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第21話:学園一の美少女は、妹の先輩を少しだけやめたい

 翌朝、食卓には紙がなかった。

 管理表もない。座席メモもない。覚え書きもない。

 ただ、こはるが妙に真剣な顔で味噌汁をすすっていた。


「お兄ちゃん」

「何だ」

「今日は、白瀬先輩に関する用件があります」

「朝から言い方が重いな」

「軽く言ったら油断するでしょ」


 こはるは箸を置き、鞄の横に置いていた小さな袋をこちらへ差し出した。

「これ、白瀬先輩に返しておいて」

「何だ」

「弓道部の予備の手ぬぐい。昨日、私が間違えて持って帰ってきたの。今日は委員会の当番があって、部活前に渡しに行けないからさ」

「なるほど。普通の用件だな」

「普通の用件に見えるものほど危ないんだよ」


 妹の目は、すでに何度も地獄を見た人間のそれだった。

「白瀬先輩は丁寧に来る。丁寧に来るから止めづらいんだよね」

「何か悪役みたいに言うなよ。こはるの先輩だろ」

「そこが危ないの」


 こはるは、まっすぐ俺を見た。

「お兄ちゃん、白瀬先輩のことを、まだ“私の先輩”って安全な棚に戻そうとしてるでしょ」

「……棚?」

「棚。管理表じゃないから安心して」

「安心できる単語が一つもないんだが」


 こはるは、少しだけ声を落とした。

「白瀬先輩は、私の先輩でもある。でも、たぶんそれだけじゃないよ」

「それは、まあ……」


 あの日の中庭を思い出す。

『私、あなたの妹の先輩をやめたいの』

 あの一言から、全部がおかしくなった。


「お兄ちゃん」

「何だ」

「今日は、白瀬先輩を“学園一の美少女”って棚に戻さないでね」

「俺がそんなことをしたことがあるか」

「自覚なくやってる可能性があるから怖いんだよ」


 妹からの信用が、朝食の湯気より薄い。

「あと」

「まだあるのか」

「こはるの先輩だから、って理由だけで話を終わらせないで」

「それは難しい注文だな」

「難しいことを頼んでる自覚はあるよ」


 こはるは味噌汁を一口飲み、最後に言った。

「でも、たぶん大事だからさ」


* * *


 教室に入ると、宮坂が俺の鞄を見た瞬間に身構えた。

「佐倉」

「何だ」

「今日は何を持ってきたんだ」

「弓道部の手ぬぐい」

「もう物品の時点で嫌な予感がするぞ」

「ただの返却物だ」

「そう言って始まった事件を、俺はこの数週間で何件も見てきたからな」


 反論したかったが、少しだけ心当たりがあった。

 後ろの席から、城ヶ崎が覗き込んでくる。

「悠斗、それ白瀬さん関係?」

「こはるの部活関係だ」

「つまり白瀬さん関係じゃん」

「短絡的につなげるなよ」


 斜め前の芽衣も、静かにこちらを見た。

「悠斗、放課後?」

「ああ。返すだけだけどな」

「返すだけ、で終わるといいね」

「不穏な言い方をするな」


 正面の一ノ瀬がノートを閉じ、こちらを振り返った。

「佐倉くん。物品返却のために教室外へ移動する場合、周囲に人だかりが発生しないよう注意してください」

「手ぬぐいを返すだけで人だかりが発生する前提なんですか」

「前例があります」


 前例が多すぎる。宮坂が机に突っ伏した。

「佐倉。妹の先輩枠だと思って油断するなよ」

「枠って言うな」

「たぶん今日、本人名義で来るぞ」

「やめろ。予言するな」


 嫌な予言ほど当たる。最近、それを学びつつある。


* * *


 放課後の弓道場は、静かだった。

 校舎裏へ続く道よりも、さらに奥。弓道場の板張りの床から、軽い足音と弦の音がかすかに響いてくる。


 俺は手ぬぐいの入った袋を持ったまま、少しだけ入口の前で立ち止まった。ここは完全に、こはるの世界だ。

 そして、白瀬先輩の世界でもある。


「佐倉くん」

 呼ばれて顔を上げると、白瀬先輩が立っていた。


 いつもの制服ではなく、弓道着姿だった。白と黒。余計な飾りのない服装なのに、白瀬先輩が着ると、それだけで周囲の空気が整って見えた。

「わざわざありがとうございます。こはるさんから聞いています」

「これです」


 俺は袋を差し出した。白瀬先輩は両手で受け取り、中身を確認してから、丁寧に頭を下げた。

「確かに受け取りました。こはるさんに、助かりましたと伝えてください」

「はい」


 用件は終わった。終わったはずだった。

「では、失礼します」

「佐倉くん」


 背を向けかけたところで、呼び止められた。やっぱり終わらなかった。

 白瀬先輩は、手ぬぐいの袋を脇に置き、こちらへまっすぐ向き直った。

「今のは、こはるさんの先輩としてのお礼です」

「はい」

