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第1話:学園一の美少女が、妹の先輩をやめたいと言った

「私、あなたの妹の先輩をやめたいの」


 昼休みの中庭で、学園一の美少女がそう言った。


 さっきまで弁当の包みを開いていた生徒も、購買帰りにパンをかじっていた男子も、二階の渡り廊下からこちらを見下ろしていた女子たちも、一斉に動きを止めた。


 白瀬玲奈。


 弓道部の看板で、生徒会広報も務める、星峰学園で知らない者のいない二年生。

 成績も、見た目も、立ち居振る舞いも、全部が綺麗に整っている人。


 その白瀬先輩が、俺――佐倉悠斗の前に立っている。しかも、今の台詞である。


「……すみません。確認してもいいですか」


「はい」

 白瀬先輩は、微笑んだまま頷いた。ここで微笑めるのが、もう学園一の美少女たる所以だった。


「それは、こはるが何か失礼なことをしたという意味ですか」

 俺がそう言った瞬間、中庭の空気が少しだけ変な方向に歪んだ。白瀬先輩が、瞬きをする。

「違います」

「よかったです。こはる、白瀬先輩のことをすごく尊敬しているので」

「知っています」

「なので、先輩をやめられると困ります。こはるが部活でお世話になっていますし」


 今度こそ、周囲の沈黙がひび割れた。

「そこ?」

 誰かが小さく呟いた。俺も、そこ以外にどこがあるのか分からなかった。


 白瀬先輩は、一度だけ目を伏せた。それから、困ったように、でも少し嬉しそうに笑った。

「そういうところが、好きなの」


 中庭が、完全に止まった。

 購買袋を持っていた男子が、パンを落とした。二階の渡り廊下から、誰かの「えっ」という声が降ってくる。近くのベンチでは、女子たちが同時に口元を押さえた。


 俺は三秒ほど考えた。

 今の「好き」は、たぶん、妹の先輩としての好意ではない。それくらいは分かる。分かるが、分かったところで、どう返すのが正解なのかは分からない。


「佐倉くん」

 白瀬先輩が、まっすぐこちらを見る。

「私は、こはるさんの先輩としてではなく、あなたに告白しています」

 中庭の端で、誰かが息を呑んだ。


「俺に、ですか」

「はい。あなたに、です」

 白瀬先輩は、姿勢を正した。弓道場で弓を引く時も、たぶんこういう背筋なのだろうと思った。

「佐倉悠斗くん。好きです。私と付き合ってください」


 その瞬間、中庭が爆発しかけた。全員が叫びそうになって、でも白瀬先輩の空気に押されて叫べなかっただけだ。代わりに、ざわめきが小刻みに震えながら広がっていく。

「白瀬さんが……?」

「佐倉って誰だっけ」

「二年三組の、こはるちゃんのお兄さん」

「いや、なんで?」


 俺も聞きたかった。なぜ俺なのか。

 ただ、ここでそれを聞くのは違う気がした。相手は、学園一の美少女としてではなく、一人の人として告白している。なら、こちらも逃げるわけにはいかない。


 俺は頭を下げた。

「すみません」

 ざわめきが、また止まる。

「誰とも付き合う気はありません」


 今度は本当に、空気が割れた。

「はあああああ!?」

 最初に叫んだのは、俺の友人の宮坂航だった。中庭の少し離れた場所で購買の焼きそばパンを握りしめたまま、口を限界まで開けている。


「お前、白瀬さんを振ったの!? 正気か!?」

「正気だと思う」

「思うじゃねえよ! 男子全員から刺されるぞ!」

「物理的に?」

「精神的にだよ! いや、何人かは物理もあり得る!」


 白瀬先輩は、叫ぶ宮坂の方へ一度だけ視線を向けた。宮坂が即座に黙る。学園一の美少女は、男子の騒音を一瞥で止められるらしい。

 彼女は、俺に向き直る。

「私が嫌い、ということですか」

「違います」

「では、他に好きな人が?」

「いません」

「では、なぜですか」


 白瀬先輩の声は穏やかだった。だからこそ、ごまかせなかった。

「誰かの彼氏になることを、今の俺は考えられません」

「恋愛が嫌い?」

「嫌いではないです」

