第45話「行間とも閑話とも」
――これが今日からお前の偽物だ。
父親が連れてきた子供は貧民街の最悪な場所から来たのだろう。
垢まみれの青痣だらけ。おかげで肌は黒く、黒髪であることも合わさって全身が煤のような少年だ。
しかし前髪の隙間から覗く赤茶の瞳がじっとこちらを見つめている。キラキラと宝物を見つけたような、好機に喜ぶ輝き。
身なりを整えて、髪型を同じにしてしまえば瓜二つ。
一番仲がいい姉ですら見分けつかなくて、母親など興味がないと見向きすらしなかった。
偽物にも名前が必要で、本物に近い方がいざという時面倒が少ない。
バカア・ダーナ。
ハナヤ・カーナの偽物はニコニコと名前を受け取った。
教育から食事、剣術の稽古や風呂と寝食の時間まで。
全てを同じにした。ズレがないように、美術品の最高傑作をもう一個作るのと同じくらいの熱意を注ぐ。
ハナヤも最初は楽しかった。兄弟のようで、親友のようで、恋人のような。常に全てが同じであることは、絆を深めるのに最適だった。
バカアは全てが同じとはいえ、常にハナヤを尊重した。
表立って彼を讃えることはしなかったが、二人きりの時はいつものニコニコ顔でハナヤのことを褒めるのだ。文学の解釈が面白い、僕にはない発想を持っていると。
しかし少しずつ、全てが同じはずの二人がすれ違い始める。
騎士団に入ってから、二人は入れ替わるように業務に携わった。
一日ずつでは違和感が大きいので、休日が訪れると交代するようになった。毎日夜には昼間について細かく共有する。
片方が騎士団で業務をこなしている間、もう片方は屋敷で貴族として必要なあらゆることを叩き込まれた。
ハナヤが自覚したのは、騎士に向いているのはバカアということだった。
彼はいつも笑顔を絶やさず、どんなつらい訓練にも弱音を吐かない。常に周囲を気にして、適切な言葉をかけることを忘れないのだ。
剣術の腕もいつの間にか抜かされて、同僚からのいい評判は全てバカアのものである。
貴族としての仕事はハナヤの方が得意だったのは、生まれた時からそれしか知らないからだ。
年老いた父親の言う通りにしていれば、全て上手くいく。ハナヤは次第に騎士団の業務を嫌がり、ほぼ全てをバカアがこなすことになっていく。
騎士団に入って十数年経った頃、大きな戦争が起きた。隣国との境目で鉱山を奪う程度だったのが、周囲の領地を焼くほどの規模に拡大した。
河ができるほどの血が流れ、天に届くような激しい戦火が血を吸って燃え上がる。
そこで才能を発揮し、大躍進を遂げたのはハナヤの偽物であるバカアだった。
人望を武器に類稀なる戦術でいくつもの作戦を大成功させ、家系継承流派で華々しい戦果を獲得した。
そして国王から勲章が贈られた。
血を焼くような戦争を忘れないように、赤の宝石と橙色のリボンで飾られた素晴らしいものだ。
式典にて貴族であり騎士としても相応しい服装に身を包み、粛々と勲章を受け取ったのはハナヤであった。
酒を酌み交わし、バカアは昔と変わらないニコニコ顔で告げる。
戦火で焼かれた領地の復興が早くなったのは、君の手腕のおかげだ。避難民達も迎え入れられた先で幸せそうに過ごしているのは、君が頑張っているから。
ハナヤの胸で輝く勲章をうっとりと見つめながら、バカアは子供の頃と同じように本物を褒め称える。
偽物として誇らしいと言わんばかりに。
ハナヤが本物で良かったと喜ぶように。
剣術で努力しても追いつかなかった劣等感を知らないまま。
誰かに好かれようと笑顔の練習をしても、周囲は具合が悪いのだと心配する歪な表情を見ないまま。
騎士としての最高の栄誉を譲られたという屈辱を感じないまま。
ニコニコ笑う。無邪気で、罪悪を一切感じさせない微笑み。
一滴に込めた感情はなんだっただろうか。
あまりにも混ざりすぎてどす黒くなっていて、一言では表せないほど煮詰まった邪悪。
男神が抱える混沌の海から搾り出されたような、全てを害する存在。
床に倒れた男は、喉が詰まりながらも必死に呼びかける。
「友よ……友よ……」
助けを求めて、足元に縋りついてくる。
戦場で数多の敵を屠り、その行為を国中から称賛される素晴らしい騎士。
それが弱々しく頼ってくる姿に、仄暗い愉悦を感じる。彼の口から吐き出される真っ赤な血が、熟成された酒のように美しく思えた。
「馬鹿だな」
泣きながら絶命した男に向けた最後の言葉は、侮辱だった。
胸がすっと晴れるような心地で、清々しい気持ちで満たされる。
三十年近くも抱え続けたあらゆる感情に区切りをつけられた。死の旅の選別代わりに、血に染まった騎士服の胸元に勲章を飾る。
始末を終えて、最早ベッドから起き上がれなくなった父親に全てを正直に告げた。
「よくやった」
最高の機会にやり遂げたのだと、生まれて初めて父親から褒められた。
バカアは最初から殺されるべき存在だったのだと、そのために用意された影武者だとようやく理解した。
剣術の、騎士の才能がないハナヤのために活躍して死ぬために生きてきた。それを知っていたのかと聞こうにも、体はすでに遠い田舎へ捨てた。
そしてバカアが積み上げた功績と、死去した父親の全てを受け継いで――ハナヤは伝説の騎士になったのだ。
死神の手が伸びる。魂が瘴気で狂わないように、次の機会を謳歌できるように。
全ての魂を管轄するために、バカアの魂へと触れた。嘆きと悲しみで溢れた、一度だって自分の幸せのために生きたことがない生命の輝き。
――死神よ。男神よ。どうか我が願いを聞き遂げてくれ。
するりと、抵抗もなく死体から魂が摘み出される。
死者の声に耳を貸さない。何故なら死神は骨とマントだけ。美醜などわからない。それは声ですら同じである。
がらんどうの耳穴に向けて、男の懇願は続く。どうしても、伝えなければいけないことがあるのだ。
――我が友にもう一度会わせてくれ。
魂を保管する透明な容器の中へ落ちる寸前、魂が命の慟哭を上げる。
――一度だけでいいのだ!!
骨まで響く声は、死神の指を止めた。
眠りから少し目覚めた男神が、声をかけてきたのだ。
――女神よ。如何する?
――運命の糸を紡ぎましょう。
――ならば死神よ。過酷な試練と共に与えてみせるがいい。
田舎の崖の下。誰も知らないまま瘴気が堆積する谷底で。
ゆらりと立ち上がる魔物。スケルトンにしては大柄で、血に塗れた勲章付きの騎士服と刃こぼれした大剣を引きずって歩き出す。
瘴気の中で血肉は腐り、骨からボトボトと落ちていく。前へ、ひたすら進む。何も見えず、聞こえず。それでも行き着くべき場所へ。
友よ。我が友よ。
もう一度。たったそれだけでいいのだ。
我が命の慟哭を聞いてくれ。我が感情から迸る咆哮を感じてくれ。
友よ。我が友よ。
僕は君を――したい。