「ここから少しだけ、白瀬玲奈としてお話ししてもいいですか」


 風が止まったような気がした。弓道場の奥から聞こえていた足音も、少し遠くなる。

「……少しだけなら」

「ありがとうございます」


 白瀬先輩は微笑んだ。丁寧で、逃げ道があるように見えて、実はない微笑みだった。


* * *


「あの日。私が、佐倉くんに告白した日のことを覚えていますか」

「忘れられるわけがないです」

「私が言ったことも?」

「……『妹の先輩をやめたい』、ですか」


 口にすると、改めてとんでもない台詞だった。白瀬先輩は、少しだけ楽しそうに目を細めた。

「はい。あの時の佐倉くんは、真っ先にこはるさんの心配をしました」

「しましたね」

「私は、少し困りました」

「すみません」

「でも、少し嬉しくもありました」


 白瀬先輩は、弓道場の方を一度だけ見た。

「こはるさんは大切な後輩です。今もそれは変わりません」

「はい」

「私は、こはるさんの先輩でいられることを誇りに思っています」

「こはるも、白瀬先輩のことを本当に尊敬しています」


 そう言うと、白瀬先輩は穏やかに笑った。

「知っています。だからこそ、少し困るんです」

「困る、ですか」

「佐倉くんが、私をそこに戻すのが上手なので」


 返す言葉が、一瞬遅れた。

「こはるさんの先輩。弓道部の人。学園一の美少女。振った相手」

「……」

「どれも間違ってはいません。けれど、それだけだと、少し遠いです」


 白瀬先輩の声は静かだった。でも、軽くはなかった。

「私は、あなたに振られたあとも、こはるさんの先輩でいます」

「はい」

「でも、あなたの前でまで、それだけに戻されるのは、少しだけ悔しいです」


 まっすぐだった。中庭で告白された時と同じように、姿勢が崩れない。ただ、あの時よりもずっと静かで、近い。

「白瀬先輩」

「はい」

「それは、俺にどう見てほしいという話ですか」


 聞いた瞬間、少し後悔した。けれど、白瀬先輩は嬉しそうに笑った。

「聞いてくださるんですね」

「聞かないと、また間違えそうなので」

「では、言います」


 白瀬先輩は、一歩だけこちらへ近づいた。

「白瀬玲奈として。――私自身を、覚えておいてください」


 短い言葉だった。でも、その短さが一番逃げづらかった。


* * *


「……覚える、ですか」

「はい」

「それは、付き合うとか、そういう返事では」

「ありません」


 即答だった。

「佐倉くんは、まだ誰かと付き合う気はないのでしょう?」

「はい」

「では、そこを無理に動かすつもりはありません。私はまだ振られておきます」


 いつもの言い方。でも、今日は少しだけ意味が違った。

「ただ」

「ただ?」

「振られている間も、白瀬玲奈として少しずつ覚えてもらうことは、禁止されていませんよね」


 禁止されていない。たしかに、そんな規則はない。一ノ瀬に聞けば、たぶん「本人意思確認の範囲内です」と言われる。こはるに聞けば、確実に頭を抱える。


「……白瀬先輩は、強いですね」

「学園一の美少女ですから」

「自分で言いますか」

「皆さんがそう呼ぶので」


 白瀬先輩は、少しだけ笑った。

「私、今日はその呼び方でもありませんよ」

「では、何ですか」

「白瀬玲奈です」


 逃げ道を、丁寧に塞がれた。ただし、今日は嫌ではなかった。困る。ものすごく困る。でも、嫌ではなかった。

「佐倉くん」

「はい」

「今日の私は、こはるさんの先輩らしかったですか。それとも、白瀬玲奈らしかったですか」


 難問だった。弓道着姿で、部活の手ぬぐいを受け取り、こはるのことを大切な後輩だと言った。間違いなく、こはるの先輩だった。

 でも、それだけではなかった。

「……両方だと思います」

「両方」

「こはるの先輩なのは本当です。でも、今それを言っている白瀬先輩も、たぶん白瀬玲奈さんなので」


 言ってから、自分で顔が熱くなるのを感じた。

「すみません。うまく言えません」

「いいえ」


 白瀬先輩は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「今日は、それで十分です」


 また、十分。この人は、十分と言いながら、少しずつ場所を取っていく。

「では、こはるさんには手ぬぐいを受け取ったと伝えてください」

「はい」

「それから」

「まだありますか」

「白瀬玲奈としての方は、佐倉くんの中に置いておいてくださいね」


 言い方がずるかった。

「……努力します」

「はい。覚えておきます」


 白瀬先輩は丁寧に頭を下げた。それから、弓道場へ戻っていく。

 背中まで綺麗だった。でも今日は、その綺麗さが少しだけ違って見えた。学園一の美少女だから、ではない。こはるの先輩だから、でもない。

