第104話「深き愛は純粋な邪さで」
最初は火花。大気を吸い込んで火に変じて、炎となって歩み出す。
その形は大地を駆ける生物の姿となり、争いが激化する壁へと向かって突き進んだ。
石畳の上に転がる瓶は増えていき、木枯らしに吹かれてはカラカラと音を鳴らしている。
「レイさん、ドージさん!壁まで行きましょう!」
「良いのですか?」
今にも這いつくばって倒れそうな姿勢の魔導騎士。駆け出したい気持ちを抑えて、男装女騎士は改めて尋ねた。
竜と魔物の軍勢がぶつかり合う戦場。瘴気に包まれた貧民街へ、本当に足を進めるのかと。
個人の強さは数に押し潰され、どんな勇猛さも挫かれる場所。正義や悪は勝利したものしか決定権がない、結果だけで全てが左右される、
「だってヤンさんと約束しましたから!」
彼の大事な故郷。貧しくて、不平等が充満した、王都の近くでありながら、その恩恵が与えられない。
誰かにとってはどうでもいいものしか詰まっていなくても、彼にとっては大切なものが集まる場所だから。
不良騎士との間にできた小さな溝を消すためにも、聖女にとっては優先するべきことだった。
「ライムさんは……」
間抜け騎士の小さな呟きに、その場に止まったまま足を動かし続けていた聖女が反応する。
人間に殺されることで、世界全てを壊そうとする魔物。別れの言葉が聞こえない内に姿を消してしまい、どこへ向かったかも不明。
竜と獅子舞元帥の問題が解決しても、世界の危機はいつ訪れても不思議ではない。
「構うな。行け」
はっきり言い切ったのは魔導騎士だ。一日の許容摂取量を超えた魔力剤を飲み続け、今も新しい瓶の中身を飲み干したばかり。
膨れ上がる魔力が空中で熱を生み、雪が落ちるように火花がパチリと光る。火から炎へ、無形から走り出すための造形へ。
精霊魔法による炎の動物達。中には天馬や一角獣など、伝説や物語でしか生きられない姿へと成長する個体も。
足が、爪先が、地面を焦がした瞬間に駆けていく。生まれた意味を、使命を、やるべきことがわかっていると嬉しそうに。
体に多大な負荷をかけ続ける魔導騎士は、壁向こうで繰り広げられる落石と竜の奮闘を見上げる。
「アイツは人類のどうしようもない善性を甘く見ているようだからな」
「……」
「だから今でも世界は終わってないんだ」
夕焼けの街で魔導騎士と会った時からわかっているはずだ。
偶然が重なって、どれだけ運命の女神が味方しても上手く事が運ばない。性善説と性悪説をどれだけ唱えようが、どちらかだけにはならない。
人類というのはどうしようもなく中途半端で、だからこそ可能性を切り開いていくのだ。
「聖女様、俺も後で追いつきます」
「死なない程度にお願いしますね!」
苦しそうに息を吐きながらも、魔導騎士は力強い笑みを浮かべた。
それが合図だと言わんばかりに、聖女は壁に向かって走り出した。貴族街を抜けて、商店街。住宅街を通れば壁へと到達する。
混乱する人によってあらゆる道に人が出歩いており、馬を使って走ることはできない。間抜け騎士の大盾による走行も同様だ。
男装女騎士を先頭、間抜け騎士を殿に。二人の間で走る聖女は「体育の時間を真面目にやればよかったー」と小さな泣き言を叫んでいた。
三人の姿が見えなくなった頃、魔導騎士は震える片手で新しい魔力剤を求める。魔力を作る部位を激しく稼働させ、一時的な過剰生産を可能とする。
一日に飲んでいい本数は決まっており、容量と用法を間違えた先に待っているのは過負荷による衰弱だ。
命に関わる寸前は三本前から通り過ぎており、耳鳴りと頭痛だけでなく胸部の鈍痛や吐き気、視界の狭まりや手足の震えが止まらない。
