第20話:幼なじみは、予約しない帰り道を残す
翌朝、食卓には紙がなかった。
管理表もない。座席メモもない。覚え書きもない。
紙なし五日目である。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「紙なし五日目、継続中です」
「そろそろ日数カウントをやめないか」
「だめ。ここまで来たらさ、防衛記録だからね」
「防衛戦だったのかよ」
こはるは味噌汁をすすりながら、疲れた顔で俺を見た。
「昨日は雫ちゃんだったでしょ」
「当番制みたいに言うな」
「白瀬先輩、一ノ瀬先輩、莉愛さん、雫ちゃん。ここ数日で全員動いたよ」
「全員ではないだろ」
「芽衣ちゃんがいる」
言われて、少しだけ黙り込んだ。
芽衣は少し前に俺の逃げ道になってくれた。住宅街の細い路地を、少しだけ遠回りした日だ。
「芽衣はもう動いたじゃないか」
「だから怖いんだよ。芽衣ちゃんは、動いたあとに静かになると逆に強いタイプだからさ」
「どういう分析だ」
「幼なじみは生活圏だからね。毎日来なくても、隣にある感じがするんだよ」
妹の分析が妙に鋭い。
「こはる」
「何」
「お前、本当に最近すごいな」
「すごくなりたくなかったよ」
こはるは鮭を箸でほぐしながら、力なく言った。
「とにかく今日は紙を発生させないでね。五日目防衛が懸かってるから」
「俺が発生させてるわけじゃない」
「でも、だいたいお兄ちゃんの周辺から生えるからさ」
紙なし五日目の朝も、俺は発生源扱いだった。
* * *
教室に入ると、宮坂が俺を見るなり、なぜか神妙な顔で手を合わせた。
「佐倉。お前、今日は幼なじみの日だな」
「お前もか」
「暦がそう言っているんだぞ」
「その暦を今すぐ燃やせ」
後ろの城ヶ崎が、椅子の背に腕をかけながら笑った。
「でも、芽衣ってそろそろ来そうじゃない? 白瀬さんが本人確認、一ノ瀬さんが本人確認の元祖、うちが我慢、雫ちゃんが確認中。残ってるの、生活圏じゃん」
「生活圏を召喚獣みたいに言うなよ」
前の席の一ノ瀬が振り返る。
「橘さんが動く場合、教室周辺の混乱は少ないと思われます。日常的な接触が既にあるためです」
「一ノ瀬さん、その分析もなかなか失礼だぞ」
「事実を述べたまでです」
その時、斜め前の芽衣がこちらを見た。いつも通りの顔だった。穏やかで、近くて、逃げ場のない顔。
「悠斗」
「何だ」
「今日、帰り道予約しないからさ」
教室の空気が完全に止まった。
「……何?」
「予約しない。今日は普通に帰ってね」
宮坂が机に手をついた。
「佐倉。これは強いぞ」
「何がだ」
「予約しない宣言だ。逆に意識させてくる高度なやり方だぞ」
城ヶ崎が後ろで唸る。
「芽衣、そう来るんだ。押さないで空けるんだね。うわ、生活圏こわ」
「こわくないよ」
芽衣はふわっと柔らかく笑った。
「毎日予約したら、予約じゃなくて固定になっちゃうでしょ。悠斗、逃げ道がなくなると疲れちゃうしね」
その一言に、少しだけ教室が静かになった。
一ノ瀬が真面目な顔で深く頷く。
「本人の休息時間を確保するという意味では、妥当な判断です」
「一ノ瀬さんに認められたよ」
「認めたというより、合理性があります」
白瀬先輩が、いつの間にか教室の入口に凛として立っていた。今日も完璧に綺麗な微笑みを浮かべている。
「橘さんらしい優しさですね」
「白瀬さん」
「隣にいる人が、隣を空けられるのは本当に強いと思います」
白瀬先輩が言うと、妙に重みが出る。芽衣は少しだけ照れたように目を伏せた。
「そんなに大げさな話じゃないです。ただ、今日は予約しないだけなので」
小鳥遊が白瀬先輩の後ろから影のように顔を出す。
「予約しない、という行為が逆に関係性を強める可能性について、確認が必要です」
「確認しなくていいんだがな」
「必要です。白瀬先輩の周辺配置に影響しますので」
「お前は何でも白瀬先輩につなげるなよ」
