第47話「弱者の強さ」
男神の傷が塞がらない。
大地の割れ目はびくともせず、聖女の額に汗か浮かんだ。
手応えはあるのだ。大岩を動かそうと全身を押しつけて力を込めるような感覚。
大地の割れ目に意識を集中させると、三人を守る浄化の力が弱まる。
腕を掴む騎士二人の手に力が込められて、顔を上げれば半径三メートルまで狭まった身を守る浄化の光が激しく明滅している。
慌てて安定させると、大地の割れ目は放置。いつまでも進まない浄化に、焦りすら感じた。
瘴気の中でカタカタと骨が鳴る音が聞こえる。
魔物にとってこの環境は常時と変わらないようで、それに見つからないようにと祈り続ける。
二人の騎士が戦えるほどの余裕はない。もしも襲われたら、二人が体を張って聖女を守ることになるだろう。
早く終わらせないといけないのに。
砂の一粒も進んだように見えない。
視界を遮る瘴気のせいでわかっていないだけで、どこかでは治っているかもしれない。
畑一つは余裕と言われたが、それですら追いつかない広大さ。これで小さいのだとしたら、他はどれだけの規模なのか。
一回で終わらない。この浄化遠征が成功したとしても、また次の傷を治しに行かなくてはいけない。
下唇を噛む。目頭が熱くなるが、汗が瞳に入って痛みをもたらした。
期待に応えてみたかった。誰かを助けられる存在になりたかった。幼い頃の自分に誇れるような何かに――。
「聖女様」
恐々と声をかけてきたのは間抜け騎士だ。背中に大盾を背負っており、そこからカンカンと音が聞こえる。
小石がぶつかるような、些細な音。しかし足元に散らばっているのは矢。音は断続的で不定期だが、数が増えている。
男装女騎士も盾に身を隠すように縮こまっており、聖女の体は二人の騎士に守られている。
「逃げたくなったら言ってくださいね」
弱々しい、臆病な笑顔。
目を見張る男装女騎士が何かを言う前に、優しさという弱さを持っている騎士は告げる。
「何度も逃げて、何度も立ち向かいましょう。
僕もできる限りお力になります」
いじめっ子から逃げても学校に通うように、屈強な先輩に脅されても騎士を続けるように。
何度も折れた。そのまま投げ出してしまえばいいものを、修復してはどうにか真っ直ぐ見えるように整える。
強いからではない。弱いから、そうすることしかできなかった。けれど今だけはそれが少しだけ誇らしい。
カンっ、カカンっ。
音が増えていく。隙間を縫うように脹脛に突き刺さった矢を悟られないよう、間抜け騎士は笑顔のまま答えを待つ。
痛い。怖い。騎士として鍛えられた弱い自分でもそうなのだから、聖女はもっと恐怖を感じているはずだ。
「ごめんなさい……」
汗か、涙か。目の縁に雫を浮かべた聖女は、絞り出すように告げる。
「諦めたくないの」
目元を強く、荒々しく拭う。そして両腕を突っ張って、男神の傷を癒すことに力を注ぐ。
そんな聖女の姿を見て、間抜け騎士は呆れたように言葉を漏らす。
「強いですね」
選択肢を与えられても逃げない異世界の少女。
男神にこの心が届いて、自己治癒でどうにか解決してくれたらいいのに。
無情にも大地の裂け目は広がったまま。いまだに塞ぐ兆候は見られない。
「ツコネ殿。聖女様を任せたぞ」
「レイさん?」
「私には護符があるからな。露払いは任せろ」
男装女騎士がニッと勇ましい笑顔を浮かべ、いつの間にか間抜け騎士の耳から盗んだ耳飾りに触れる。
その指先には血と土が付着しており、間抜け騎士は慌てて足元へと視線を向けた。
指が血で湿った土を引っ掻いた跡が残っている。盾では防げなかった傷を、彼女は知ってしまった。
護符などお守り程度。割れ目付近の高濃度瘴気に対して、効果が及ばないのは自明の理だ。
だからこそ走り出そうとした聖女を止めたというのに、狙いを定めた矢が飛ぶ音の方角へ向き直る。
すっと男装女騎士が立ち上がったことも気づかず、聖女は割れ目に向けて手を伸ばし続けていた。
狭まった半径二メートルの浄化範囲。
そこから静かに離れた男装女騎士は、仲間に向かって穏やかに告げる。
「君は聖女様から離れず、死ぬまで守ってくれ」
戻ることを約束せず、男装女騎士は駆け出した。
陽の光も通さない瘴気のせいであっという間に姿が見えなくなり、足音すらも遠ざかってしまう。
止めることもできなかった。傷を隠すこともできなかった間抜けぶりに、激しい自己嫌悪に陥る。
それでも聖女から離れることはできない。
盾として守れるのは間抜け騎士だけ。ぴったりとくっついてわかる、少女の小さな体を守れるのは一人だけ。
涙を堪えて祈る。全てを救える可能性があるのは、この少女だけなのだ。
