第24話:同じ言葉では、もう通じない
翌朝、食卓には紙がなかった。
管理表もない。座席メモもない。覚え書きもない。ただ、こはるが猫のぬいぐるみを抱えたまま、朝から妙に静かだった。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「昨日、一ノ瀬先輩に確認されたんだよね。同じ言葉で、同じ場所には戻せない、って」
「……こはるにも言ったな、それ」
「言われなくても、もう見えてたけどね」
こはるは味噌汁を啜り、少しだけ目を細めた。
「今日は危ないよ。言葉が危ない」
嫌な種類の警告だった。
「お兄ちゃん、『誰とも付き合う気はない』って言葉を、今まで消火器みたいに使ってたでしょ」
「消火器?」
「とりあえずそれを噴射しておけば、全部の火が消えると思ってた。でも実際、そういう雑な使い方をしてたよ」
否定しようとして、言葉に詰まった。あの日の中庭で白瀬先輩にそう言った。それから何度も、似たような言葉を盾にして、自分の周りの環境を無理やり「元の場所」へ戻そうとしてきた。
「でも、今はもう違う。それ、消火器じゃなくて、ただの雑な一括処理に見えるもん。莉愛さんは理由なしで来たし、芽衣ちゃんは予約しない帰り道を残した。雫ちゃんまで確認中になったんだよ」
こはるは猫のぬいぐるみに顔を少しだけ埋めた。
「整理しないと脳が死ぬんだよ。だからお兄ちゃん。今日は、その言葉を雑に使わないで。少なくとも今日は、一人ずつ違うってことだけ忘れないでね」
* * *
教室に入ると、空気がわずかにいつもと違っていた。昨日の一ノ瀬とのやり取りが、どこからか漏れているらしい。最近の俺の周囲に関する情報網は、もはや学校の公式連絡よりも速い。
「佐倉」
右隣の宮坂が、俺を見るなり深刻な顔をした。
「今日は気をつけろ。……特に『言葉』にな」
「朝から二回目なんだが、その忠告」
「俺が言ったんじゃない。空気がそうなってる。お前、昨日から『同じ言葉で返せない男』としてマークされてるぞ」
真後ろから城ヶ崎が、椅子の背にもたれて声をかけてくる。
「おはよ、悠斗! 今日は『理由なし』では行かないよ」
「それをわざわざ宣言しに来たのか」
「うん。毎日行ったら希少価値が下がる気がするからね。昨日の九分は、ちゃんと悠斗の中に残ってるでしょ?」
「残してない」
「残るよ。理由なしって、消す理由もないもん。……候補なので」
軽い。軽いのに、ちゃんと逃げ道を塞いでくる。斜め前の芽衣が、こちらを少しだけ振り返った。
「悠斗。今日は帰り道、予約しないから」
「……そうなのか」
「うん。予約はしない。でも――私が同じ方向に歩くのは自由でしょ?」
「……そう来るのか」
「予約じゃないよ。帰り道なんだから」
生活圏の主導権が強すぎる。正面の一ノ瀬は、ノートを開きながら静かに言った。
「佐倉くん。今の二件について、即答しなかった点は適切です。ただし、判断保留のまま放置するのは推奨しません。管理ではありません。本人確認の継続です」
宮坂が、右隣で小さく震えていた。
「佐倉……お前、処理落ちしてる顔だぞ」
「処理できる方が、どうかしてるだろ……」
* * *
昼休み。
一ノ瀬の交通整理とこはるの防衛、そして俺自身が人だかりを拒絶した効果で、以前よりは落ち着いていた。だが、落ち着いているのと平穏なのは、全くの別物だった。
「佐倉くん。……ちょっといいか」
昼食を終えた頃、クラスの男子が数人、妙に覚悟を決めた顔で近づいてきた。
「お前って結局、誰かと付き合う気とかあるの?」
教室の空気が、一瞬で凍りついた。宮坂が「馬鹿、今それを聞くか」という顔で天を仰ぐ。城ヶ崎が息を呑み、芽衣が箸を置き、一ノ瀬の視線が、静かにこちらへ向いた。入口の小鳥遊まで、こちらを見ている。
反射的に、いつもの言葉が出そうになった。
――誰とも付き合う気はない。
そう言えばいい。事実だ。そう言えば、少なくともこの場は一度止まる。
でも、止めた後に、何が起きるのかを予見してしまった。白瀬先輩の『白瀬玲奈』。城ヶ崎の『理由なし』。芽衣の『予約しない帰り道』。一ノ瀬の『本人確認』。
同じ言葉を返しても、もう、同じ場所には戻れない。
「……今は」
俺は、絞り出すように言った。
「誰かと付き合うっていう答えを、出せるわけじゃない」
教室が静まり返る。
「でも。それを一言で、全部同じ棚に戻すみたいに返すのは。……たぶん、違うと思う」
自分で言って、少しだけ胃が重くなった。男子たちは意味が分からないという顔をしていたが、それでいい。
城ヶ崎が「おお……」と小さく感嘆の声を漏らし、芽衣が目を伏せる。
小鳥遊が、入口付近でポツリと呟いた。
「……雑に処理しなかった」
宮坂が、俺の肩をそっと叩いた。
「佐倉。今の、正解かは分からんけど……前よりは『人間』だったぞ」
* * *
城ヶ崎は、いつものように軽く笑った。けれど、声だけは少し小さかった。
「じゃあ、昨日の九分、まだ返却されてないってことでいい?」
「返却って言うな」
