第26話:誰とも付き合う気はない、では終わらない
翌朝、食卓には紙がなかった。
管理表もない。座席メモもない。覚え書きもない。
ただ、こはるが妙にすっきりした顔で味噌汁を啜っていた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「窓口は閉鎖中です」
「昨日聞いたよ」
「でも、妹としての警告は出します」
「閉鎖したんじゃないのかよ」
「窓口は閉めたの。妹は閉めてないからさ」
よく分からない理屈だったが、少しだけ安心した。
こはるは猫のぬいぐるみを今日は抱えていない。椅子の横に置いてあるだけだ。
「今日、たぶん来るよ」
「誰がだ」
「全員ではないかもしれないけどね、全員分の流れがさ」
嫌な予言だった。
「お兄ちゃんは昨日、私の後ろに隠れないって言ったでしょ」
「たぶん、な」
「たぶんって言ったな」
「そこは覚えてるのかよ」
「覚えてるよ。妹なので」
こはるは箸を置いた。
「今日、もし言うなら、ちゃんと本人に直接言ってね」
「何を」
「誰とも付き合う気はない、ってさ」
朝の空気が少しだけ重くなった。
「でも、それだけじゃ駄目だよ」
「駄目なのか」
「駄目。だってさ、それだけで終わらせようとした結果が今だからね」
正論だった。
「じゃあ、どう言えばいいんだよ」
「知らないよ」
「知らないのかよ」
「私は窓口を閉めたのでね」
そこだけ都合よく閉めるな。こはるは、少しだけ満足そうに笑った。
「でも、一つだけ」
「何だ」
「全員を同じ場所に戻すための言葉じゃなくてさ、全員を違うまま受けるための言葉にしてね」
難しすぎる。けれど、それが今日やるべきことなのだと、少しだけ分かってしまった。
* * *
教室に入ると、空気が静かだった。静かすぎて、逆に怖い。
右隣の宮坂が、俺の顔を見るなり小さく手を合わせた。
「佐倉」
「何だ」
「今日は最終防衛線っぽい顔してるな」
「勝手に戦場にするなよ」
「もう戦場だろ。しかも全方向から別兵科が来てるぞ」
言い方が嫌すぎる。真後ろの城ヶ崎が、椅子の背にもたれながら笑った。
「おはよ、悠斗」
「おはよう」
「今日は理由なしじゃないよ」
「昨日も聞いた気がするな」
「今日は理由あるからさ」
「何の」
「悠斗がちゃんと自分の口で言うか、見に来たの」
軽い。でも、まっすぐだった。斜め前の芽衣は、いつもより静かだった。
「悠斗」
「何だ」
「今日は帰り道を聞く前に、ちゃんと話を聞くね」
「話?」
「うん。悠斗が何を言うのかさ」
正面の一ノ瀬は、ノートを開いていない。ただ、机の上に両手を綺麗にそろえ、まっすぐこちらを見ていた。
「佐倉くん」
「はい」
「本日は、こちらから先に確認しません」
「珍しいですね」
「あなたが、自分から何を言うのかを確認しますからね」
それも確認ではないだろうか。いや、たぶん確認なのだろう。教室の入口には、小鳥遊がいた。今日は白瀬先輩も一緒だった。
白瀬先輩は、いつものように完璧に綺麗な微笑みを浮かべている。けれど、俺を見た時、その目だけは少しだけ真剣だった。
「佐倉くん」
「白瀬先輩」
「今日は、こはるさんには聞いていませんよ」
「……そうですか」
「あなたに聞きに来ました。白瀬玲奈として」
また、空気が止まる。宮坂が小さく呟いた。
「佐倉。全軍到着だぞ」
「黙ってろ」
「黙る」
珍しく素直に黙り込んだ。
* * *
昼休み。誰かに呼び出されたわけではない。誰かと約束したわけでもない。
けれど、気づけば俺たちは中庭にいた。
あの日、白瀬先輩に告白された場所。俺が「誰とも付き合う気はありません」と言って、全部を止めたつもりだった場所だ。
あの日と同じように、昼休みの中庭には人がいた。弁当を食べている生徒。購買袋を持つ男子。二階の渡り廊下からこちらを見下ろす女子たち。
ただ、あの日と違って、俺はもう何も知らないふりができなかった。
白瀬先輩が、少し離れた場所に立っている。城ヶ崎は真後ろではなく、俺の斜め横にいる。