芽衣は少し笑って、俺の方を見た。
「だから、今日は帰り道、自由にしていいよ」
自由。その言葉が、思ったより心に引っかかった。
* * *
放課後。俺は教室で鞄を持ったまま、少しだけ立ち止まっていた。
誰にも予約されていない。
白瀬先輩からの呼び出しもない。一ノ瀬の本人確認もない。城ヶ崎の我慢報告もない。小鳥遊の確認もない。芽衣も、今日は予約しないと言った。
「佐倉」
宮坂が隣で、やけに真面目な顔をしていた。
「何だ」
「自由って、逆に怖いな」
「お前が言うと急に哲学っぽくなるからやめろ」
「いや、だってお前、今どこに行けばいいか分からない顔をしてるぞ」
「してない」
「してる。完全に、予約されすぎた人間が空白を与えられて困っている顔だ」
悔しいが、少しだけ当たっていた。後ろから城ヶ崎が明るく声をかける。
「悠斗、空いてるならうちが――」
「城ヶ崎さん」
一ノ瀬が即座に言葉を止めた。
「今日は橘さんが空白を作った日です。そこを即座に埋めるのは、本人の休息確保という目的に反します」
「一ノ瀬さん、そういうとこ本当に公平だよね」
「公平ではなく、状況整理です」
白瀬先輩も、穏やかに微笑むだけだった。
「佐倉くん。今日は、ご自分で帰られるのがよいと思います。橘さんが空けた場所ですからね」
「白瀬先輩まで」
小鳥遊が小さく頷く。
「確認の必要はありますが、本日は保留します」
「しなくていい」
俺は教室を出た。本当に一人だった。
廊下を歩く。階段を降りる。昇降口で靴を履き替える。誰かが隣にいるわけではない。なのに、いつもより周囲の気配がうるさく感じた。
校門を出て、いつもの道へ向かう。何度も歩いた帰り道。なのに、今日は少しだけ歩き方が分からなかった。
* * *
住宅街の細い路地の手前で、俺は足を止めた。前に、芽衣と少しだけ遠回りした場所だ。
今日は予約されていない。だから、この道へ入る必要はない。まっすぐ帰ればいい。
そう思っていたら、路地の少し先に芽衣がいた。待っていた、というより、ただそこにいた。片手にコンビニの袋。中には、たぶん牛乳か何かが入っている。
「芽衣」
呼ぶと、芽衣は振り返った。
「あれ。悠斗」
「待ってたのか」
「ううん。お買い物だよ。お母さんに頼まれたの」
嘘ではなさそうだった。でも、偶然にしては出来すぎている。
「今日、予約しないって言っただろ」
「言ったよ」
「じゃあ、これは何だ」
「帰り道」
芽衣は当然のように言った。
「予約してない帰り道」
「それは屁理屈じゃないのか」
「違うよ。私は悠斗を待ってない。ここにいただけだからさ」
「ずるいな」
「幼なじみなので」
その言い方が、少しだけ懐かしかった。俺は少し迷ってから、言った。
「……じゃあ、途中まで一緒に帰るか」
芽衣が、一瞬だけ目を丸くした。
「悠斗から?」
「予約じゃない。偶然だ」
「偶然を拾うんだね」
「拾うくらいはする」
芽衣は、ゆっくりと笑った。
「じゃあ、途中まで」
並んで歩き出す。特別な場所ではない。ただの住宅街の細い路地。車通りが少なくて、夕方の匂いがして、どこかの家から夕飯の音が聞こえる。
芽衣は、少しだけ前を見ながら言った。
「逃げ道ってさ、毎日使うと逃げ道じゃなくなるから」
「今朝もそんなことを言ってたな」
「うん。悠斗が本当にしんどい時に使える場所じゃないと意味ないでしょ」
「芽衣は、そういうところを考えるのが早いな」
「ずっと隣にいたからね」
さらっと言われた。そして、少しだけ照れたように続ける。
「でも、ずっと隣にいたからこそ、毎日隣に行けばいいわけじゃないって、最近やっと分かったの」
「最近なのか」
「うん。白瀬さんが来て、莉愛ちゃんが来て、一ノ瀬さんも雫ちゃんも来てさ。悠斗の周りが急に賑やかになって、ちょっと焦ったんだよ」
「焦ったのか」
「焦ったよ」
芽衣は笑った。
