第114話「救えなかったもの」
血で錆びついた斧の刃に美しい顔が映ることはなく、地面に倒れた体は何が起きたかもわからないまま痙攣していた。
指先には力が入らず、するりと抜け落ちるように逃れていく人型スライム。
力なく倒れた体に向かって、いっそ美しいと思えるほどの笑みを浮かべるのは転生に失敗した魔物。
「そうなると思った」
布袋で隠された顔。それに視線を向けられるだけでブレる殺意の糸。
女神への純粋な信仰を持つ美しい男が、真っ直ぐに見つめれば。あっという間に縁は結ぶべき場所を変える。
処刑人は仕事をこなすこと以上に、真っ直ぐ見つめられることを意識するのだから。
斧の刃は空を切り、両腕が上がってガラ空きになった胴体に間抜け騎士が盾を構えながら突っ込んだ。
大斧を弾き返した衝撃で震える槌のせいで、酔っ払い騎士の腕は痺れて使い物にならない。
そんなやり取りを肌で感じながら、大神官は自らの首に触る。傷ひとつなく、突き飛ばされて受け身も取れなかった背中が痛いだけ。
心臓だけが破裂しそうなほど動き回って、脳は思考を止めている。
騙された。敬愛する女神の使徒とも言える、人類の自滅機構である人型スライムに。
信仰の末に、偉大なる存在に邪悪な意思で見捨てられたような。何も知らずに命を失った方がまだ幸せだったかのように。
静かな絶望だけが、全身を沈めていく。
「どうして」
あらゆる疑問を並べた先に、出てきた言葉はたった一つで。
見下してくる青い瞳に、縋り付く子供のように答えを求める。
善良に生きて、神に愛と祈りを捧げ、世界を守るために走ってきたのに。
「救えなかっただろう」
突きつけられた事実が、あまりにも重かった。
初めて神への怒りが湧いて、喚き声で反論したくなる。
ちっぽけな人間一人に、国や社会に立ち向かえるほどの強さはない。その全てが納得できるような神子を選んでくれたのならば。
言い訳だとわかって、言葉の代わりに涙が滲む。
天の女神が求めているものはそんなものではないと、信仰しているからこそわかる。
時に慈悲深く、気まぐれで、苛烈な。意地悪なようで優しく、嘲笑の中に愛が混じるような。人間らしさと神性の融合。
愛想を尽かしたけれど、反省の機会を与えてくれた。運命の女神による譲歩を、大神官は理解するが――規模の大きさに太刀打ちできない。
愚かな人類の反省など、世界全ての人間を導くなんて。
それは奇跡が起きても届かないような、遠い話なのだから。
「そんなに人間が憎いのですか?」
絞り出すように問いかけて、すぐに返ってくると思ったものがいつまでも聞こえない。
感情が読み取れない顔。人類の自滅機構は沈黙したまま動かない。
「…………?」
処刑人と攻防を繰り広げる騎士二人も気になるが、人型スライムの反応に引っかかりを覚える。
復讐は憎しみの先にあるものだと思っていた。世界の終わりを願う気持ちとは、怒りが含まれると考えていた。
もしも、違うとしたら。
「……」
決めつけた。また、同じことを繰り返した。
一人目の神子の時と同じように、変わらないものだと頭から信じ込んでいる。
本当に変わっていないのは自分自身で、全く反省していない。
それは女神も見捨てる愚かさだ。
「申し訳ありません」
誰に向けたかもわからないように、謝罪を口に出す。
人型スライムが不可解そうな表情になったので、それが少しだけおかしくて微笑んだ。
「私が為すべきことは、布教ではありません」
女神の素晴らしさを知っている。運命の残酷さや過酷さも、それを乗り越えてきた人類の足跡の偉大さも。
いつか誰かの心を救うこともあるだろう。変化のきっかけにもなるだろう。
しかし今必要なのは、そんなものではない。
立ち上がって、駆け出す。
大斧が槌を薙ぎ払い、酔っ払い騎士の脳天へと振り下ろされるのが、やけにゆっくり見えた。
盾を構えて走っている間抜け騎士では間に合わないのも、自然と理解してしまう。
林檎など容易く握りつぶしてしまえそうな手を掴み、肩に食い込んだ刃から意識を逸らす。
あと少しでも力を込められてしまえば、心臓に届くような位置。出血は白い官服を染めて、地面へと垂れていく。
痛みに頭の中を掻き回されながら、大神官は震える声で問いかける。
「貴方のお名前は?」
処刑人について何も知らない。自分の考えを押し付けようとして、かえって傷つけてしまった気がする。
本当は全く意に介してないかもしれないけれど、そんなことは横に置いて笑いかける。
「教えてください」
一人目の時にはできなかった、自己紹介。誰もが当たり前のよう知っている「神子」だったから。
他人が全てを共有して、お互い知り合いのようなものだと思っていた。もしかしたら彼はずっと待っていたかもしれないのに。
簡単な挨拶。友好の一歩目。子供ですら知っている、なのに忘れがちなこと。
「……ナイ」
「それは」
「名前ナドナイ」
危うく先走りかけたことに気づく。当たり前にあるものだと、また決めつけてしまった。
けれど斧に込められた力は少し緩んだ。心臓への危機は遠去かったが、油断はできない。
「必要ナイ」
「それは誰から?」
「先代」
――――――;
処刑人についてはあらゆる情報が秘匿される。彼らについて知れ渡れば、それを利用するものが出てくるからだ。
ならば、最初から情報を作らない。名前や出生記録、家族や出身地、あらゆるものが根底から存在しないもの。
そして「処刑」以外では生きられない成り立ち。
少なくとも先代処刑人はそう考えて、あらゆるものを抹消できる土地に赴いて探し出した。
零ではない。けれど一から遠く離れた生命。誰か消えればいいとゴミ捨て場に落とした、救われない者。
価値を見出した先代処刑人はそんな赤ん坊を育てた。全ては仕事のため、価値を認められるため。
愛を知ってはいけない。
常識を学んではいけない。
親しみを覚えてはいけない。
そして処刑人が立派に罪人を殺したことを見届けて、満足そうに死んだ先代。
育て親を罪人として殺すことが最初の仕事だった処刑人は、喜ばれたことを胸に刻んだ。
誰もが顔を見ては恐れる風貌も、性別すらもわからなくなる肉体も、従うことしかできない頭脳も。
この仕事だけが全てを認めてくれる。
名前がなくても、愛がなくても、人間としての当たり前を持っていなくても。
救われるのだ。神の教義よりも、仕事の信条。罪には罰を、悪人には死を。
なのに何故。
人間としての当たり前を全て持っている男は。
こんなにも悲しそうなのだろうか。
まるで自分がそうだったら苦しいかのように、泣きそうなのだろうか。
名前などなくてもいいはずだ。役職名だけで、生きていける。
処刑人はずっとそうだった。育て親すら、必要としなかったことだ。
それを憐れむというのならば。
処刑人の人生を否定している。
大斧を握る手に力が込められ、刃がゆっくりと沈む。
心臓到達まで、あと少し。