芽衣は隣にいるが、いつもの帰り道より少し距離を取っている。
一ノ瀬は正面で姿勢よく立ち、小鳥遊は白瀬先輩の少し後ろからこちらを見ている。
こはるはいない。それが、今日の正しさだった。
「佐倉」
宮坂が、少し離れたところで小声で言った。
「逃げるなら今だぞ」
「逃げないよ」
「だよな」
宮坂は笑わなかった。ただ、小さく頷いて離れた。俺は、深く息を吸い込んだ。
「最初に言っておく」
声が少し震えた。それでも、言うしかなかった。
「俺は、今も、誰かと付き合うって答えは出せない」
中庭の空気が静まり返る。俺の視線が、一瞬だけ足元に落ちた。
幼なじみだから。昔、その都合の良い言葉で芽衣の沈黙を見なかったことにした。こはるの先輩だから。
そう呼べば、白瀬先輩を安全な場所に戻せると思い込んでいた。彼女、という名前も、たぶん同じだ。その名前をつけた瞬間、俺はまた、その人を一つの棚に戻してしまう気がしていた。
だから、まだ答えは出せない。選ぶことが怖いというより、選んだあともちゃんと見続けられる自信が、まだなかった。
「それは、変わってない。白瀬先輩にも、城ヶ崎にも、芽衣にも、一ノ瀬さんにも、小鳥遊にも、今すぐ付き合うとか、誰かを選ぶとか、そういう答えは持っていない」
小鳥遊が小さく息を呑んだ。城ヶ崎は笑っていない。芽衣は目を逸らさなかった。一ノ瀬は待っていた。白瀬先輩は、静かに俺を見ていた。
「でも」
ここからだ。
「それを理由に、全部を同じ言葉で返すのは、もう違うと思う」
喉が渇く。
「白瀬先輩を、こはるの先輩という場所に戻して終わらせるのは違う。城ヶ崎の理由なしを、何となくの冗談として流すのも違う。芽衣の帰り道を、昔からそうだったからって当然扱いするのも違う。一ノ瀬さんの確認を、ただの管理だと思って逃げるのも違う。小鳥遊を、白瀬先輩越しの後輩としてだけ見るのも違うんだよ」
言葉にするたび、逃げ道が消えていく。でも、逃げ道が消えた場所でしか言えないこともあった。
「だから、今は誰とも付き合う気はない。けど、それを、一括の拒絶にはしないよ」
ようやく言えた。
「返事を出せないことはある。分からないこともある。困ることもある。でも、本人ごとに聞く。本人ごとに返す。こはるを挟まない。誰かを同じ場所に押し戻すために、同じ言葉を使わない」
俺は、一度だけ拳を強く握った。
「それだけは、今日、はっきり言っておきたい」
静かだった。このまま静かに終わっていれば、少しだけ綺麗だったのかもしれない。
けれど、終わらなかった。
「……分かりました」
最初に動いたのは、白瀬先輩だった。
「では、白瀬玲奈として覚えていただく件は、継続ですね?」
「……はい?」
「一括の拒絶ではないのでしょう。では、私のお願いはまだ終わっていません。私はまだ振られておきます。でも、白瀬玲奈として、あなたの中に置いておいてください」
ああ。そう来るのか。
「じゃあ、うちの理由なしも継続ね!」
城ヶ崎がすかさず一歩前に出た。
「一括拒絶じゃないなら、理由なしも『そういうやつ』として残るよね。嫌じゃないなら、また九分くらいは来るから。候補なので」
芽衣が、少しだけ笑った。
「じゃあ、私は予約しない。でも、今日の帰り道を聞くのは続ける。昔からの権利じゃなくて、その日ごとの私として。……今日は、一緒に帰っていい?」
「……今ここで聞くのか」
「本人に聞けって、こはるちゃんが言ったから」
一ノ瀬が、静かに眼鏡を押し上げた。
「佐倉くん。本人ごとに聞き、本人ごとに返すという宣言を確認しました。では、私の本人確認も継続します。あなたの返答が変化する以上、継続的な確認が必要です。……それに、管理のためだけではありません。私自身の確認としても」
最後に、小鳥遊が白瀬先輩の後ろから一歩出た。
「私は白瀬先輩のために確認します。変わりません、絶対に。でも……佐倉先輩自身を見てもいいのかという確認も、継続します。かなり難しいですが、確認中です」
