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第25話:妹は、兄の窓口を閉める

 翌朝、食卓には紙がなかった。

 管理表もない。座席メモもない。覚え書きもない。ただ、こはるがスマホを伏せたまま、猫のぬいぐるみを不自然なほど強く抱きしめていた。


「お兄ちゃん」

「何だ」

「今日は、窓口を閉めます」

「……何の窓口だよ」

「お兄ちゃん周辺、恋愛騒動問い合わせ窓口」


 朝から、できれば聞きたくない言葉だった。

「そんな窓口、開設した覚えは全くないんだが」

「私もないよ。でもね、気づいたら勝手に開いてたの。だから閉める。今日は本気で閉めるからさ」


 こはるは味噌汁を啜り、伏せたスマホをじっと見つめた。

「昨日の夜から今朝までに、問い合わせが計五件来ています。白瀬先輩、莉愛さん、芽衣ちゃん、一ノ瀬先輩、雫ちゃん。……要するに、全員だよ」


 こはるの声には、朝から明確な限界の色が混じっていた。

「内容は?」

「……聞きたい?」

「いや、正直一ミリも聞きたくない」

「でも言うね。白瀬先輩は『佐倉くんは昨日の件について何か仰っていましたか』。莉愛さんは『理由なし、まだ有効そう?』。芽衣ちゃんは『今日の帰り道、聞いた方がいいかな』。一ノ瀬先輩は『本人確認の継続に関して、佐倉くんの状態を確認できますか』。雫ちゃんは『佐倉先輩は白瀬先輩の件を雑に処理していませんか』」