それでも瘴気に覆われた貧民街に騎士達の大多数が降りられない戦況を覆すには、魔法による軍勢が必要だった。
喉の奥に鉄臭さと酸味を覚えながらも、魔力剤を臓腑の奥へ流し込もうとした矢先。
「ケイジ様」
愛する婚約者の声に、魔導騎士の意識が逸れた。
首筋にうっすらと引かれた一直線の赤。それだけで後悔や怒りが湧き上がり、傷をつけた処刑人を殺したい衝動に駆られる。
しかし婚約者の視線に込められた感情に、あらゆる感情が怯えてしまう。鋭く、どんな剣も負けてしまいそうな強さを秘めた瞳。
「死んだら許しません」
頬に触れる手が火のように熱い。白魚のような手が、冬空の下でそれだけの温度を保有できるはずがない。
異常なほど冷えた魔導騎士の頬。青白さと土気色を超えて、死人のように色のない肌。
血管が動きを止めたかのように、透き通るような白は生気を体に巡らせていない証拠だ。
「しかし……」
魔導騎士は言い訳を募ろうとしたが、唇に触れたものに思考が止まる。
口の中に入り込んでくるのは柔らかく湿った肉で、ドロリとした液体が魔力剤の味だった。
口移しで飲まされたことよりも、情熱的な深い口付けを息が苦しくなって呼吸が不足することに驚く。
婚約者のために純潔を守っている魔導騎士にとって、その技巧は驚嘆を通り越して未知の恐怖に近い。
理性や思考をぼんやりとした霧の向こうに溶かされるような、時間の経過も忘れるほどの悦楽。
唇が離れる頃には腰が抜けており、目の前で微笑む婚約者の真っ赤な舌が唇を軽く濡らしていた。
「ケイジ様。貴方を抱きたいの意味をわかっておりますか?」
白魚のような手が首筋をなぞって、服の上を辿る指が左胸の上で止まる。
衣服越しに軽く肌を押されるだけで、高鳴る心臓の鼓動を止められそうだ。細くしなやかな人差し指に身体中を震わせる心音を把握されているような、支配の手中にいる気分。
突然の快楽で完全に思考が停止した魔導騎士の眼前に、美しい令嬢が笑みを浮かべたまま顔を近づける。
「貴方以外抱く気はありませんのよ」
愛の重みで負けるつもりはない。嫉妬や求愛についても同様に。
しかし情欲という面では、婚約者の方が上手だった。心だけでなく、肉体の全てを食べてしまいたいと訴えかけるように。
肉食獣よりも貪欲な愛を表にだした婚約者は、妖しい手つきで魔導騎士の腰や肩へと手を回す。
「貴方がこうしたんですからね」
身に余る愛をこぼさずに受け止めるため、欲で器を広げていった先。喪失した時に待ち受ける恐怖と絶望は比例して大きくなり、その答え合わせをしかけた。
運命と呼ぶには歪で醜く、恋と唄うには爛れ落ち、愛と囁くには腐り始めたような感情を抱えてしまった。
元には戻れないことを実感している婚約者は、祈るように乞い願う。
「生きて責任を取ってください」
複雑な感情から抽出された言葉は、魔導騎士にとっては心の底から喜ばしい内容だった。
華奢な体を抱きしめ返しながら、炎の魔法生物を生み出し続ける。生きたいと思うよりも、愛おしいと守りたいの気持ちが強くなる。
「……」
震える指先で瓶の蓋を外し、魔力剤を浴びるように飲む。
その答えをわかっていた婚約者は、目尻に涙を浮かべながら呆れたように笑う。
「絶対に抱き潰しますから」
待ち受けているお仕置きに関しては未来に任せることにした魔導騎士は、苦笑しながら答える。
「負ける気はないな」
愛し合う二人のよくわからない攻防は、国の終わりが一進一退する最中でもどこか楽しそうだった。