こはるの窓口は閉じた。でも、そのせいで全員が、直接こっちへ来るようになったんだ。
宮坂が遠くで深く頭を抱えていた。
「佐倉……お前、終わらせたんじゃなくて、五件に分割しただけだぞ……」
その通りすぎて、反論できなかった。
* * *
中庭のざわめきは、あの日とは違う形で広がっていた。
白瀬先輩に告白され、振った日。あの日、俺は「誰とも付き合う気はない」と言って、全部を止めたつもりだった。
でも、今日は違う。止まらなかった。
白瀬先輩は、白瀬玲奈として残った。城ヶ崎は、理由なしで来ると言った。芽衣は、今日の帰り道を聞いた。一ノ瀬は、本人確認を継続した。小鳥遊は、自分自身の確認を続けると言った。
誰とも付き合う気はない。
それでも、終わらない。俺がそう言う前よりも、むしろ、ひとつずつはっきりしてしまった。
「佐倉くん」
白瀬先輩が、もう一度俺を呼んだ。
「はい」
「今日のあなたは、逃げませんでしたね」
「……たぶん、な」
「たぶんでも、今日は十分です」
また、十分。城ヶ崎が笑う。
「白瀬さんの『今日は十分です』、やっぱり本当に強いな」
「城ヶ崎さんの九分も、なかなかでしたよ」
「うわ、覚えられてる」
「正確に覚えています」
白瀬先輩と城ヶ崎が、そんな会話を交わす。芽衣がそれを見て、少しだけ肩の力を抜く。一ノ瀬が、人だかりの導線をさりげなく調整する。小鳥遊が、白瀬先輩の横にいながら、ほんの少しだけ俺も見ている。
全員、違う。同じ場所には戻らない。そして俺は、それを知ってしまった。
* * *
放課後。芽衣とは、一緒に帰った。
予約ではない。昔からの当然でもない。ただ、今日の帰り道として。
「悠斗」
「何だ」
「今日は、ちゃんと言ったね」
「ちゃんとだったかは正直分からないな」
「うん。私も分からないよ」
「分からないのかよ」
「でもね、前よりはちゃんと聞こえたからさ」
芽衣は前を向いて歩きながら言った。
「だから、今日の帰り道は成立ね」
「いちいち制度化するなよ」
「制度じゃないよ。今日の分だからさ」
そう言って、芽衣は少しだけ嬉しそうに笑った。
* * *
家に帰ると、こはるが玄関で律儀に待っていた。
紙はない。ペンもない。猫のぬいぐるみは、今日は腕の中ではなく、靴箱の上に静かに座っていた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「言った?」
「言ったよ」
「本人に?」
「本人たちに直接な」
「こはるを挟まずに?」
「挟まずに」
こはるは、深く息を吐き出した。
「どうなった?」
「五件に分かれたな」
「だと思ったよ」
「知ってたのかよ」
「知ってたというかさ、普通にそうなるでしょ」
妹は容赦なかった。
「終わらせたんじゃなくてさ、終わらせない形にしたんだよ」
「……そうなのか」
「そうだよ。お兄ちゃんは今日、全員に別々の未解決ラベルを貼ったんだからね」
嫌な言い方だが、間違ってはいない。
「紙にはしないのか」
「しないよ」
「ラベルって言ったのにか」
「紙にしたら負け。でもね、口では刺すから」
こはるは少しだけ満足そうに笑った。
「よくやったね、お兄ちゃん」
「珍しく褒めたな」
「妹なのでね」
その一言が、今日はかなりありがたかった。
* * *
夜、こはるから管理表の画像は送られてこなかった。もう、送られてくることはないのだと思う。
代わりに、短いメッセージが届いた。
『紙なし継続』
『窓口、閉鎖継続』
『五件、本人対応へ移行』
俺はスマホをベッドに置き、天井を仰いだ。
誰とも付き合う気はない。
その言葉は、まだ俺の中に確かにある。でも、もうそれだけでは終われない。
白瀬玲奈として。
理由なしで。
今日の帰り道として。
本人確認として。
確認中として。
五つの未解決が、俺の前に残っている。俺はそれを、同じ言葉で消すことをやめた。
だからたぶん、ここからが始まりなのだと思う。
第一部 終わり