「……」

「どこからどう見ても、窓口じゃん」


 否定できる材料が、どこにもなかった。

「こはる。……すまん」

「謝罪は受け取るけど、それで私の処理能力が回復するわけじゃないんだよ」


 妹はスマホを手に取り、画面をこちらへ向けた。そこには未返信の通知がずらりと並んでいる。

「私は白瀬先輩の後輩だし、お兄ちゃんの妹だよ。でも、お兄ちゃんの恋愛騒動の総合受付ではありません」

「本当に、その通りだな」

「だから今日は閉める。全部、本人に直接聞いてもらう。お兄ちゃんが『同じ言葉では返せない』って言ったんでしょ?」

「そうだな」

「だったら、私がまとめて受けたら駄目なんだよ。私がまとめた瞬間、また一覧表になっちゃうからさ」

 その指摘は、かなり効いた。


「だから今日は、私を通さないでね。お兄ちゃんが自分で受けて、自分で返して」

「返せるか分からないんだがな」

「分からないなら、分からないって直接言って」


 昨日の一ノ瀬さんみたいなことを言われた。こはるは、小さく息を吐いた。

「紙は作らない。窓口も閉める。あとは本人同士でやって。以上」


* * *


 教室に入ると、右隣の宮坂がすぐにこちらを見た。

「佐倉」

「何だ」

「今日、妹さんがかなり怖い顔をしているらしいぞ」

「情報が早いな」

「お前周辺の天気予報みたいになってるからな。こはるちゃんが曇りなら、教室も荒れるんだよ」


 嫌すぎる予報だった。真後ろの城ヶ崎が、少しだけ気まずそうに手を上げる。

「悠斗」

「何だ」

「こはるちゃんにさ、朝メッセージ送っちゃった」

「聞いたよ」

「怒ってた?」

「窓口を閉めると言っていたな」

「窓口」


 城ヶ崎は一瞬だけ固まり、それから小さく笑った。

「そっか。たしかに、うちらちょっと聞きすぎたかもね」

「城ヶ崎がそれを言うのかよ」

「言うよ。理由なしで来るのとさ、こはるちゃんを理由にするのは違うしね」


 軽いようで、ちゃんと分かっている。斜め前の芽衣も、静かにこちらを振り返った。

「私も送ったの」

「聞いた」

「ごめんね。こはるちゃんに聞けばさ、悠斗が逃げづらいと思ったんだよ」

「正直だな」

「うん。ちょっとずるかったな」


 芽衣は、そう言って目を伏せた。

「今日の帰り道は、悠斗に直接聞くよ」

「……そうしてくれ」


 正面の一ノ瀬は、ノートを閉じてこちらを見た。

「私も、佐倉こはるさんに照会しました」

「一ノ瀬さんまでか」

「はい。ですが、明白な誤りでした」

「誤り、ですか」

「本人確認を掲げながら、本人ではない別の窓口へ確認を回したことになります」


 言い方が正確すぎる。

「本日の放課後、改めて佐倉くん本人へ直接確認します」

「また増えたな」

「増えたのではありません。正しい経路に戻します」


 それは増えたと言うのではないだろうか。教室の入口では、小鳥遊がじっとこちらを見ていた。

「佐倉先輩」

「小鳥遊も送ったんだよな」

「送りました」

「堂々としてるな」

「白瀬先輩のためです」


 そこで、少しだけ言葉が詰まる。

「……だけではないかもしれません。なので、こはるちゃんに確認するのは、少し違った気がします」

「自分で気づいたのかよ」

「確認中です」


 便利な言葉だ。宮坂が、横で深く頷いた。

「佐倉。今日のテーマは、各自で本人に聞け、だな」

「勝手にまとめるな」

「でもそうだろ」

「そうなんだよな……」


 否定できないのがつらかった。


* * *


 昼休み。こはるは、弓道部の一年生らしい女子たちに囲まれていた。

 場所は特別棟へ続く廊下の端。俺が通りかかった時、ちょうど誰かがこはるに質問していた。


「ねえ、こはるちゃん。佐倉先輩って、白瀬先輩とどうなってるの?」

「城ヶ崎先輩の九分って何?」

「一ノ瀬先輩が確認したって本当?」

「橘先輩とは帰り一緒なの?」


 こはるの表情が、朝よりさらに死んでいた。まずい。

 俺が一歩踏み出そうとした瞬間、小鳥遊が横から現れた。

「こはるちゃんは、現在、佐倉先輩の窓口ではありません」


 きっぱりと言い切った。周囲の女子たちが「あ、ごめんね」と素直に引いた。こはるが、小鳥遊を見た。

「雫ちゃん」

「私も今朝、間違えましたから」

「……」

「だから、訂正します」


 小鳥遊は俺の方を見た。

「佐倉先輩」

「何だ」

「質問があるなら、佐倉先輩本人に直接聞いてください」


 周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。やめてほしい。だが、正しい。

 こはるは深く息を吸った。

「私からも言います」


 妹の声は、思ったよりはっきりしていた。

「私は、白瀬先輩の後輩です。お兄ちゃんの妹です。でも、お兄ちゃんの返答を代わりに配る窓口ではありません」


 廊下が静まり返った。

「白瀬先輩のことも、莉愛さんのことも、芽衣ちゃんのことも、一ノ瀬先輩のことも、雫ちゃんのことも、私が一覧表にして配ったら、たぶん全部間違えますから」

「こはる」

「だから」


 こはるは、こちらをまっすぐ見た。

「本人に聞いてください。お兄ちゃんに」


 全員の視線が、俺に集まる。逃げたくなった。でも、こはるは逃げなかった。なら、俺だけ逃げるわけにはいかなかった。

「……俺に直接聞いてくれ」


 自分でも驚くくらい、はっきりと声が出た。

「答えられることと、答えられないことはあるけど。こはるに聞かれるよりは、俺に直接聞かれた方がいい」


