第46話「戻っては進んで」
大地の裂け目上空。
足元に広がる虚の大きさに、聖女は顔を青くした。
間欠泉のように穴が空いていて、それを塞ぐ程度だと思っていたからだ。
絶壁が見えるのに、底はどれだけあるのか不明。
川のように長く、大河のように幅広。谷や崖といった、自然が作り上げた広大な規模の割れ目こそが、男神の傷。
浄化遠征前に聞かされたのは「最初の浄化に相応しい、小さいものである」ということ。
男神の体は大地の全て。
これで小さい傷というのならば、大きなものは街すら呑み込んでしまえるだろう。
黒と紫が混じる霧の中へと落ちていく。どれだけの速度が出ていても、所詮は大盾。こんな割れ目を乗り越える前提ではない。
落下死。
三人の脳裏にその単語がよぎる中、人型スライムは片手を間抜け騎士から離す。
指先が向かうのは腰に括りつけた洋燈。硝子扉を強引に開き、桃色と黄色の二色糸を盾へと突き刺した。
誰にも見えない糸がするりと盾の中に溶けていくと、急に突風が四人の背中を押すように吹き荒れた。
聖女は男装女騎士にがっしりとしがみつき、間抜け騎士の腰を男装女騎士が力強く抱えている。
ゴッ、と割れ目と大地の境目に盾の側面が当たり、投石機のように乗っていた全員を放り出す。
ベルトを掴んでいた間抜け騎士ごと盾は大地の上を滑り、わけもわからずに目を回す三人。ゼェハァと息を吐きながら、鼓動が少し静まる頃に状況を把握する。
幸運にも助かった。
ギリギリだった。少しでも盾の着地点や角度がずれていたら、瘴気に満ちた奈落へと真っ逆さまに落ちているだろう。
いくら聖女が浄化の力があっても落下による全身打ち身には耐えられないだろうし、運良く生存しても濃厚な瘴気で十分も経たずに死神のお世話になっていた。
盾の上で寝そべっている三人だが、急にむくりと聖女が起き上がる。
「ライムさんは!?」
盾の上に人型スライムは乗っていない。
思い出してなんとなく感じ取っていたのは、片手だけになった彼の体が宙に浮いた後、ふわりと離れたことだけだ。
地面に転がって動けないのか。それとも大地の裂け目に落ちてしまったのか。
「聖女様、動かないでください!」
「でも……」
「我々が死んでしまいます!」
慌てて駆け出そうとした聖女の体を必死に抱きしめながら、男装女騎士は叫ぶ。陽の光さえ届かない深淵のような、高濃度の瘴気が周囲を漂っている。
昼間なのに夜のように暗く、体の一部に触れていなければ相手の存在を認識することすら難しい。
震える指先が肌に食い込むのを感じ、聖女は抵抗するのを止めた。人型スライムのように瘴気の中を平然と動く方が異常なのだ。
人間である騎士二人は、聖女の浄化範囲から外れてしまえば苦しみながら死に向かう。血の塊を吐いた襲撃者を思い出し、その苦悶は想像を絶するであろうことは確認している。
間抜け騎士も涙目で聖女を見つめるが、その表情は至近距離でも読み取りづらい。浄化をすると周囲がほんの少し明るくなるが、聖女の力は高濃度の瘴気の前では風前の灯に近い。
今にも消えそうな白い輝きが、黒と紫だけの世界で浮かんでいる。明滅を繰り返すのは、力が不安定な上に瘴気に押し負け始めているからだ。
「聖女様。ライム殿は諦めて、大地の裂け目をお塞ぎください」
「……」
「彼一人の命と引き換えに多くの者を救ってください」
酷なことを告げている自覚があるのだろう。どれだけ毅然としていても、声がわずかに震えている。
異世界に来て初めて助けてくれると言ってくれたのは、魔物である人型スライムだ。
それを見捨てることしかできない状況に歯痒さを覚えながら、聖女は二人と肩を並べて割れ目へと近づく。
消防訓練で煙の中を移動する小型ハウスを思い出す。歩くだけで霧のような瘴気が動くのだが、まるで水の中にいるように重みを感じる。
一歩進むだけで体がぐらりと揺れそうになり、喉の奥がチリチリと痛む。浄化の範囲を狭めれば少し軽減するが、完全に防ぐことはできない。
その違和感を二人の騎士も感じ取っているようで、ぬいぐるみに抱きつく子供のように距離を詰めてくる。
