第22話:城ヶ崎莉愛は、理由なしで来る
翌朝、食卓には紙がなかった。
管理表もない。座席メモもない。覚え書きもない。
ただし、こはるの目は死んでいた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「昨日は白瀬先輩だったよ」
「そうだな」
「こはるの先輩じゃなくて、白瀬玲奈さんとして来たからね」
「……そうだな」
「強かった」
「それもそうだな」
こはるは味噌汁を啜り、猫のぬいぐるみを膝に抱えたまま、静かに言った。
「今日は誰?」
「その言い方をやめろよ」
「だって最近、一人ずつ来るじゃん」
「来ていない日もある」
「あると思いたいだけでしょ」
反論できなかった。
「白瀬先輩が“白瀬玲奈さん”として来たなら、次に危ないのは莉愛さんだと思うな」
「なぜ城ヶ崎なんだ」
「莉愛さんは――理由がなくても来る人だから」
「来る人、って……」
「来る人」
こはるの断定が重い。
「昨日の白瀬先輩は、理由があった。手ぬぐいの返却」
「ああ」
「でも、莉愛さんは理由なしで来る。名目に頼らないの」
「……来るのか。本当に」
「来るよ。今日もし莉愛さんが何の理由もなく来たら、ちゃんと理由なしとして受け止めてあげて。用件を探したり、偶然扱いしないで」
こはるは箸を置いた。
「理由なしで来るって、けっこう強いんだよ」
「こはるがそれを言うのか」
「言うよ。私は毎日、理由ありの紙と、理由なしの事故に挟まれてるんだから」
朝から妹の生活が過酷すぎた。
* * *
教室に入ると、真後ろの席から弾かれたように明るい声が飛んできた。
「おはよ、悠斗!」
「……おはよう」
振り返ると、城ヶ崎は机に頬杖をついてこちらを見ていた。今日も髪は綺麗に巻かれ、制服も爪も、すべてが鮮やかに整えられている。ただ、その笑顔が、少しだけいつもより静かだった。
「昨日、白瀬さんすごかったんだって?」
「……情報が早すぎるだろ」
「教室の空気だけで分かるし。悠斗の顔にも出てたし」
城ヶ崎はにこっと笑った。
「白瀬さん、強いよね。ちゃんと名前で来るの、すごい」
軽い言い方だった。けれど、その声にはライバルへの確かな敬意が混じっていた。
「だから、うちも今日はちゃんと来ることにした」
「……今、すでに真後ろにいるだろ」
「そうじゃなくて。放課後、時間ちょうだい」
「何の用だ」
「ないよ」
「……ないのか?」
「うん。ない」
即答だった。正面の一ノ瀬が、ものすごい速さで振り返る。
「城ヶ崎さん。用件のない放課後接触は、事前に目的を明確にしてください」
「目的はあるよ」
「用件はないと言いました」
「うん。用件はない。でも目的はある。――悠斗に会いに行くこと。それが目的」
教室の空気が、一瞬だけ止まった。
右隣では宮坂が机に額をぶつけた。
「佐倉……来たぞ。理由なしが、定義だけ持って来たぞ。意味が分からんのに強いな」
「実況するな」
斜め前の芽衣が、静かにこちらを見ていた。
「悠斗。……ちゃんと聞いてあげた方がいいと思うよ」
「芽衣までそんなことを言うのか」
「うん。理由がない時の方が、たぶん逃がしたら駄目なこともあるから」
重いことを言われた。
一ノ瀬は眼鏡を押し上げ、少しだけ眉を寄せた。
「人だかりが発生しない場所で、時間を制限してください。用件がないこと自体は規則違反ではありませんが、環境への影響は管理対象です」
ついに理由なしまで管理対象になった。
「じゃあ、校舎裏は?」
「白瀬さんとの前例があるため、推奨しません」
「屋上前の階段は?」
「前例がありますが、使用実績があり、時間管理が可能です」
「じゃあ、自販機前」
「人通りがあります」
「駅前」
「範囲外です」
城ヶ崎はむう、と唇を尖らせた。
「一ノ瀬さん、審査員みたいになってない?」
「不適切な拡大解釈です」
宮坂が震える声で呟いた。
「佐倉、今日も学校秩序が恋愛用語に負けていく……」
* * *
放課後。結局、場所は校内の端にある古い自販機前になった。
