「キセキの泉」
河原に足を踏み入れた時、雨は急激にその勢いを弱めた。
川は増水し濁り、大きな音を立てている。
『妖精の泉』と呼ばれるそこは、三つの小さな滝が流れこむ滝壺で、その部分だけ川幅が大幅に広くなっていることから『泉』と呼ぶ者が現れたらしい。
数年前、ある人間がここでお願いをした。すると、驚くべきことにその願いが叶えられたという。その話は瞬く間に広がり、噂は更なる噂を呼び、結果『妖精の泉』は一躍パワースポットとして人気になった。
この三つの滝が流れ込むという珍しい地形と、木々の少ないひらけた空間から差し込む太陽光が生み出す美しい情景も、この場所が観光地として人気になった理由の一つだろう。
ただ、この世界に魔法は存在しない。魔法や奇跡のように見えることにも、必ず必然性や法則、明確な理由が存在する。
人々は、妖精という架空の存在に対して、まるで神に対してお願いするかのような途方もないことをお願いする。
しかし、相手は妖精である。できることに限りがある。実際に叶った願いなど、大したものではない。
俺は偶然、それを知っている。——聞いた話である。
ある日、少年が妖精の泉で水遊びをしていた。ふとした瞬間に、少年のサンダルは川に流されてしまった。少年は泣き叫び、サンダルが帰ってきてほしいと叫んだ。
すると、まるで見えない妖精さんがサンダルを運んできてくれたかのように、下流の方からサンダルが飛んできたのだという。
この話にたくさんの尾鰭が付き、今の伝説が生まれたのだ。
人々が信じている神のような妖精など、ここには存在しないのである。
——否。元より人々は、そんなものを信じてはいないのかもしれない。
彼らはただ、何か自分を超越した大きなもの、大きな存在に希望を求めるのだ。
夢を託すのだ。ちょうど、今の俺のように。
先ほど、この世界に魔法や奇跡は存在しないと言った。しかし、それは改めなければならない。
俺が偶然この話を知るに至った経緯、俺が偶然この場所で命を落としかけたこと、俺が彼女と出会い、そして時間を共にしたこと。
この全ての軌跡こそ、まごう事なき『奇跡』なのだ。
……だから、俺は必ずもう一度会わねばならない。
会って伝えなくてはならない。
俺の中に宿ったこの熱が、彼女がくれたこの確かな熱が俺をここへと突き動かした。
……だから!
俺は水際まで進むと立ち止まり、その場で大きく息を吸い込んだ。
「おーーい‼︎ セイラーー‼︎」
その名前を叫んだ瞬間、全身が震えた。
……覚えている、確かに覚えている‼︎
「セイラーーーー‼︎」
一度は忘れてしまったこの名前。もう二度と忘れないように、身体に刻みつけるように叫んだ。
「セイラァーーーーー‼︎」
俺は叫んだ。何度も何度も。
……しかし、返ってくる声はない。
「セイラ……」
いつの間にか雨はすっかり上がり、木の葉に溜まった雫だけがまばらに地面を叩いている。
俺は川辺に立ちながら、ぐるっとあたりを見回した。
やはり人影はない。声もしない。
「……どうする?」
彼女がここに居ない、その可能性が頭によぎる。
「……ここには、居ないのか?」
口にしてすぐに、頭を左右にふる。髪に付いた雫が宙へ舞う。
その可能性を捨てきることはできない。しかしもしここに居なかったら、俺にはもう彼女を見つけ出すことはできない。
だから、今はそんなことを考えてもしょうがない。
「……頼む、ここに居てくれ」
俺はそう言うと再び彼女の名を叫んだ。
ザアアアア……
ひとしきり叫びきると、俺は目を閉じた。
「……考えろ、諦めるな!」
諦めるわけにはいかない。いくら返事がないからといって、それはここにセイラが居ないことの証明にはならない! 相手は妖精だぞ! 人間の常識で考えるな!
「考えろ、考えろ!」
ザアアアア……
目を閉じると、水の流れる音がよく聞こえた。
自分の身体を包む濡れた衣類も、先ほどの転落で生まれた身体の痛みも、より一層強く感じられた。
それらの全てが、俺を一つの結論に導いた。
「……そうだ、あの時も」
彼女と初めて出会った時、あの時も、こんな状態だった。
水中でびしょ濡れになりながら、落下の衝撃で意識が飛びそうになりながら、彼女の存在を認識したのだ。
俺は目を開け、目の前の川を見つめた。
その流れはあの時とは比べ物にならないほど荒々しく……水もかなり濁っていた。
だが、俺に迷いはなかった。
ここに僅かでも可能性があるのなら、やるしかない!
やらない理由など全て、この流れへと捨ててしまえ!
「行くぞ……!」
俺は意を決して、川へと一歩踏み出した。
「——どうして……?」
——その時、背後から声がした。
俺にはその声の持ち主が誰であるか、頭で理解するよりも早くわかった。
俺はゆっくりと首を後ろに回す。
「……セイラ」
そこに、彼女がいた。驚いたような、それでいて今にも泣き出しそうな顔をして、彼女がそこに立っていた。
その姿を見て、俺は胸が一気に暖かくなるのを感じた。
その時、踏み出した右足が川の中へと入ってしまう。
「うわぁ!」
——バシャーン!