「では、私では足りませんか」

「そういう話ではないです」


 言えば言うほど、俺の返答はひどくなっている気がした。周囲の男子たちの目が、だんだん人間を見る目ではなくなっている。

 白瀬先輩は、しばらく俺を見つめていた。それから、静かに息を吐く。

「分かりました」

「すみません」

「では、今日は振られておきます」

「今日は?」

「はい。今日は、です」


 にこりと笑う。その笑顔に、中庭の女子たちが小さくざわめいた。

 俺は、少しだけ嫌な予感がした。

 白瀬先輩は一歩下がり、丁寧に頭を下げる。

「お時間をいただき、ありがとうございました。こはるさんの先輩は、まだ続けます」

「それは助かります」

「でも、あなたへの気持ちはやめません」


 助からなかった。

 白瀬先輩が去っていく。その背中まで綺麗だった。中庭の人間たちは、誰もすぐには動けなかった。俺だけが、なぜか全方向から見られていた。


「佐倉」

 宮坂が、青い顔で近づいてくる。

「お前、昼休みだけで男子全員を敵に回したぞ」

「そんなにか」

「そんなにだよ。白瀬さんを振った男と、白瀬さんに告白された男と、白瀬さんに“今日は”って言わせた男が全部お前なんだぞ。罪が三つある」

「俺は断ったんだけど」

「そこが一番重い」


 そこへ、クラスメイトの真柴紬が通りかかった。恋愛方面の騒ぎにはだいたい一歩引いている女子で、俺に対しても妙に公平なことを言う。

「佐倉くん、今の断り方、たぶん火消しじゃなくて油だよ」

「油?」

「うん。白瀬さんだけじゃなくて、他の女子にも火がつくやつ」

「どういう意味だ」

 真柴は、呆れたように肩をすくめた。

「『白瀬先輩だから断った』じゃなくて、『誰とも付き合う気がない』って言ったでしょ。つまり、白瀬さんだけが特別に駄目だったわけじゃない」

「そうだな」

「それ、女子によっては“全員同じスタートライン”って聞こえるよ」


 そんなわけがない、と思いたかった。だが、周囲を見ると、どうも真柴の言葉は外れていないらしかった。


 中庭の端で、幼なじみの橘芽衣がこちらを見ていた。いつもなら真っ先に「何やってるの」と言いに来るはずなのに、今日は少しだけ動きが遅い。

「誰とも、か……」

 芽衣が小さく呟いたのが見えた。


 近くでは、城ヶ崎莉愛がスマホを片手に目を丸くしている。いつも明るく、誰とでも距離が近いクラスメイトだ。

「え、白瀬さんでも振られるんだ」

 声は軽い。でも、目だけは妙に真剣だった。


 中庭の入口では、風紀委員長の一ノ瀬凛花が眉を寄せていた。人だかりと騒ぎを見て、完全に校内秩序の問題として処理しようとしている顔だ。

「昼休みの中庭を塞ぐほどの騒動ですか……」

 たぶん後で呼び出される。俺はもう少し深く反省した方がいいのかもしれない。


 さらに、部活棟へ続く通路の近くで、妹の佐倉こはるが固まっていた。その隣には、小柄な後輩らしき女子がいる。たしか、こはると同じ弓道部の小鳥遊雫だったはずだ。

 こはるは、俺と白瀬先輩がいた場所を交互に見た。

「白瀬先輩が、お兄ちゃんを……? え、なんで?」

 妹よ。失礼ではあるが、俺もそう思っている。


 隣の小鳥遊は、こはるよりもずっと低い声で呟いた。

「白瀬先輩を、振った……?」

 その目が、完全に俺を敵として認識していた。


 宮坂が、俺の肩をぽんと叩く。

「佐倉。たぶん今、お前の平穏は死んだ」

「大げさだろ」

「大げさで済むと思うか?」


 思いたかった。しかし、中庭の空気は明らかにさっきまでと違っていた。

 白瀬先輩が振られた。その事実に、男子たちは絶望し、女子たちは別の意味で静まり返っている。


 その沈黙の中で、誰かが小さく呟いた。

「誰とも、ってことは……まだ誰のものでもないってこと?」


 その瞬間、俺はようやく気づいた。

 たぶん今、俺は白瀬先輩を振っただけでは済まないことを言った。

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