第110話「他人に握られた生殺与奪」
この世には特別なものがある。
それは忌々しくて、愚かしくて、咎められるもの。
喜ばしい。素晴らしい。歓迎しよう。
死を与えよう。
苦痛を捧げよう。
時間と空間から解放しよう。
生を奪おう。
幸福から遠ざけよう。
因果と運命から断ち切ろう。
潰すと心地よくて。
叩くと褒められて。
この全てを掌握できたことに、陶酔できる。
特別なそれを、処刑することが仕事。
世界に認められるために必要な、最高の所業。
罪業を許されて、醜悪が役に立ち、責任ある立場だと賞賛される。
誰も取り下げなかった。
国の終わりを前にしても、世界の終わりを知ったとしても。
この仕事の終わりを誰も告げなかったから、使命を抱いて殺すのだ。
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大神官の後悔は、人型スライムにはどうでもいいことだった。
終わった話である。そして人型スライムの死をきっかけに、全人類が同じ目に遭うのだから。
違うのは混沌の海に後悔など存在しない。未来も過去も無に帰って、あらゆる痕跡が呑まれて消える。
「お前達は悪いものを排除しただけだろう」
――免疫ってそういう感じだもの。
体の免疫機構が、体内に入った悪性を取り除くのと同じことだ。
それが過剰反応して体に害を起こすことがあったとしても、防衛であることは変わらない。
人間の善悪は免疫機構に似ていて、それを判断力として動き出すだけ。
「それは正しいことだ」
――間違いだったのよ。
矛盾しているようで成立する。人型スライムと女神の言葉は、そういうものだ。
いずれ人類にとって障害になるものを事前に排除したことは正しく、そのために世界の終わりを引き寄せるような間違いを犯した。
たった一人の命を奪う重さは、善性の強い大神官を押し潰すほどのものである。
「おい、執事」
「なんでしょうか?」
「あとは任せ」
人型スライムの言葉が途切れる。
尋常ではない筋力は手足の太さが証明しており、二メートルの大きさと重量感のある武器を腕力だけでまとめて跳躍。
王城で見た覚えがある処刑人が、大斧を振り上げて空中を飛んでいた。
その刃の先には若返った老執事。
洋燈の硝子扉を開こうとして、指先が空を引っ掻く。
腰紐で固定していたはずの洋燈が、いつの間にか消えていた。
屋敷全体を揺らし、屋根を打ち砕く衝撃。波が広がるように瓦解し、人型スライムは逃げることもできずに落ちていく。
瓦礫の上で寝転がりながら、目を丸くする。縋りついてたはずの大神官は、落ちる頃には離れていた。
そして処刑人が重みを感じさせる足取りで近寄ってくる。大斧には鮮血が付着し、赤い絨毯の色を濃くしていた。
悲鳴を上げる家人達が逃げ惑う声、あまりの威力に混乱する用心棒の群れ。誰もが破壊の痕跡から逃れるため、外へと向かっていく。
「処刑デス。罪ハ貴方ヲ罰シ、死ニヨッテ償ワレルノデス」
聞き取りづらい嗄れた声。喉を潰された格闘家のように、性別を不明にしている。
骨壷騎士よりも巨体で、筋肉が太い。まとう服はボロ切れで、大事な部分を隠すだけに留まっている。
人型スライムとしては願いが叶う申し出なのだが、肝心の洋燈がどこかに消えた。
全裸に抵抗はないが、何度も服を破かれるのはごめんである。布地が千切れる時の感覚は、皮膜が傷つくのに似ている。
傷つきたいのではなく、死にたいのである。目的が異なることに時間を割くのは、人型スライムから見ても非効率だ。
「首ヲ差シ出セ」
「それでは死ねない」
心底困ったように告げる人型スライム。歩みを止めた処刑人は、紙袋のような頭巾の覗き穴から視線を落とす。
王城で挽肉になる程叩き潰しても、どれだけ切り捨てても、目の前の罪人は何度も復活したのだ。