人通りは少ない。完全に人気がないわけでもない。一ノ瀬の基準では、ぎりぎり許容範囲らしい。俺が先に着くと、城ヶ崎は少し遅れてやってきた。
「ごめん! ちょっと髪、直してた」
「理由なしのためにか」
「うん」
当たり前のように言われた。城ヶ崎は自販機の前に立つと、じっと商品を眺めた。
「何飲む?」
「特に決めてない」
「じゃあ、うちはこれね」
城ヶ崎はミルクティーのボタンを押した。俺は迷った末に、普通の缶コーヒーを選ぶ。
「悠斗、甘いの飲まないんだね」
「気分による」
「じゃあ今は甘い気分じゃないんだ」
「飲み物で心理分析するなよ」
城ヶ崎は楽しそうに笑った。その笑い方はいつもの城ヶ崎だった。でも、今日は不思議と少しだけ緊張しているようにも見えた。
「で」
「うん」
「用件はないんだよな」
「ないよ」
「じゃあ、何をするんだ」
城ヶ崎はミルクティーの缶を両手で持った。
「何もしない」
「何もしない?」
「うん。だって、用事がないから来たんだもん」
堂々と言われて、逆に返せなかった。
「用事がある時ってさ、楽なんだよね」
「楽?」
「だって、理由があるじゃん。ゲーセン行くとか、ちょっと話があるとか、後ろの席で我慢してたとかさ。そういうのがあると、来てもいい感じがするんだよ」
城ヶ崎は缶のふたを開けた。
「でも今日は、ほんとに何もない。……来たかったから、来た」
ストレートだった。白瀬先輩の静かな強さとは違う。一ノ瀬の正確さとも違う。芽衣の生活圏の近さとも違う。明るくて、軽くて、なのに逃げ場がない。
「……莉愛」
城ヶ崎が、ミルクティーの缶を両手で持ったまま、少しだけ目を伏せた。
「……二回目」
「数えてるのかよ」
「数えるよ。理由なしの方が、そういうの覚えてるんだから」
「そういうものか」
「そういうもの」
城ヶ崎は、少しだけ笑った。
「だから、もう一回とは言わない」
「言わないのか」
「うん。今日は、それが残っただけで勝ち」
「……それは、強いな」
「でしょ。だって今日は強く来る日なので」
城ヶ崎は少しだけ胸を張った。
「昨日、白瀬さんが名前で来たって聞いてさ。うちも、何か理由つけて行くの、ちょっと違うなって思った。……張り合ってるのかもね」
城ヶ崎は、ミルクティーの缶に視線を落とした。
「でも、同じことはできないよ。白瀬さんみたいに綺麗には来られないし、芽衣みたいに昔からの距離もないし、一ノ瀬さんみたいに『本人確認』って言葉も持ってないし」
「城ヶ崎は?」
「うちは、理由なし。――理由があるから来るんじゃなくて、理由がなくても来る。それ、うちのやり方ってことにした」
少しだけ、言葉が詰まった。軽い言葉ばかりなのに、積み重なると、思ったより逃げづらい。
「悠斗」
「何だ」
「今日は、うちのわがまま」
「だろうな」
「でも、迷惑だったら言ってね」
「今さらそこを聞くのかよ」
「聞くよ」
城ヶ崎は、少しだけ真面目な顔をした。
「理由なしって、相手に理由を渡せないってことだからさ。悠斗が嫌だったら、ほんとにただの迷惑になっちゃうから」
いつもの軽さが、少しだけ消えていた。だからこそ、俺もふざけられなかった。
「嫌ではない」
「ほんと?」
「ただ、どう扱えばいいのかは分からないな」
「それはうちも分かんないよ」
「分かってないのに来たのかよ」
「うん。分かってから来ると、たぶん遅いからさ」
言っていることは無茶苦茶だ。でも、城ヶ崎らしかった。
「……九分だけなら」
「え、中途半端。なんで九分?」
「最近、十分が単位になってるからな。白瀬先輩より一分だけ軽い感じにする」
城ヶ崎はくすくす笑った。
「あはは、比較対象がおかしいって。でも、今日は九分でいい。初回だから、やりすぎない」
そこはちゃんと考えているらしい。
* * *
九分間、俺たちは自販機の横で飲み物を飲んだ。特に大きな話はしなかった。
昨日の授業のこと。宮坂が朝からうるさかったこと。一ノ瀬が場所の審査をしていたこと。芽衣が今日の数学でやけに静かだったこと。白瀬先輩が本人名義で来たのは、やっぱりすごいということ。
