第103話「罪悪感と向き合うための報い」
王城の床でうずくまったまま動けない第二王子に、ゆっくりと歩み寄る足音。
貴族達ですら獅子舞元帥の声に怯えて謁見の間から竜がいる壁へと注目する中、その全てを拒絶するように頭を抱えていた。
小さな声で「殺すつもりはなかった」とこぼしても、誰も気に留めない。事態は人間一人の死など、砂粒よりも小さなものへと変えている。
「お前、人を殺す覚悟もなかったんだね」
「っ、ちうえ……」
「王ってのはね、その覚悟を国民の数だけ何度もしなくてはいけないのに」
顔を上げて見た父親――国王の顔は、心底呆れたような表情だ。
実際の年齢よりも萎びて年老いているような外見に、気の弱そうな性格。それで何度も決断を迫られて、国の命運を左右してきた男。
気が弱く、影が薄く、しかし何十年も王位を維持した父親。それが玉座ではなく絨毯の上に行儀悪く座り、うずくまった息子の背中を撫でる。
「国王になりたい?」
「う、うぅ……」
「お前に万という命をその手で殺せる覚悟があるなら、いいよ」
返事などできなかった。一人を殺しかけただけで、途方もない罪悪感の重みで押し潰されそうなのだ。
それを増やしていくなど、考えたくもない。呻き声と共に涙が溢れ、鼻水が止まらない。
どれだけ背中を撫でられても安心できず、いまだに人を刺した感覚が残る手を切り落としたいくらいだ。
「なんで生贄なんて言い出したのさ?」
「だって……それが一番、被害が……」
「お前は聖女なら殺せると思ったの?自分の手で、首でも絞めるつもりだった?」
嫌々と首を横に振り、頭によぎるその光景が消えることを願う。
異世界の少女、その細い首を両手で掴む。それだけで怖くて仕方なくて、絶対に成し遂げられないと感じた。
憧れていたものと現実の乖離を受け止めるには、第二王子の心は狭くて歪んでいた。
「ただ……勝ちたかった、だけで……」
許しを乞い願うように、ずっと抱えてきたものを打ち明ける。
いつも優秀で、素晴らしい第一王子。それと比較される平凡な第二王子。寄ってくるのは利益目当てばかりだ。
清廉潔白だからこそ疎まれる兄に勝つため、彼に反発する層を取り込むために頑張ってきた。卑屈になった心は、優越感だけが癒しである。
「バラン」
「……兄上?」
国王と同じように歩み寄ってきたのは、ずっと追い越したかった相手。
その顔を見ることができず、第二王子は顔を上げることすらできなかった。もしも同情が浮かんでいたら、決定的な敗北で死にそうだ。
「お前だったら弟を人質にするなど、提案しなかっただろう」
「……」
「その善良さが羨ましい」
違う、と声にしたかった。もしも助かるならば、きっと。
できたと思う。ただわからない。第三王子の顔を見て、それを決定できる責任があるかと問われたら、選べないのでは。
優秀な兄である第一王子が選択したのならば、それが最善だったと思っていたいのに。その失敗を嘲笑って、貶めたいのに。
「ただまあ、お前には悲しい知らせがある」
「………………?」
「それを受けた後で、もう一度会話しよう」
妙に戸惑った声に導かれるように、首を動かした先。
直立した美しい淑女。それが一番正しいとわかっていても、他の単語が頭の中を駆け巡ってまるで警報のようだ。
鬼女。仕置人。誇りある貴族の娘。伝説の血筋、その直系。魔導騎士の母親。ドラコー家の実質支配人。あらゆる男の求婚を握り潰し、様々な悪女を跳ね除けた女傑。
ヒルダ・ドラコー。
背筋をまっすぐに、うずくまった第二王子を見下していた。
優雅に口元を隠していても、赤い瞳に漲る力は尋常ではない。気圧されて、そのまま気絶してしまいたい。
「ご機嫌麗しゅうございますわ、無礼者」
礼儀正しく、容赦なく。狙いを定めた強者の視線。
背中を撫でていた優しい手が止まっており、服越しにじわりと滲む汗を感じ取る。脂汗で体の線が細くなりそうな父親を、第二王子は初めて目撃した。
赤い靴が絨毯を貫通する勢いで踏み出されたのか、カツンと硬質な音が耳を刺激する。
「それでは私は壁の対処がありますので」
「ありがとうございます、王子。ご武運をお祈りしておりますわ」
「ワシも緊急会議を」