川の強い流れで一瞬で右足が持っていかれ、俺はバランスを崩し倒れる。
「マサ‼︎」
すかさずセイラが近づき、俺の手を掴み岸へと引き上げた。
「ハアハア、ありがとうセイラ……」
俺がセイラに礼を言うと、セイラは再び俺に問いかけてきた。
「……どうして?」
彼女は今にも泣きそうな表情だった。
「どうして忘れてないの? ……どうして、まだ私のことが見えてるの?」
俺はそれを見て、なぜだか心が温かくなった。
「……なんでだろうな。でも多分、俺にとってセイラとの時間は、ちょっと人間に戻った程度じゃ忘れられないくらいに、大切なものだったんだよ」
……そうだ、それが全てだ。
もしそれ以上の理屈が必要なら、奇跡とでも呼んでくれ。
目の前に彼女がいる。もう二度と会えなかったかもしれない、彼女がいる。
種族の壁とか、世界の理を超えて、今こうして俺たちは再開した。
俺にはそれがたまらなく嬉しくて、そのことで胸がいっぱいだった。
俺の言葉を聞いて、セイラは崩れるように泣き出してしまった。
俺はその手に、そっと自分の手を添えた。
「……セイラは、無事なのか? 大丈夫なのか?」
俺は泣きじゃくるセイラに尋ねる。
「……うん、無事だよ。ここで意識を失った後、身体に妖精エネルギーが大量に流れ込んできて、私は目を覚ますことができたの」
「そうか……」
良かった……。俺の仮説は、正しかったってわけだ。
「……でも近くにマサは居なくて、私はどうしたらいいかわからなくなって。……ずっとここで待ってたの」
「そっか……」
俺は彼女の震える肩を抱きしめようとする。
しかし、身体に痛みが走ってよろけてしまった。
「ってて……」
「大丈夫……? 怪我してるの?」
逆に心配までされてしまう始末。本当に格好がつかない。
……いや、思い返してみれば、セイラの前で格好がついたことなんてなかった。
いつも引っ張り回されて、その度に俺はみっともなく振り回されていた気がする。
でもそんな日常が嫌いじゃなくて、どこか心地良さすら感じていたのだ。
俺は、セイラの目をじっと見つめた。
「……あのなセイラ」
覚悟を発したその言葉は、心の中で何百回も唱えて練習した時のような力強さはなく、自分でもずっこけるような弱々しい声だった。
だが、それでも構わない。それでも伝えたい! 格好つけたいところでも格好をつけられない、それが俺なのだ。
——それでも……!
「……何?」
セイラは何を言われるのかと、不安そうな顔をしていた。
そんな彼女に、俺は笑いかけながら続ける。
「俺さ、人間に戻ってからしばらく、セイラのこと忘れてたんだ。それで、普通に人間として生活を送ってた。けど、常にどこかモヤモヤしてて、何かが足りなくて、俺は何かしなくちゃいけないことがあるって、ずっとそう思ってたんだ」
セイラは俺をじっと見つめたまま聴いている。俺もセイラをじっと見つめて続ける。
「そんな日々を送ってる時にさ、家でこれを見つけたんだ」
俺は、セイラからもらったあの奇妙なストラップを差し出す。
「これは……、私があげたストラップ」
「……これを見てさ、俺気づいたんだ。俺が何を失っていたか。この胸にぽっかりと空いた穴を埋めるものがなんなのかってことが」
俺はストラップをポケットに戻すと、大きく息を吸いこんだ。
「それは全部、セイラ、お前だった! 俺は、セイラが一緒に居てくれたあの日々が大好きだった! 人間に戻ったら全部忘れるっていうこのルール、それすら超越するほどに、セイラ、お前が大好きだったんだ!」
ありったけの想いを込めて言葉を紡ぐ。
言い切った瞬間、心臓の鼓動が早くなり視界が真っ白になった。
……ああ、そうか。考えてみれば告白をするのなんて初めてだ。告白をするって、こんな感覚なんだな……。
俺はびっくりして目を丸くしているセイラを見て、もう一度続けた。
「無茶なお願いだってのはわかってる。だけど、俺はお前に居て欲しい。また、一緒に人間の世界で暮らしてくれないか? 今度は利害関係の一致したビジネスパートナーとしてではなく、恋人として」
俺が静かにそう告げると、セイラは目から涙をこぼした。
「……本当に?」
「ああ、本当だ」
「……本気で言ってるの?」
「ああ、本気だ」
問答を繰り返すたび、セイラから涙が溢れてくる。
その涙の真の意味を、俺は知ることができない。だが、それが悲しみの涙でないことだけはわかった。
「……本当に、私を?」
俺は一呼吸置いて、ハッキリと口を開いた。
「ああ、セイラ、お前が好きだ」
その瞬間、セイラは俺に飛びついてきた。そのまま俺は後ろによろける。
「私も! 私もマサが好きい! うわああ〜ん!」
セイラは泣きじゃくりながら、俺を抱きしめる。
俺は一瞬驚きで身体を固めていたが、ゆっくりと両手を回し、その小さい身体を抱きしめた。
「……ああ。俺も好きだ」
「私も! 私も〜!」
そう言うと、俺たちはしばらくの間、ずっと互いを抱きしめていた。
ひとしきり泣いた後、俺たちはゆっくりと互いの顔を見合わせた。
やがてどちらからともなく顔を近づけ始めると、そのままゆっくり、互いの唇を重ねた。
それはまるで、彼女の魂に触れているような感覚だった。
そして俺たちは、照れくさそうに笑った。
雲間から光が差し込み、空に虹が掛かる。
陽の光が、木の葉についた雫を眩く彩る。
そんな、煌めく奇跡の泉のもとで——
——俺とセイラは恋人になった。