「だって、今の悠斗の言い方だと、うちの理由なしも、まだそこに残ってる感じしたし」
「……勝手に残すな」
「勝手に来たからね。勝手に残るくらいは許してよ」
軽い言い方だった。でも、昨日の九分を本気で大事にしているのは分かった。
芽衣は、少し遅れて振り返った。
「悠斗」
「何だ」
「帰り道も、一括返却じゃないんだよね」
「その言い方、一ノ瀬さんの影響が強すぎるぞ」
「でも、そういうことでしょ」
芽衣は、机の端に指を置いたまま、小さく息を吐いた。
「私は、昔から隣にいたからって、それを権利にするつもりはないよ。でも。……今日も同じ方向に歩きたいとは思ってる」
予約ではない。昔からの当然でもない。ただ、今日の芽衣の言葉だった。
一ノ瀬が、静かにペンを置く。
「今の橘さんの発言は、本人意思として明確です。判定ではありません。……確認です」
教室の入口から、小鳥遊が鋭い視線を向けてくる。
「佐倉先輩。雑に処理しない佐倉先輩だから、白瀬先輩は白瀬玲奈として来たのだと思います。……確認中です」
* * *
放課後。白瀬先輩が教室に現れた。
「佐倉くん。今日の昼休みの件、聞きましたよ。小鳥遊さんから」
「……本当に情報が早すぎます」
「雑に戻さなかったそうですね」
「……できなかっただけです」
「それでも、です」
白瀬先輩は静かに微笑んだ。
「私は、まだ振られておきます。でも。白瀬玲奈として覚えておいてください、というお願いが、一括で返されなかったなら」
そこで、少しだけ言葉を切る。
「今日は、それで十分です」
城ヶ崎が後ろから小声で言った。
「白瀬さんの『それで十分です』、強いなー」
「城ヶ崎さんの九分も、かなり印象的でしたよ」
白瀬先輩がさらりと返した。
城ヶ崎が真後ろで固まる。
「え、白瀬さんに九分知られてる」
「小鳥遊さんから聞きました」
「後輩ちゃん、情報網つよ」
小鳥遊は無表情で頷いた。
「白瀬先輩のためです」
少し遅れて、付け加える。
「……だけでは、ないかもしれません」
一ノ瀬が、静かにそれを見ていた。
芽衣は、斜め前で少しだけ笑っている。
全員が同じ場所にいるわけではない。
同じ言葉で返せるわけでもない。
それぞれが、それぞれの形で、少しずつ前にいる。俺はそのことを、嫌でも感じていた。
* * *
帰り道。芽衣は本当に「予約」とは言わなかった。
「……予約じゃないんだよな」
「うん。予約じゃないよ」
「じゃあ、何なんだ、これは」
「帰り道」
答えは、拍子抜けするほどシンプルだった。
「……昔からの続きか?」
「ううん。今日の」
その言葉に、少しだけ返事が遅れた。
「毎日を『昔から』の続きにしちゃうと、お互い重いでしょ? だから今日は、今日の帰り道。ただそれだけ。同じ言葉で返せないなら、同じ帰り道とも限らないしね」
「……お前も、けっこう刺してくるな」
「幼なじみなので。察しはいいよ」
予約でも昔からの権利でもない。ただ、今日の帰り道を隣で歩く。それもまた、同じ言葉で返せないものの一つだった。
* * *
家に帰ると、こはるが玄関で俺を待ち構えていた。
紙はない。ペンもない。猫のぬいぐるみだけを抱えている。
「お兄ちゃん。今日は、全員?」
「……全員ではない」
「ほぼ全員?」
「否定しづらい」
こはるは天井を仰いだ。
「何があったの」
「昼休みに、誰かと付き合う気があるのかって聞かれたんだ」
「うわ」
「うわって言うな」
「言うよ。それは、うわだよ」
こはるは猫のぬいぐるみを抱き直した。
「何て答えたの」
「今は答えは出せないけど、一言で全部同じに返すのは違うと思う、って」
「……」
こはるが、また黙った。
「お兄ちゃんが、自分で一律処理をやめかけてる」
「やめかけてる、なのか」
「まだ完全にはやめてない。だから、やめかけ」
正確だった。
「紙にはしないよ。これは紙に書き起こしたら、絶対に駄目なやつだから」
こはるは、今日一番真剣な顔で言った。
「一覧表にした瞬間、また全部が同じ枠に収まっちゃう。それは、たぶんもう違うんだよ」
妹の言葉は、今日のどの確認よりも静かだった。
こはるは天井を仰ぎ、猫のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「お兄ちゃん。紙なし防衛は継続。ただし、言葉の防衛ラインは、もうかなり崩れてる。……でも。たぶん、いい崩れ方だと思うよ」
珍しく、少しだけ優しい判定だった。
* * *
その日の夜。こはるから管理表の画像は送られてこなかった。代わりに、短いメッセージが届いた。
『今日は紙なし継続』
『一律拒絶、使用保留』
『全員:同じ言葉では返せない』
俺はスマホを置き、天井を仰いだ。
誰とも付き合う気はない。その大前提自体は、まだ嘘ではない。けれど、その言葉を今までと同じ形で投げても、すべてがかつてのように同じ場所に戻るわけではない。
白瀬玲奈として。
理由なしで。
本人確認として。
確認中として。
今日の帰り道として。
全部、違う。だから、同じ言葉では返せない。その事実を、今日、俺は初めて自分の口で受け入れてしまった。