骨が鳴る音、矢の風切り。その全てを皮膚と聴覚を頼りに察知し、紙一重で避けては距離を詰めていく。
息苦しさと体の鈍重、臓腑が痛むくらいの嫌な熱さ。どろりとした溶岩の中で動いているような、想像でしか補えないような環境。
それでも足を止めることはできなかった。臆病で、いつも訓練のつらさに泣いていた騎士が――傷の痛みを伝えなかった。
男装女騎士が触っても気づかないほど、深々と何本も突き刺さっていた。痛みのせいで、皮膚感覚が麻痺していたのかもしれない。
血の流れを辿って、濡れた土に触れた。水音がしたことも聞こえないくせに、聖女に対して笑顔で問いかけていた。
同じ神聖騎士団にいたが、直接話したことは一度もない。彼はいつも先輩相手に気弱な笑みを向けて、下っ端のように働いてはドジな失敗を繰り返していたことくらいしか知らない。
それでも浄化を必死にやり遂げようとする聖女に、彼は優しく接していた。
自らの弱さを封じ込めて、痛みを堪え続けて。聖女の負担にならないように、彼女の心や体を守ろうとしていた。
騎士として素晴らしい姿に男装女騎士は――嫉妬した。
すぐにそのことを恥じたが、一度自覚した感情を消すことはできなかった。
そして犠牲を良しとした自身の発言を思い返して、耳で揺れる飾りの存在を思い出す。
犠牲は少ない方がいいかもしれないが、最小数で抑えられるほど甘い世の中ではない。
騎士として、華々しく散りたい。
誰も見ていないのだとしても、聖女のために命を賭けてみたい。
心と体のズレを誤魔化すためになった騎士とはいえ、間抜け騎士の姿に触発されて目指してみたくなった。
物語の中で語れるような存在。男女すらも超越した、人間の善性に偏った行動。
誰かを悲しませることになったとしても、やりたいことなのだ。名誉や栄光も放り投げて、与えられた細身剣に自らの期待を乗せる。
胃の奥から迫り上がる酸味と鉄臭さ。それを一気に吐き捨てて、口元に笑みを浮かべながらカタカタと音がする場所へ刃先を向ける。
刺突の乱舞。
無数の技によって繰り出された攻撃に、弓兵隊として行動していたスケルトン達に為す術はなかった。
あっという間に五体倒され、護衛として周囲を守っていた剣士スケルトン三体も瞬時に細切れ。
骨の硬さもものともしない美しい剣術は、瘴気の中で目撃者もいないまま爛々と輝いていた。
十五体倒したところで骨が鳴る音は消えて、男装女騎士はその場で膝をつく。口からだけではなく、鼻や目……耳からも血が流れている。
限界が来たのだと思い、それでも笑う。生まれて初めて、自分らしく走り抜けることができた。
それだけで誇らしい。
満足した様子で倒れようとした男装女騎士の耳に、血の音以外が響いた。
ボタっ、ボトトっ。
大量の水がこぼれ落ちる音。顔を上げれば、暗い瘴気の中でも輝く白い光が近づいてきた。
闇の中で輝く星のように。鎖の先で揺れる洋燈がゆったりと現れた。
持ち主の姿もぼんやりと浮かび上がり、無事だったことを喜ぶよりも驚愕が全身に衝撃を与える。
乱雑に縫われた腹の傷口。両脇腹を渡る大きなそれは、本来赤い肉の部分が透明な皮膜で覆われている。
傷から溢れるのも透明な液体。無臭のそれはどう見ても水であり、止まることを知らないほど流れ続けている。
「ライム殿、君は……」
人型ではあるが、人間ではない。
正体を知った男装女騎士が警戒するが、体には力が入らない。
肩で息をするだけで痛みが意識を奪おうとしており、視界もぼんやりと曇ってきた。
「ハルカを助けにいくぞ」
最初の部分は聞き取れなかった。
しかしカチリと硝子扉が開き、何もない中身がほんのりと白く輝いている。
するりと喉越しのいい聖水を飲んだ時のように、体の痛みや重みといった不調が穏やかに消えていくのを感じた。
「何を……」
「お前が死ぬと、ハルカが悲しむだろう。
それは面倒だからな」
優しさとか情けではないことは、言葉からも感じ取れた。
しかしどうにか動けるようになった男装女騎士は、騎士服の袖で顔面の血を拭い取る。
手も貸さずに歩き始める人型魔物はフラフラとしており、今にも倒れそうだ。それでも洋燈が鎖の先で揺れて、方向を示すように光を放っている。
「待て。どうするつもりだ?」
「聖女を助ける」
背中を向けたまま、淀みのない答えが返ってきた。
わずかに戸惑うが、すぐに光を追いかける。
「……」
信じていいかわからない。
けれど不思議な力があり、それに助けられたことは事実だ。
少しでも怪しい動きをしたら斬り捨て、大地の裂け目に叩き落とす。用心しながらも、男装女騎士は人間に擬態していた魔物と行動を共にするのだった。




