第109話「命を乞う」
獅子舞元帥の声が国中に届いた時、その足は自然と動いていた。
スライムの頃にはわからなかった後ろ髪を引かれるような感覚。あらゆる視線が壁へと向けられる中、青い瞳が映したのは異世界の少女。
早くこの世界から消えてくれ。混沌の海から逃れる方法など、神々すら知らないのだから。
どうして気になるのだろうか。
何故か遠くへ――元の世界に帰したい。
けれど復讐の炎が足裏で燻っているような、その場に立ち止まっていられない焦燥感。
スライムが水を吸収するように。
スケルトンが生前の行動を繰り返すように。
獅子舞元帥が森林迷宮の侵入者を許さないように。
女神曰く、機械的に。
魔物はそういう生き物なのだと教えられた。
条件に沿って決められた行動を必ず取るのだと。
だから人類の自滅機構に必要なのは、魔物の特性。
なにがあっても成し遂げようとする仕組み。それに疑問を抱かない純粋さ。
愚かな人類が敵対視する生物は、無垢なほど真っ直ぐとした生き方なのだ。
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王城から出てすぐに貴族街の適当な屋敷の屋根の上に登った。
理由は簡単。人型スライムは足が遅いのである。
下手に王都内の道でノコノコ出歩いて、即座に捕縛されても困る。
その点貴族の屋敷は見張りさえ通り過ぎてしまえば、日中などで屋根を注目する者はいない。騎士団も貴族の邸宅には容易に手出しができない。
若返った老執事に言われるがまま、洋燈の力を使ってそこまで辿り着いたまではよかった。
「で、どうするんだ?」
「いやはや困りましたねぇ」
飄々とした返事だったが、人型スライムは文句を口に出すことはしない。
竜の出現で王都の警戒度合いが最高まで引き上げられたのだが、獅子舞元帥の追加によって空前絶後の状況に陥ってしまった。
魔物がどこから攻めてくるか、分散して襲ってくるのか。情報が錯綜して、侵入口――都内への出入り口全てに精鋭が集まっている。
洋燈の力を使って適当に切り抜けてもいいのだが、王都から出た後が一番の問題だった。
人類の自滅機構。その弱点。今の状況では無駄死の可能性が高まっており、人類を守る壁が奇しくも人型スライム自身も守っている。
馬車はない。乗馬は不可能。亀よりは速いとしても、一般の基準からしてみれば足が遅い身体能力。
「獅子舞元帥は女神様も予想外だったようで」
――だってあれ、気持ち悪いんだもの。
神々との戦いを繰り広げている女神だが、ある程度余裕ができたようである、
日常会話に割り込むような気軽さで神言を届けにくる。生まれ故郷である森以外は特に興味がない人型スライムは、空から飛来する巨石を見上げる。
竜が魔法で撃ち落としている姿は勇ましく、その圧倒的な強さを青い瞳で眺められるという不思議。
スライムであった頃は強く意識したことはない。
しかし転生失敗後は何度か気になったことがある。女神の森を棲家として、燃やされたことに激怒した存在。
同類意識のような、感情を共有できるかもしれないというほんのわずかな期待。
あの竜も大昔の竜神達のように別の世界を目指してくれないだろうか。
そんな感傷も老執事や女神には関係ないことであり、獅子舞元帥の話題で盛り上がっていた。
「亡国の元凶として物語に出てくる存在ですが、気持ち悪いとは?」
――それが悪かったのでしょうね。歪んじゃったのよ。
「魔物が?」
――夢を見るようになっちゃったのよ。
耳を塞いで老執事と女神の会話を無視しようとした矢先、少し強めの風が吹いた。
「ライムさん!」
空から声をかけてきた美形は、強風で体を支えながら目の前に降り立つ。
優秀な魔法使いとしての力を発揮し、大神官が貴族の屋敷に不法侵入している。無駄に広い庭では用心棒達が騒ぎ始めた。
そして人型スライムは体が斜めになっていた。風に煽られて、靴裏が屋根から離れている。
「ライムさん!?」
全く身構えない人型スライムの身体能力の低さに驚き、大神官は慌てて手を伸ばして服の裾を掴む。
引き寄せた体は服越しでもわかる体温に、人間らしい柔らかさ。傷がつかない限り、外観からはスライムだと判別するのは難しい。
美形が颯爽と現れて窮地を救う光景に女神は大興奮しているが、その声で耳の鼓膜が破れそうな人型スライムは嫌そうな表情を浮かべていた。
老執事は服の懐から手帳と万年筆を取り出して、「ほうほほーう!」と楽しそうに現状をいずれ使うネタとして保管中だ。
大神官は周囲の騒がしさに気を付けながらも、人型スライムの肩を力強く掴む。真剣な美しい顔を前にしても、人型スライムの心はちっとも揺らがない。
「どうか考え直してください。世界を滅ぼすなど……誰が喜ぶのですか?」
「女神」
――様をつけなさい!
どうでもいいことを注意されてうんざりする人型スライム。その表情を苦悩していると勘違いした大神官は説得を始める。
「では滅ぼさなくていい方法を教えていただけないか、尋ねてください」
――美形のお願いには弱いけど、無理。
「慈悲深く美しい女神様のためならば、この身を喜んで捧げます」
――え、じゃあ(気分が悪くなる類の年齢制限がかかる内容)とかしていいの?
大神官と女神の板挟みに、人型スライムはこの世の地獄を味わっていた。
老執事は防寒を決め込んだらしく、少し離れた場所で手帳に文字を書き連ねている。
「……一人目の神子をどう思っていた?」
女神の関心を逸らそうと、人型スライムは適当な問いかけを投げる。
すると大神官は息を詰まらせ、握り拳を作る。爪が手の平に食い込み、血が滲むほどの力で拳を震わせた。
「力は素晴らしいものでした」
――まあ才能はあったのよね。
「人格が追いついていないだけで……」
――無邪気だったのよ、最初は。
一息吐いてから、大神官は決心したように断言する。
「助けられなかったことを後悔しております」
地位的にも、年齢的にも。
神子として教育し、注意して、友になれる存在は大神官だった。
けれど彼の素行の悪さを嫌悪して、甘やかしという建前で放置して堕落を許した。聖職者として、厳正な態度を取ることができなかった。
死んだと聞いた時、悲しみよりも困惑が勝った。
殺してしまおうという流れは感じ取っていたが、本当に実行されるとは思っていなかった。
そして彼のために涙を流すものがいないこと、むしろ喜んでいる人間を見てしまったことで、ようやく気づいた。
もしも友達になっていたら、違った結果があったのではないか。
だから女神の怒りは納得できる。選ばれた人間を、人類は邪魔だと排除してしまったのだから。
何度でも正せる場面があった。いつだって引き留める機会はあった。それをわざと手放したのは愚かさゆえだ。
いつかきっと。それを待っているだけで、何も行動しなかったのである。
「……私は愚かです」
「そうか」
「だから、もう一度だけ汚名返上の機会を与えてください」
人型スライムの体に縋り付くように、屋根の上で膝をつく大神官。
苦渋の表情を浮かべても美しさと清廉さを失わない男を見下ろしながら、女神の言葉を口に出す。
「人の命は戻らない」
運命を手繰る女神から、愚かな人間に突きつける真実。
それは大神官が目を背けてきた事実であり、どれだけ反省しても変わらない結果だった。