最初は何度も仕事をこなせると喜んだが、次第に苛立ちに変わっていったのを覚えている。
そして魔物の弱点である生命核を、生まれて初めて見た。
人間だけを殺してきた処刑人にとって、人間の心臓よりも美しいと思えるものだった。
あれを壊したら、もう二度と戻ってこない。一瞬の支配に伴う歓喜はどのようなものだろうか。
第二王子は命令を取り下げなかった。
国王は最初から処刑人を見ていなかった。
王城にいた誰もが止めることすら忘れていた。
仕事のため、自分のため。真っ直ぐ追いかけてきた処刑人は、求めるものを探す。
覗き穴から見える瞳の色は純粋な銀。汚れなどないような、磨かれた食器のような輝きを宿している。
筋肉によって形成された体躯の中で、その色は鋭くも綺麗なものだった。
「何処ニ隠シタ?」
「自分が聞きたい」
魔物と処刑人の間に変な空気が流れる。
お互いに同じものを求め、困惑している。奇妙なことに、敵対関係であるはずなのに目的と感情が一致しているのだ。
気楽な会話をする性格ではなく、そもそも仕事及び使命のために行動している二人は意外と似たもの同士なのだが、当人達だけがそれを知らない。
「殺ス」
「ありがたいが、少し待ってくれ」
奇天烈を目指して失敗した喜劇のような状況を動かそうとした矢先、人型スライムの頭に小さな瓦礫が落ちてきた。
ごむんっ、と柔らかくも弾力のあるものがへこんだ異音だったが、処刑人は瓦礫がの軌道を遡って天井へと目を向ける。
穴が空いた屋根。そこから階下の様子を伺う大神官が立っており、腕の中には綺麗な洋燈を抱えていた。
頭から水をぼたぼたと零す人型スライムも、真上を見上げて気づいた。
二人の視線が集まった大神官は顔を青ざめさせ、魔法を使って屋根から貴族街の道路へと逃げ去っていく。
『泥棒!!』
二人の言葉が揃い、走り出す処刑人の背中に人型スライムがしがみつく。
大きな硝子窓を破砕し、丁寧に手入れされた庭を踏み荒らして。分厚い外壁を叩き崩しながら大神官を追いかける。
背中から血を流す老執事は屋根からその様子を眺め、楽しそうに手帳へ状況を書き込んでいく。
「まさかの共闘!いやぁ、人生わからないものですな」
――なんかおかしくない?
さすがの女神も異様だと思ったのか、愚痴るように疑問を吐き出す。
流血が止まる頃、老執事の姿は元の年齢に戻っていた。傷も塞がり、跡すらも残っていない。
貴族街から商店街へと移動していく追いかけっこを面白く思いながらも、老執事は王城へと足を向ける。
「さてさて、私は坊ちゃんの面倒でも見ますか」
――手伝いは?
「もう充分でしょう。体も全盛期のように動きませんし」
――仕方ないわね。イケメンにはサービスしてあげるわ。
女神との会話を楽しみながら、老執事は独り言のように呟く。
「ああ、人生とは命を運ぶのでしょう」
大神官の逃げる先には壁がある。その腕の中に世界の終わりに必要な洋燈が抱えられている。
まるでルーレット上を転がる玉を眺めるような心地で、老執事は楽しそうに口髭を揺らす。
「若者に苦難あれ。その先に帳尻合わせの幸せがあるのですから」
――それ、不幸も含まれてるわよね?
言葉の裏に隠された愉快犯の感情を指摘した女神に対し、老執事は慣れたように笑う。
世界が終われば消えてしまう、続いたとしても誰も気にしない些細な会話。自分だけの特別なものだが、記憶からもあっさり消えてしまうもの。
それを楽しむ老執事は背後を振り返ることなく、仕えてきた若者がいる場所へと足を動かす。
――あ、振り落とされた。
闘牛にしがみつくような状況。身体能力の低い人型スライムがいつまでも持続できることではない。
見てみたい気持ちを押し殺して、老執事はそっと場面の移り変わりから離れるのだった。




