表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/26

第6話:佐倉悠斗は、名前をつけるのが苦手すぎる

 次の朝、食卓にはまだ紙がなかった。

 こはるが味噌汁を啜りながら、妙にじっとこちらを凝視していた。


「お兄ちゃん」

「なんだ」

「最近、呼び方で逃げてない?」

「……呼び方?」

 朝からまた、答えにくいことを言い出した。


「白瀬先輩のこと、すぐ『こはるの先輩』って言うでしょ」

「事実だろ」

「芽衣ちゃんは?」

「幼なじみ」

「莉愛さんは?」

「クラスメイト」

「一ノ瀬先輩は?」

「風紀委員長」

「雫ちゃんは?」

「……こはるの部活の後輩。いや、白瀬先輩の後輩か」


 こはるは、静かに味噌汁の椀を置いた。

「ほら」

「何がだよ」

「全部、役割の名前じゃん」


 言われて、少しだけ詰まった。

「……いや、間違ってはいないだろ」

「間違ってないよ。でも、間違ってない名前って、すごく安全なんだよ」

「安全?」

「うん。そこに戻せば、それ以上深く見なくて済むから」


 朝の食卓が、少しだけ静かになった。

「こはる。……朝から刺すな」

「妹なので。でも、刺さったでしょ?」

「……少しな」


 こはるは、何もない食卓を見下ろした。

「管理表、本当に作ったほうがいいかも」

「やめてくれ」

「でも、口頭だともう追えないんだよ。白瀬先輩、芽衣ちゃん、莉愛さん、一ノ瀬先輩、雫ちゃん。全員、違う動き方してるし」

「それを表にしたら、もっと悪化しそうなんだが」

「分かってる。でも、整理しないと私の脳が死ぬ」


 妹の目が、朝からわりと真剣だった。

「ただね、お兄ちゃん。表にするのも危ないけど、お兄ちゃんの頭の中では、もう勝手に表になってる気がするんだよ」


 返す言葉が、なかった。


* * *


 放課後、玄関へ向かう途中で白瀬先輩と目が合った。

 こはるの部活の連絡を持っていたわけではない。弓道部の用件でもない。ただ、廊下の向こうから歩いてきた彼女と、偶然視線がぶつかった。


「佐倉くん」

「はい」

「私は、こはるさんの先輩です」

「……はい」

 いきなりだった。


「それはとても大切なことですし、私にとっても誇れる関係です」

「分かっています」

「でも」

 白瀬先輩は、静かに俺を見る。

「そこに戻されると、少し遠いです」

「……」

 今朝、こはるに言われたことが、少し遅れて胸の奥に戻ってきた。


「私は学園一の美少女と呼ばれることもあります。弓道部の看板でも、生徒会広報でもあります」

「はい」

「でも。その肩書きをどれだけ並べても、白瀬玲奈には届きません」

 白瀬先輩は、静かに微笑んだ。

「今日は。それだけ覚えておいてください」


 丁寧に一礼して去っていく彼女の背中は、いつも通り完璧に綺麗だった。

 けれど。その綺麗さを「学園一だから」と片付けることが、俺にはもうできなくなっていた。


* * *


 家に帰ると、こはるが玄関で待っていた。

「お兄ちゃん」

「なんだ」

「今日は、けっこう刺された顔してる」

「……白瀬先輩に少しな」

「よかったね。大事なことだよ」


 こはるは靴箱にもたれ、少しだけ声を落とした。

「お兄ちゃんは、名前をつけるのが苦手なんだと思う。役割の名前はすぐ出る。でも、その人本人を見るための名前になると、途端に止まる」


 それは、朝からずっと引っかかっていたことだった。

「俺は……名前で片付けてるのか」

「たぶんね。棚に戻して、安心してる」


 こはるは、少しだけこちらを見上げた。

「昔から、そういうところあるよ。芽衣ちゃんは幼なじみ。私は妹。私の友達は『こはるの友達』。そう呼んでおけば、距離を間違えずに済むでしょ?」

「……」

「でもね。距離を間違えないことと、ちゃんと見てることは、たぶん同じじゃないんだよ」


 否定しようとして、言葉が出なかった。

 白瀬先輩をこはるの先輩に、芽衣を幼なじみに、城ヶ崎をクラスメイトに戻す。そうすれば、それ以上踏み込まずに済む。安全地帯にいられると思っていた。


「こはる。……『彼女』っていう名前も、棚なのか」

「使い方によると思うよ。でも。分からないからって、全部を同じ棚に戻すのは違うと思う」

「……そうだな」

 それだけは、少しだけ分かった。


* * *


 その日の夜、寝る前に水を飲みに台所へ行くと、こはるがまだ食卓に座っていた。


「まだ起きてたのか」

「考えてた」

「何を」

「今日は紙なし。でも、お兄ちゃんは役割名で逃げがち。要観察」

「口で管理するな」

「口じゃ無理そうだから、たぶん表にしたほうがいい」


 こはるは、何もない食卓を指でとん、と叩いた。


「本当に作る気か」

「明日の朝までに考える」


 その言い方は、ほとんど作ると決めている人間のものだった。


 俺は部屋に戻り、天井を見た。


 誰とも付き合う気はない。その言葉の中にあった、自分でも説明できなかった何か。


 恋愛が嫌いなわけではない。彼女たちが嫌いなわけでもない。

 ただ、誰かを「彼女」と呼んだ瞬間、俺はまたその人を別の棚に入れてしまう気がしていた。関係の名前に、甘えてしまう気がしていた。


 でも。それが、誰かを見ない理由にはならない。

 そのことだけは、今日、少しだけ分かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