 白瀬玲奈という一人の人間が、そこに歩いているように見えた。


* * *


 教室へ戻る途中、宮坂に捕まった。

「佐倉」

「何だ」

「顔が終わってないぞ」

「最近お前、そればっかりだな」

「終わってない顔をしてるからだよ」


 宮坂は俺の手元を見た。

「手ぬぐいは?」

「返したよ」

「なのに何か持って帰ってきた顔をしてるな」

「何も持ってない」

「物理的にはな」


 妙なところだけ鋭い。

「白瀬さんに何か言われたのか」

「こはるの先輩としてのお礼と、白瀬玲奈としての話をされた」

「重いな」

「一言でまとめるなよ」

「いや、重いだろ。妹の先輩枠を本人名義に切り替えてきたんだぞ」


 言い方は雑だが、間違ってはいなかった。そこへ、後ろから城ヶ崎がひょこっと顔を出した。

「え、白瀬さんが本人名義で来たの?」

「来たとか言うな」

「強いなー。学園一って、そういう切り替えも綺麗なんだね」


 芽衣が、少しだけ静かにこちらを見た。

「悠斗、ちゃんと見たんだね」

「……見た、と思う」

「そっか」


 その「そっか」は、少しだけ複雑だった。

 一ノ瀬がノートを閉じ、正確に告げる。

「個人名義の対話であれば、本人意思の確認が必要です」

「一ノ瀬さん、今から確認しないでください」

「今すぐとは言っていません。継続確認です」


 いつの間にか教室の入口に小鳥遊までいた。

「佐倉先輩」

「何だ」

「白瀬先輩に何を言われましたか」

「それは俺が聞きたいよ」

「答えになっていません」

「白瀬先輩を、白瀬玲奈として覚えておいてください、と」

「……」


 小鳥遊が固まった。

「白瀬先輩が、自分の名前を……」

「その反応は何だ」

「確認中です」


 最近、その言葉を聞くたびに頭が痛くなる。宮坂が、両手で顔を覆った。

「佐倉。お前、今日は手ぬぐいを返しに行っただけだよな」

「ああ」

「なのに、白瀬玲奈を持ち帰ってきた」

「言い方を考えろ」

「これ以上正確な言い方がないんだよ」


 周囲の空気が、また少しだけざわついた。返したはずなのに、返ってきていないものがある。そういう顔を、たぶん俺はしていた。


* * *


 家に帰ると、こはるは玄関で待っていた。

「お兄ちゃん」

「何だ」

「返却は」

「完了」

「手ぬぐいは」

「間違いなく、白瀬先輩本人に渡した」

「よし」


 こはるは猫のぬいぐるみを抱えたまま、一度だけ深く頷いた。

「では……新規の発生件数は?」

「……」

「沈黙した」

「こはる。……白瀬先輩は、たしかにお前の先輩だったよ」

「うん」

「それは間違いない。でも、それだけじゃなかった」


 こはるはすべてを予測していたかのように、静かに目を閉じた。

「言われたの? 『白瀬玲奈』として?」

「……ああ。言われた」


 妹は、抱えていた猫のぬいぐるみに顔を強く押しつけた。

「やっぱり来たか……。知ってたわけじゃない。白瀬先輩がそこを曖昧にしたまま終わる人じゃないのは、分かる」

 こはるはしばらく黙っていた。

「お兄ちゃん。紙にはしない。絶対に」

「……本当か?」

「本当。これは今の段階で紙にしたら、たぶん全部終わるから。私の処理能力が」


 こはるは、細い息を吐き出した。

「でも。口頭で言うよ。白瀬先輩は、こはるの先輩だけじゃない。――そしてお兄ちゃんも、それを分かってしまった」


 はっきり言葉にされると、逃げ場がなくなった。

「こはる。……白瀬先輩は、強いな」

「知ってるよ。ずっと近くで見てるんだから。学園一の美少女だからじゃない。白瀬玲奈さんだからだよ」


 その一言が、今日受けたどんな言葉よりも、深く胸に突き刺さった。


* * *


 その日の夜。結局、こはるから管理表の画像が送られてくることはなかった。新しいメモも、座席表の更新も、覚え書きの追加もない。

 ただ、短いメッセージが二通だけ、スマホを震わせた。


『今日は紙なし継続。防衛成功』

『ただし、白瀬先輩は、こはるの先輩だけではない』


 俺はスマホを枕元に置き、天井を仰いだ。


 手ぬぐいは返した。用件はすべて終わったはずだ。こはるの先輩としての白瀬玲奈は、今も、そして明日もきっと、弓道場に居続けるのだろう。


 けれど。もう、それだけではなかった。


 誰とも付き合う気はない。

 そう頑なに言い続けてきたはずなのに。

 俺は今日、学園一の美少女を、妹の先輩という「安全な枠」の中にだけ戻すことが、どうしてもできなくなっていた。

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