底辺へと貶めたのだとわかっていないのだろう。
最後まで美しいお前を、私は死んでも忘れることはできない。
遺骨を抱きしめたまま泣き続けるハナヤの背後。
巨体スケルトンの辿り着いた先を見届けたヤドロギは、マンドラゴラよりも醜い顔を歪ませる。
夢が叶ったんだね。
瘴気の中を彷徨い続ける圧倒的な存在。小さな王国など瞬時に塵芥に変えてしまった強者。ヤドロギの世界を変えた誰かへ。
醜い顔で笑う。嬉しそうに、今にも砕けそうな生命核の終わりを感じ取りながらも。
頑張ってよかった。
少しは助けになれたのなら、ついてきた意味があった。
言語化できないヤドロギの思考はそんなもので、もう動かない巨体スケルトンの残骸を見て笑う。
ありがとう、世界を変えてくれて。
そしてヤドロギの生命核が真っ二つに割れた。
魔導剣士の剣で切り裂かれたのを最後に、ヤドロギの声にならなかった思考すらも命と共に消え去る。
そして群れていた寄生魔物達の多くが同時に生命核が砕け、寄生されていなかった魔物は頭角魔物が倒されたことで散り散りに逃げる。
こうして浄化遠征に現れた魔物の群れという脅威は、静かに終わりを告げたのであった。




