第2話:幼なじみは、出遅れたことに気づく
翌朝、玄関を開けると、橘芽衣が立っていた。
「おはよ、悠斗」
「おはよう。早くないか」
「早いね」
「なんで他人事なんだ」
橘芽衣。家が隣で、小中高すべて同じ。腐れ縁という言葉すら生ぬるい、俺の幼なじみだ。
朝に顔を合わせること自体は珍しくないが、玄関先で待ち構えられているのは話が別だった。
しかも、その手には弁当袋が二つ。
「それ、何」
「お弁当」
「見れば分かる」
「なら聞かなくていいじゃん」
芽衣は有無を言わさず、片方を俺の胸に押しつけてきた。
「はい。悠斗の分」
「なんで」
「作りすぎたから」
「朝から二人分、正確に作りすぎることなんてあるか?」
「あるよ。今朝はあったの」
強引だった。
俺が困惑しながら袋を受け取ると、廊下の奥から妹のこはるが顔を出した。
「……お兄ちゃん、昨日白瀬先輩を振った翌朝に幼なじみからお弁当を受け取るんだ」
「言い方に悪意があるぞ」
「事実に悪意があるんだよ。管理表でも作らないと、そのうちパンクしそう」
嫌な予言を残して、こはるは洗面所へ消えた。
* * *
通学路を歩きながら、芽衣はしばらく何も言わなかった。
気まずい沈黙ではない。ただ、いつもなら投げてくるはずの、中身のない話題が一つも出てこない。
「悠斗」
「何」
「昨日、白瀬玲奈さんに告白されたんだよね。で、振ったんだよね」
「……ああ」
「本当に? 白瀬さんだよ。学園一の美少女だよ?」
「そうらしいな」
「『そうらしいな』じゃないでしょ。悠斗、そういうところ昔から変わらないよね。すごいものを、すごいって分かってるのに、変に拝まないところ」
芽衣は不意に一歩前へ出ると、くるりとこちらを振り返った。
「それでさ。誰とも付き合う気はない、って言った言葉……それって、私も入ってるの?」
「……理屈の上では、入ってると思う」
「理屈の上では、ね。うん。ちょっと腹立つ」
芽衣は笑っている。でも、笑い切れてはいなかった。
「私、ずっと隣にいたんだけどな。それって、何の予約にもなってなかったんだね」
その言葉は、思ったよりまっすぐ俺に届いた。
当たり前だと思っていた距離。芽衣も同じように思っているのだと、勝手に定義していた。
「焦るよ。悠斗のくせに、急に遠いところで告白されてるんだもん。だから今日は、お弁当。白瀬さんは知らない、悠斗の好きなおかずを詰め込んできた。唐揚げ、卵焼き、きんぴら。あと、ブロッコリーは入れると残すこと」
「残してない。最後に食べるだけだ」
「残す人の言い訳」
いつもの芽衣に戻ったように見えた。
でも、弁当袋を持つ俺の手は、さっきより少しだけ重くなっていた。
* * *
教室に入った瞬間、男子たちの視線が突き刺さった。昨日まで普通に通れていた扉が、今日は処刑台の入口に見えた。
宮坂航が俺の席を占拠し、尋問を開始する。
「佐倉、その弁当は何だ」
「芽衣が作りすぎたらしい」
教室の空気が、致命的な方向に歪んだ。
「幼なじみ弁当……?」
「付き合う気ないとか言いながら……?」
「違法では?」
そこへ芽衣が教室に入ってきた。彼女はにっこり笑って、俺の机に自分の弁当を置く。
「お昼、一緒に食べるよね?」
男子たちが一斉に死んだ。
「佐倉の周り、昨日からおかしくないか……?」
「昨日からじゃなくて、昔からだよ」
芽衣はさらっと言い切り、追い打ちをかける。
* * *
昼休み。芽衣の弁当は、確かに俺の好物ばかりだった。
「ブロッコリーも食べて」
「食べる」
「最後まで残さない」
「順番の問題だと言ってるだろ」
いつも通りのやり取りのはずだった。だが、芽衣が時折こちらを見る目だけは、昨日までとは決定的に違っていた。
「じゃあ、私もまだ振られてないってことでいいよね。告白、してないもん」
「それは理屈としてはそうだけど」
「理屈の上では、ね」
今朝の言い方を、そのまま返された。
その時、教室の入り口が急速に静まり返った。
白瀬玲奈が立っていた。昨日、中庭で振られたばかりの学園一の美少女。
「佐倉くん。こはるさんの部活の件で、放課後お時間をいただけますか?」
あまりに自然な口実。芽衣がゆっくりと箸を置いた。
「白瀬さんも、部活の先輩ですもんね。こうして教室まで来られるなんて」
「ええ。朝からお弁当を用意できるのは、幼なじみの強みですね」
笑顔と笑顔が、静かに、そして鋭く衝突した。
白瀬先輩は優雅に一礼して去っていく。
教室の空気だけが、しばらくその場に残った。
直後、芽衣が鋭く俺を見た。
「放課後、待ってる。ずっと隣にいたのが予約になってなかったなら、今日から予約し直す」
宮坂が机に突っ伏した。
真柴紬が横を通りながら、冷静に言った。
「佐倉くん、今のところ火は消えてないね。むしろ風が吹いてる」
俺は弁当袋を見下ろした。
朝、芽衣から渡された弁当。昼、白瀬先輩から入った放課後の予定。そして、なぜか予約し直された幼なじみの帰り道。
* * *
昨日、白瀬先輩を振っただけのはずだった。
だが、どうやら今日から、俺の一日は俺だけのものではなくなっていくらしい。




