第101話「個の意味を知るならば」
たとえば赤ん坊が生後一ヶ月で、残虐非道に殺されたとして。
その魂を哀れに思った何かが、赤ん坊にあらゆるものを与えて尋ねるのだ。
――なんの罪もないお前を苦しめた存在を、全て消せるとしたらどうする?
人間の善良性を信じるならば、それは美徳だ。愚かしくも素晴らしい。
では赤ん坊の故郷も丸ごと消えていて、そこに惨状しか残っていなかったら。
赤ん坊は一度も見たことがない故郷を失ったこと、そこに住む生命全てを失った事実を受けてもまだ性善説を信じるのだろうか。
赤ん坊は何も知らないのだ。世界の美しさも、人類の輝きすらも。
それは生きていく中でしか見つけられないものであり、生後一ヶ月では把握能力すらもおぼつかない。
ただ与えられて最初に見たものが赤ん坊にとっての世界の全てであるならば。
人型スライムの世界は焼け野原から始まった。
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拝聴者が語るのはそういった背景を抜きにした、簡潔な物語。
故郷を焼かれて、虫の命すら奪ったことがないスライムが人類の絶滅を願ったのだと。
女神は全てお見通し。女神の森で生まれた最も短命で、命を奪ったことがない、罪なき魔物。
水分だけを与えていれば人畜無害な存在が、人類へと牙を向けたきっかけ。
森を焼いた主犯と呼ばれている一人目の神子や、自らを炎の中に投げ入れた騎士などはどうでもいい。
全部消す。竜が人類の個に虫と同等の興味がないように、個人の区別などできなかったスライムも「誰が」など意味がない。
そして女神も同じだ。
神子を殺したのがどれかなど、最早どうでもよかった。
誰も神子を救わなかった。ならば誰もを全て消し去るのみ。
個に意味はない。
こだわっている竜の方が優しいと感じるほど、女神と人型スライムはその視点を共有した。
「かくして人類の自滅装置は旅をしました」
「全ては人類の皆様を女神の代わりに滅ぼすため」
「拝聴いただき、ありがとうございました」
舞台で笑う道化のような仕草で、深々とお辞儀をする拝聴者。
拍手する者などいない。神官長などは信じていた神の怒りを知り、ブルブルと震えながら両手を組んで祈りを捧げている。
神が人類の絶滅を願った。天に見捨てられ、いずれ大地が崩れて全てが混沌の海へと落ちて原初の姿に戻る。
世界滅亡の予言を聞いた者達は、言葉を失った。
「待て。なぜ女神が魔物を頼る?」
最初に切り出したのは第一王子だった。神とは女神の一柱だけではない。魔神を皮切りに、多くの神々が生活の信仰に組み込まれている。
女神ならば天の神々を動かして、天変地異によって人類を消し去ることが可能だ。それこそ死神の指が魂だけを引き連れてしまえば、世界から命は失われるだろう。
しかし選ばれたのは魔物の中でも人畜無害で素材活用が有名なスライムである。学生だって実験で触れる程度のか弱さだ。
「女神様は全てを混沌の海に還すおつもりです」
「…………神々さえも、か」
「それが世界の正しい姿だったのですから」
実は拝聴者の耳に大鐘の中にいるような大音声が響き渡っているのだが、それを感じさせずに優雅な微笑みを浮かべる。
神々から疑問や抗議の問い合わせで権能障害が起きるから暴露しすぎるなと怒られても、意地悪な性格はどうあっても変えられない男なのだった。
「それに人間の手で終わるのが、一番だと仰られております」
――なに平然と話し続けてんのよ、大馬鹿!イケメンだから許すけど!この顔も有能男!若返らせた私グッジョブ!っじゃなくてぇ!!
「スライム相手ならば、子供でも殺すことに罪悪感はないでしょう」
――ま、魔神!?ちょーっとこれには事情が……つーか、アンタの知識で異世界召喚とかまで発展しちゃった責任を、あ、ごめんなさい!
「それに魔物には寿命という概念がございません」
――おっしゃあ、こうなったら神々の戦いを始めてやるわよ!アンタら全員顔ボッコボコにしてやるから!特に私の体型を馬鹿にしたそこの美神ぃっ!!