何でもない話ばかりだった。けれど、不思議と、何でもないからこそ落ち着かなかった。
「そろそろ九分。……今日はここまで」
城ヶ崎は空き缶をゴミ箱に入れた。
「帰るのか」
「帰るよ。理由なしは、ちゃんと帰るところまで含めて理由なしなので。……悠斗、来たかったから来たって言っても、ちゃんと聞いてくれてありがと」
城ヶ崎は笑って、少しだけこちらを見た。
「……聞くくらいはする」
「うん。だから今日は、うちの勝ち」
城ヶ崎はいつものように軽く手を振った。けれど、背を向ける直前、その声は少しだけ小さかった。
「また……また理由なしで来るかも。予告くらいはしとくね」
* * *
教室へ戻ると、宮坂が待っていた。
「佐倉。用件なし九分。自販機前。城ヶ崎、ミルクティー。お前、また新しいパターンを作ったな」
「どこまで見ていたんだ」
「見てないぞ。噂と空き缶と、お前の顔で分かるんだよ」
「お前まで真柴みたいなことを言うなよ」
そこへ、本物の真柴紬が通りかかった。
「佐倉くん、今日は理由なしで燃えてたんだね」
「見てたのか」
「見てないよ。城ヶ崎さんが戻ってきた時の顔で分かっただけだから」
「やめてくれ」
「最初に言ったでしょ。油だって」
真柴はそれだけ言うと、特に面白がるでもなく席へ戻っていった。
宮坂が真顔で頷く。
「やはり専門家は違うな」
「何の専門家だよ」
「佐倉周辺火災監視員だ」
「勝手に役職を作るな」
後ろの席から、城ヶ崎が声を上げた。
「真柴さん、それ火災じゃなくて、今日はちゃんと管理されたキャンドルくらいだからね」
「それ、自分で言う?」
「言うよ。九分で帰ったしね」
一ノ瀬が前の席から振り返る。
「九分で終了した点は評価できます」
「一ノ瀬さんに褒められたよ」
「ただし、用件なし接触は今後も状況確認が必要です」
「やっぱり褒められてなかったな」
芽衣が斜め前で、小さく笑った。
「悠斗、ちゃんと帰ってきたね」
「どこかへ行ったわけじゃない」
「でも、理由なしで行って、帰ってきたんでしょ」
「……そうなるな」
「そっか」
その「そっか」は、少しだけ柔らかかった。白瀬先輩は教室にはいなかった。けれど、「白瀬玲奈」という言葉は、まだ俺の中に残っている。
その上に、今日は理由なしが乗った。
もう、何もないことすら、何かになり始めている。
* * *
家に帰ると、こはるが玄関で待っていた。
紙はない。ペンもない。ただ、猫のぬいぐるみだけを強く抱いている。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「莉愛さん、来た?」
「来たよ」
「理由は」
「なかったな」
「やっぱりね」
こはるは天井を仰いだ。
「どうだった?」
「嫌では、なかった。……困ったけどな」
「じゃあ、強いね」
判定が早い。
「紙にはしないのか」
「しない。紙にした瞬間に負ける」
「誰にだ」
「理由なしに」
こはるは猫のぬいぐるみに顔を埋めた。
「お兄ちゃん。理由なしって、管理できないんだよ。名目がないから、止める場所がないの。でも。……無視もできないでしょ?」
「……そうだな」
何も言い返せず、認めてしまった。
「莉愛さんは、理由がなくても来る。お兄ちゃんは、それを嫌じゃないって言った。じゃあ今日は、紙なしでそこまで。莉愛さんの『理由なし』を受理します」
「……勝手に受理するな」
「でも、却下できないでしょ」
「…………できないな」
そこが、いちばんまずかった。
* * *
夜、こはるから管理表の画像は送られてこなかった。
代わりに、短いメッセージが届いた。
『今日は紙なし継続』
『莉愛さん:理由なしで来た。嫌ではなかった。困った』
俺はスマホを置き、天井を仰いだ。
何かを頼まれたわけではない。何かを解決したわけでもない。どこかへ出かけたわけでもない。
ただ、城ヶ崎は来た。
用件もなく。理由もなく。それでも、ちゃんと俺の前に来た。
誰とも付き合う気はない。
そう言い続けてきたはずなのに。
今日の俺は、理由がないことに、少しだけ返事をしてしまっていた。