「陛下。私を無視してお逃げになるなど、些か目に余ります」
第二王子を生贄にしようとした国王は、息子に足を掴まれていた。それさえも引きずって遠ざかろうとしたものの、カツンという靴音で体が硬直してしまう。
針のように細いヒールを履いているだろうに、まるで槍の穂先が大理石に突き刺さったかのような響き。絨毯を歩く楚々とした淑女の足音ではない。
第一王子はそそくさと姿を消しており、女傑の赤い瞳は愚かな親子を捉え続けたままだ。
「全てご覧になりましたわ。
聖女様を初めて拝見いたしましたが、可愛らしい少女でございました」
「はは……異世界はこちらよりも豊かなようで」
「私も人の親。あのような娘さんが生贄など、胸を痛める話でございました」
「うん、まあね、でもほら、最小の犠牲を求める時は」
「陛下。貴方様も人の親でございますよね?」
にこり、という笑顔の擬音に恐怖を抱く。
背中越しでもわかる。しかし振り向いて確かめる勇気は湧いてこない。女傑に背を向けたまま、国王はどうにか会話を続けようとする。
「聖女様は果敢にも国の最上位へと歯向かい、人の命の重みについて説いていかれました。
私、年甲斐にもなく感動いたしましたわ。きっと素晴らしい親御さんに育てられたのでしょう」
「そ、そうかもねー」
「それで第二王子のご提案に便乗して色々と布石を打とうとして、世界滅亡の危機を迎えようとした無礼者はどこのどちら様でしたか?」
「スライムがそんな、女神の加護とか、予想できるはずが」
「陛下」
とん、と肩に閉じられた扇が乗せられた。
まるで剣の刃が向けられているような心地のまま、国王は涙目で振り向く。
「我が母が教育係だった昔を覚えていらっしゃるかしら?」
「あ、の……」
「兄弟同然のように育った私が、どうして貴方様に惚れなかったとお思いですか?」
「だって怖……」
「そうやって気弱ですぐに逃げ出す臆病者だからですよ!この愚か者!!」
閉じられた扇で頬を叩かれた国王は、腰が抜けてしまい絨毯に尻餅をついてしまう。
その体に縋り付く第二王子は悪夢に怯える子供のようにぶるぶると震えており、反抗する気概すらも失われてしまった。
貴族達は壁の方に注目する振りで背後で行われる折檻から視線を逸らしており、我関せずと王族達の無事を祈ることしかできない。
伝説で王族の命令に従わず、しかし火の霊竜の加護を受けた女騎士の末裔。
ドラコー家。決して王族の血に混じらず、代わりに王族の教育を任された歴史を持つ誇り高き貴族。
その使命は「王という絶対決定権に異論を唱えることで正道を貫く」ことである。
「愚息を死の淵に追いやり、その婚約者を監禁だけでなく身の危険を及ぼした愚行だけでも許しがたいというのに!!」
「ひぃっ!?」
「女神様の真意も汲み取れず、世界滅亡直前まで進んだ!」
「す、スライムの言葉が本当かどうかもわからないじゃないか!」
どうにか反論した国王が見上げた先には、赤黒い怒りの形相を浮かべる女傑。
頭に竜の角でも生えているかのような幻覚まで見えてくるが、それでも負けじと顔を上げる。
「反省しない、ということでよろしいですわね?」
「……っ」
「命の重みを知らぬとは嘆かわしい。拝聴者の言葉が本当ならば、あのスライムは誰一人殺していない無垢なるもの。女神の使者ですのよ?」
「……魔物じゃん」
「命の貴賤を語れと、我が母が教えましたか?親子共々再教育が必要なご様子」
「お、お前はどちらの味方なんだ!?」
「我が正義の味方でございます!!この信条、国のために全てを捧げた誇りなれば!!」
ドラコー家の献身は歴史が物語っている。だからこそ貴族の中でも最も古い家名として名を連ねているのだ。
その気迫に押し負けた国王が何も言い返せなくなった頃、女傑は深々とため息を吐いた。
「お覚悟はよろしくて?」
獅子舞元帥や竜、逃げた人型スライムなど全て他者に任せて。
ドラコー家の誇りに従い、誤った道へ進む王族達を矯正するために。
女傑は愛の鞭を振りかざす。それが自分の正しい役目だと信じている。
まだ世界は滅んでいないのだから、何度だってやり直せると希望を胸に抱えている淑女の優しさでもあった。