声の調子を整えるという建前で軽く咳払いし、聞こえてくる神言に笑いそうになるのを誤魔化す。
残念ながら無理やり笑いを堪えているため口元が歪んでしまい、美しい顔に現れた異常さを際立てる結果となっていた。
目の前に立ち並ぶ国の重鎮達が深刻な様子で話を受け止めているのに、天の神々は醜い争いをしかけているという温度差のせいも重なる。
――おっらぁっ!美神の海老反り固め!死神ぃ、巨乳が揺れることに喜んでじゃねぇぞ骨だけ野郎!その眼孔に指突き入れて、歯ぁガタガタ言わせんぞぉっ!
沈黙が続く。口元の笑みが隠しきれない拝聴者の様子に、誰もが異様な雰囲気を感じ取っていた。
人型スライムだけがうんざりした表情で耳を塞いでおり、神々のしょうもない行動に深いため息を吐いている。
――魔神を盾にして粋がってんじゃないわよ!威厳を忘れるなって、人類が勝手に定義しただけで私は正しい神じゃないって何度も言ってるでしょうが!
――は?竜神の件を今さら蒸し返すの?
――いいわ。本気で全員潰してあげる。
ようやく女神が本気になったようで、冷酷な発言以降は静かになった。
沈黙に耐えきれなくなった誰かが、機嫌を窺うように少し高めの猫撫で声で問いかける。
「神々に祈りを捧げれば、許されるでしょうか?」
信仰が足りないのならば、今よりも熱心になれば救われるだろうか。
深い祈祷により瞑想状態になった神官長周囲の密度が上がる。少しでも良い方向に傾くならば、誇りよりも利益を優先する。
滑稽な集団を眺めながら、拝聴者は優雅な微笑みを浮かべた。
「一人目の神子を管轄していたのが教会だったことをお忘れですか?」
祈りに意味などない。希望の糸すらも断ち切られている。
山のような献金は虚栄を満たすだけとなり、神々への崇拝は塵芥も同然。
「ご安心ください」
拝聴者が老若男女を魅了する笑顔で、丁寧に続ける。
「混沌の海に不安は存在しません」
世界の全てを溶かして同一化させたそれは、心や魂すらも混ぜてしまう。そこに個というものは存在せず、思考や感情も必要ない。
ただ海のように揺らめいて、外部からの干渉がない限りは一切の変化が訪れないだけ。この世の希望も絶望も、何も生み出さずにいる。
死は訪れない。生命の流転は途絶え、無ではないが有でもない「何か」に溶け落ちるだけなのだ。
「お、お前は怖くないのかっ!?」
「私は女神様の意思に従うのみでございます」
恐怖を覚えない拝聴者は、むしろ安らかな雰囲気で胸元を押さえる。
今の幸せを噛み締めるように、これからの展開に期待を覚えている。けれどそれは人類の絶滅を前にした人間とは思えない歪さだ。
問いかけた貴族でさえ絶句してしまい、誰もが立ち尽くす中。
「もういい」
人型スライムが投げやりな口調で呟いた。
洋燈と衣類が入った袋を抱え、静かに立ち上がる。
「ハルカ」
「なんですか?」
「早めに元の世界に戻った方がいい」
「それは……」
「自分はお前達の知らない場所で殺されに行く」
人類ならば誰でもいいのだ。
それこそ辺鄙な村で、薪割りをしている少年の目の前で魔物だと明かしても問題ない。
ただ聖女を元の世界に帰すために立ち寄っただけで、正体と目的がバレた以上は去るのみだ。
「お前、まだそんな……」
「そのスライムを捕えよっ!生かしておけば……」
進軍セヨ。
その言葉はあらゆる事柄を無視して、発せられた。
王都の中枢である城でも聞こえたが、決して大きいわけではない。ただ宣戦布告として、あらゆる生命の脳に伝わった。
王都中のあらゆる視線が竜のいる壁、その向こう側へと集まる。
大地を埋め尽くす魔物の軍勢。
獅子舞元帥が開戦の狼煙を上げたのだった。
「 」
人型スライムが姿を消す前に出した言葉など、誰にも届かないまま。
魔物の処刑は未遂で終わり、拝聴者も伝説の中に戻るように王城の中から消えるのだった。