 こはるが、少しだけ目を見開いた。小鳥遊が小さく呟く。

「本人窓口……」

「窓口にするなよ」

「訂正します。本人です」


 その訂正は、少しだけ良かった。


* * *


 教室へ戻ると、空気が妙にざわついていた。宮坂が立ち上がる。

「佐倉。妹さんが窓口を閉めたと聞いたぞ」

「情報が速いにもほどがあるだろ」

「校内放送より速いと言っただろ」


 城ヶ崎が後ろの席から身を乗り出す。

「こはるちゃん、大丈夫?」

「ああ。たぶん、な」

「そっか。じゃあ、次からは悠斗に直接聞くね」

「軽いな」

「でも、そういうことでしょ」


 城ヶ崎は笑った。

「理由なしで来る時もさ、こはるちゃんに予告しない。悠斗に直接言うよ」

「予告されても非常に困る」

「でも、こはるちゃんを挟まないからね」


 それは正しかった。芽衣も、斜め前で深く頷いた。

「帰り道も、こはるちゃんに確認しないよ」

「今までしてたのかよ」

「たまにね」

「たまにか」

「ごめん」


 素直に謝られると、逆に返しづらい。一ノ瀬は、前の席で静かに言った。

「本人確認の経路を修正します」

「一ノ瀬さん、それ言い方」

「佐倉こはるさんを中継点とせず、佐倉くん本人へ確認します」

「結局、確認は続くんですね」

「続きます。本人確認ですからね」


 そこは揺るがないらしい。教室の入口に、白瀬先輩が立っていた。

 いつものように綺麗で、いつもより少しだけ申し訳なさそうな顔をしている。

「佐倉くん」

「はい」

「こはるさんに、少し負担をかけてしまいました」

「……白瀬先輩だけのせいではないと思います」

「それでも、私もです」


 白瀬先輩は、静かに頭を下げた。

「次からは、あなたに直接聞きますね。白瀬玲奈として」


 その一言で、また空気が大きく揺れた。城ヶ崎が小声で言う。

「うわ、本人に聞く宣言まで綺麗だな」

「城ヶ崎さんも、かなり直接的でしたよ」

「うちのは軽いからさ」

「軽いものは、時に速いです」


 白瀬先輩がさらりと返す。城ヶ崎が「うっ」と小さく呻いた。芽衣が、少しだけ笑っていた。

 小鳥遊は、白瀬先輩の横でまっすぐこちらを見ている。

「佐倉先輩」

「何だ」

「私も、こはるちゃんではなく、佐倉先輩に直接確認します」

「何をだ」

「佐倉先輩自身を見てもいいのか、です」

「……まだ確認中なんだな」

「はい。ですが、確認先は修正します」


 一ノ瀬が満足そうに頷いた。

「適切です」

 何が適切なのか、もう全く分からなかった。


* * *


 放課後。こはるは弓道場へ向かう途中で、俺を待っていた。

 猫のぬいぐるみは持っていない。代わりに、弓道部の道具袋を肩にかけている。

「お兄ちゃん」

「何だ」

「今日は、ちょっとだけ楽だったよ」

「そうか」

「うん。全部解決したわけじゃないけどね」


 こはるは、廊下の窓から外を見た。

「私、白瀬先輩の後輩でいたいんだよ」

「ああ」

「お兄ちゃんの妹でもいたい」

「ああ」

「でも、お兄ちゃんの恋愛騒動を処理する人ではいたくないの」


 はっきりと言い切られた。

「ごめん」

「謝罪は受け取ります」

「相変わらず硬いな」

「でも、これからは本人に聞かせてね」


 こはるは俺を見た。

「お兄ちゃんも、本人なんだからさ」

「……そうだな」

「逃げてもいいけど、私の後ろに隠れて逃げるのは無しだからね」


 その言い方は、かなり深く刺さった。

「分かった」

「本当に?」

「たぶん、な」

「たぶんねえ」


 こはるは少しだけ笑った。

「じゃあ、今日はそれで十分だよ」


 最近、この家の周りでは「十分」が重すぎる。

「こはる」

「何」

「お前も本当に強いな」

「私は弱いよ」


 即答だった。

「弱いから、窓口を閉めたんだよ」

「……」

「全部受け続けたら、壊れちゃうからさ」


 その言葉は、決して軽くなかった。でも、こはるはちゃんと笑っていた。

「だから、今日から私は、紙なしの妹です」

「何だそれ」

「管理表を作らない。窓口にもならない。ただし、危なかったら口では刺すからね」

「刺すのは続くのかよ」

「妹なので」


 理由になっているようで、全く成立していない。こはるは道具袋を持ち直した。

「じゃあ、部活行ってくるね」

「ああ」

「白瀬先輩には、今日はちゃんと後輩として会うからさ」

「……そうか」


 その背中は、朝より少しだけ軽かった。


* * *


 夜、こはるから管理表の画像は送られてこなかった。

 代わりに、短いメッセージが届いた。

『今日は紙なし継続』

『窓口、閉鎖』

『本人に聞いてください』


 俺はスマホをベッドに置き、天井を仰いだ。

 こはるは、窓口を閉めた。


 それはつまり、俺の前に来る言葉を、こはるが代わりに受け止めてくれなくなるということだ。


 白瀬玲奈として。

 理由なしで。

 本人確認として。

 確認中として。

 今日の帰り道として。


 それぞれが、それぞれのまま俺の前に直接来る。

 誰とも付き合う気はない。


 その言葉は、まだ嘘ではない。

 でも、もう妹の後ろに隠れてやり過ごすことはできない。

 次に言うなら、俺自身の口で、本人たちに向けて言うしかなかった。

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