「幼なじみって、近いけど、近すぎて名前がつかないからさ」
その言葉に、返事が遅れた。名前がつかない。そう言われると、分かる気がした。俺たちは幼なじみで、隣の家で、昔から知っていて。だからこそ、他の誰かみたいに分かりやすい言葉になりにくい。
「名前を急いでつけると、悠斗が逃げるでしょ」
「逃げる前提なのか」
「逃げると思うな」
「否定しづらい」
「だから、今日は予約しなかったの」
芽衣は袋を持ち直す。
「予約しない日があっても、帰り道が消えるわけじゃないって、私も確認したかったのかもね」
「本人確認か」
「それ、一ノ瀬さんと白瀬さんのやつでしょ。私は違うよ」
「じゃあ何だ」
芽衣は少し考えた。
「帰り道確認」
「また増えたな」
「紙にはしないでね」
「こはるが泣くからな」
二人で少し笑った。
* * *
曲がり角の手前で、芽衣が立ち止まった。
「ここまででいいよ」
「家までじゃないのか」
「今日は予約してないからさ」
「そういう判定なのか」
「うん」
芽衣は袋を持ったまま、少しだけ俺を見る。
「でも、悠斗が自分で声をかけてくれたから、今日はそれで十分だよ」
「そんな大したことじゃない」
「ううん。大したことだよ」
どこかで聞いたような言い方だった。城ヶ崎も、同じようなことを言っていた気がする。
「みんな、大したことにしすぎじゃないか」
「悠斗が自分で選ぶの、今はけっこう大したことだよ」
芽衣は、穏やかに言った。
「だから、今日は私の勝ち」
「また勝ち負けかよ」
「うん。予約しなかったけど、途中まで一緒に帰れたので、私の勝ちね」
「基準が分からないな」
「幼なじみ基準」
「便利だな」
「便利だよ。ずっと使ってきたからさ」
芽衣は少しだけ笑って、先に歩き出した。
「また明日ね、悠斗」
「ああ」
その背中を見送る。追いかける必要はなかった。引き止める必要もなかった。
でも、そこに帰り道が残っていることだけは、分かった。
* * *
家に帰ると、こはるが玄関で待っていた。紙はない。猫のぬいぐるみもない。その代わり、ものすごく疑わしそうな目をしている。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「芽衣ちゃんから『今日は予約してない帰り道だった』って来たよ」
「報告が早すぎるな」
「莉愛さんからは『予約しないのに帰るの強くない?』って」
「なぜ城ヶ崎まで知っているんだ」
「白瀬先輩からは『橘さんらしい優しさですね』」
「どこで共有されてるんだよ」
「一ノ瀬先輩からは『予約なしの合流は本人意思が確認できるため、記録上は良好です』」
「記録しないでほしいな」
「雫ちゃんからは『予約しない行為について確認中です』」
「何でも確認するなよ」
こはるは深く息を吐いた。
「今日は紙なし五日目を守るよ」
「頼む」
「でも、口頭ログは残すからね」
「結局か」
こはるは、俺をじっと見た。
「芽衣ちゃんは、予約しない帰り道を残せるんだね」
「……そうかもな」
「あと、お兄ちゃんは自分から声をかけた」
「それもログなのか」
「重要ログ」
「紙にはするなよ」
「しないよ。紙なし五日目だからさ」
こはるは少しだけ満足そうに頷いた。
「でも、芽衣ちゃんのこれは強いね」
「何がだ」
「押してないのに、場所が残ってる」
その言い方は、妙に正確だった。
* * *
夜、こはるから画像は送られてこなかった。
代わりに、短いメッセージが届いた。
『今日は紙なし継続。五日目防衛成功』
続けて、もう一通。
『芽衣ちゃん:予約しない帰り道 ※逃げ道を残せる』
俺はスマホを置いた。
管理表は更新されなかった。座席メモも、覚え書きも増えなかった。
ただ、芽衣が予約しなかった帰り道は、ちゃんと残っていた。
誰とも付き合う気はない。
そう言ったはずなのに、俺は今日、幼なじみに予約されていない道を、自分から少しだけ選んでいた。