足元に目を凝らし、大地の裂け目前で足を止めた。
向こう岸が見えない。瘴気のせいで視界が悪いのもあるが、それでも世界の果てに立っているような気分に陥る。
数歩踏み出せば、全てが消えてなくなるような。虚無に同化するという想像をしてしまい、生唾を音を立てて飲み込んだ。
「聖女様」
「どうかお願いします」
緊張と重圧が増した。失敗したら、命と引き換えに終わるのだ。
自分だけの人生では済まない。他者の人生すら委ねられてしまったことを、強く意識してしまう。
――この世界の問題は、愚かな人類のせいだ。
今になって人型スライムの言葉を反芻してしまう。
聖女は、異世界の人間は、何も関係ない。悪いところなどなく、解決するべきという責任を押し付けられる謂れもない。
最初から見抜いていたのを、幼い頃から抱えた野望のせいで振り払ってしまった。
だから逃げない。
夢を叶える瞬間がやってきたのだ。
浄化は意識するだけで簡単にできる。
普通の魔法使いの場合は頭の中に数式を浮かべ続けるのと同じらしいが、聖女にとっては「綺麗になれ」くらいで済んでしまうのだ。
それを聞いた魔導騎士は驚いていたが、その後に少しだけ表情が翳ったのを知っている。
恐怖と期待がごちゃ混ぜになった胸の中をスッキリさせるため、一回だけ深呼吸。
そしてゆっくりと膝を曲げて、男神の傷に向けて両腕を伸ばす。
どんなに小さいのだとしても、傷は痛い。
視界を遮る瘴気は血の濃さのようで、見ているだけで胸が痛くなる。
治りますように。そういった祈りを込めながら、浄化を始めるのだった。
――こんなところで死んじゃ駄目よ?
――もっと相応しい瞬間にお願いね。
一方的な声が人型スライムの頭で響く。好き勝手な女神が、くすくす笑いと一緒に落とす言の葉。
大地の上に転がった洋燈がぼんやりと光り、燃える白炎を意思が宿らない青い瞳で眺める。
落ちる拍子に尖った岩が腹を突き破った。流れ出る水が止まる様子がない。ごぽ、ごぼりと噴き出る感触を味わうたびに力が抜ける。
大地の上に寝そべって思い出すのは、灰だらけの故郷だ。
魔物として故郷と呼ぶのが相応しいのかわからないが、それでもスライムとして何も考えずに生きていた場所。
愚かな人類の手で焼かれた広大な土地が、転生に失敗した人型スライムが初めて見た光景だった。
眼前に広がる焼け野原の真ん中で、女神から与えられた洋燈だけを持っていた。
落胆だけが胸中に傷を残し、見たこともない美しい故郷という幻想が感情の根底に芽生えてしまった。
人型スライムが頑張る理由はどこにもない。女神にとって都合のいい条件が揃っていただけの、いつでも切り捨てられる駒。
最初から世界の全てを諦めていたのだから、このまま死んでもいいだろう。
女神の気まぐれで転生したものの、結局答えは変わらない。灰に埋もれてカラカラに干からびていた頃に戻るだけ。
――俺が信じたいのは、こいつが聖女様を助けると言ったことです。
――それが間違っているなら、この命を捧げる覚悟でここにいます。
カラカラと糸車が回る。白炎に力が戻ったのを喜ぶように。
――怖いよぉ。
――死にたくない。
洋燈の硝子扉が誰の手も借りずに開き、しゅるりと糸を伸ばす。
それは透明な糸だった。人型スライムの腹へと伸びて、自らの力だけで皮膚に突き刺さって縫い付けていく。
ぎゅっ、と傷口が縛られて塞がった。腕に力を入れ、這いつくばりながら洋燈へと手を伸ばす。
「本当に愚かな奴らばかりだ」
転生失敗したスライムには荷が重い言葉ばかりを投げつけて、何を期待しているのか。
肘を使って進む。もう少し力が戻れば立ち上がることもできるだろう。
頑張る理由はどこにもない。
ただ、少しだけ。無視するには関わり過ぎてしまった。
死ねない理由ができてしまった。結局、灰に埋もれてカラカラに干からびていた頃と同じだ。
生死への感情など、こんな簡単に動く。
膝を曲げて、腕を掲げる。ペンデュラム型の洋燈が行き先を示すように揺れて、白炎が糸車を回しながら金粉に似た輝きを強く散らす。
それは陽射しすら遮る瘴気の中で、一つでも輝く星のように燃えていた。




