「回帰」
身体包む衣類の冷たさが不快で、俺は目を覚ます。
あたりはすっかり湿っていて、目の前の川は激しく音を立てている。
どうやら、つい先ほどまで雨が降っていたようだ。
今こうして意識があるということは、ひとまず命は助かったということだろう。
——まったくとんだドジを踏んだものだ、足を踏み外して崖から転落するなんて。
俺は曇った空を見上げ、そんなことを考えている。
「雨、降ったのか……」
どれくらいの時間が経ったのだろう?
俺はゆっくりと身体を起こそうとするが、身体にうまく力が入らず起き上がれない。
「……あれ?」
まるで何週間も寝たきりの生活をしていたように、身体が重い。
俺は両手を使い、なんとか身体を起こす。
「……なんか変だな」
変と言えば、水に落ちた時に何か変なものをが見た気がする。
しかし、それがなんだったのか、いまいち思い出せない。
「……まあいいか」
俺はそう呟くと、濡れた服を絞ろうと服を脱いだ。
「あ! おい! マサ!」
背後から声がして俺は振り返る。
見ると、向こうから父さんが手を振りながら近づいてきていた。
「父さん!」
俺は近づいてくる父さんに手を振った。
「……まったく、探したぞ。びしょ濡れじゃないか⁉︎ 大丈夫か?」
「足を踏み外して滝壺に落ちちゃってさ。でも不思議と怪我はないみたい」
相手が父さんなのにも関わらず、不思議と言葉スムーズに出てくる。
「なんだそれ、大変じゃないか! ……ところで、一緒に来てた友達は?」
「友達? そんなのいないけど、」
「ん? じゃあマサは誰とここに来たんだ?」
「誰とって……、そりゃ父さんと心美とだろ?」
俺がそう言うと、父さんは不思議そうな顔をした。
そして一言。
「……お前、それは一ヶ月前の話だろ?」
病院で俺は、一種の記憶障害だと診断された、
「しばらくは入院して、様子を見た方がいいかもしれません」
「入院……」
医者の言葉に父さんは驚きの反応を見せる。
しかし俺の驚きと動揺は、父さんのそれとは比べ物にならないほど大きいものだった。
どうやら俺は、直近一ヶ月間の記憶を失ってしまったようなのだ。
しかし、俺にはその自覚がない。気づけば時が一ヶ月流れていた、そのことに決して少なくない衝撃を受けている。
医者によると、今回の記憶障害の原因については不明な点が多いという。
担当医は色々と説明をしてくれたが、実のところお手上げ状態なのだろうということだけがわかった。
「過去には、どこか思い出の場所を訪れたり、何か懐かしいものを見たり聞いたりと、記憶に刺激を与えることで記憶が蘇ったケースもあります」
「……刺激」
「なので、気長にやっていきましょう!」
医者は淡々(たんたん)と説明した後、最後に笑いかけてくれた。
「……はぁ」
俺はそう答えて、あとは黙って父さんと医者が話すのを聞いていた。
話は進み、俺はひとまず入院することになった。
病室の中にはベッドが4台あり、俺の他にも3人の患者がいた。
だが俺はその人たちと仲良くするようなタイプではなかったし、向こうも無理に話しかけてくることはなかったので、俺は静かに本を読んで過ごした。
翌日、父さんと心美がお見舞いに来てくれた。
妹はとても心配している様子だったが、俺が普通に元気なところを見ると少し安心してくれたようだった。
やがて、用事のある妹は一足早く病院を後にした。
そして病室には、俺と父さんの二人だけが残った。
「……母さんも、来れたら良かったんだけどな」
「いいよ、無理させちゃ悪い」
「そうか……」
考えてみれば、こうしてサシで話すのはいつ以来だろうか……。ずっと暗黙のうちに、こうして話すのを避けてきた気がする。
それでも、思ったよりもずっと普通に会話できていることが嬉しかった。
「……今度、久しぶりに家族で出かけるか」
「え?」
唐突に父さんが提案してくる。
「いや、随分そういうことをしてなかったなと思ってな。母さんも、この一ヶ月で大分体調が良くなってきているみたいなんだ。だから、家族四人で一緒に過ごすのはどうかと思ってな」
父さんは、どこか照れ臭そうに笑いながらそう言った。
「……珍しいな、父さんがそんなこと言い出すなんて」
俺は少し笑いながらそう返す。
「……いや、まあな。もしかしたらそれが、記憶を戻すきっかけになるかもしれないだろ?」
「まあ、確かに……」
「……それに、な。マサは覚えてないと思うが、母さんからマサの話を聞いてな。マサが、家族で仲良く過ごしたいと思ってると言っていたことを教えてくれたんだ。それで、父さんなりにできることをしたいと思ったんだ」
父さんはすごく恥ずかしそうに、少し顔をそらしながらそう言った。
「……らしくないこと言って」
俺はなんだか恥ずかしくなってそう言った。
そして俺たちは、こっそりと笑った。
なんだか久しぶりに父さんの心がすごく近くにある気がして、俺は胸が温かくなるのを感じた。
「……でもそうか、俺はそんなことを言ったんだな」
俺は、ボソッと呟いた。
……随分思い切ったことをしたものだ。一体いつ? 何を思って?
俺は、何か大切なことを忘れているような気分になった。
「……ん、どうした? 何か落ちてるか?」
俺を見ていた父さんが、不思議そうに声をかけてきた。
「ん? ああいや! 考え事をしていただけだよ」
俺は無意識のうちに、右下を見つめていたようだ。
我ながら、変な方向を見ながら考え事をしていたものだ。
……だが言われてみれば、確かにここに何かがあった気がする。
だが、そこには何もない。
俺は自分の胸にどこか不思議な感覚を残しながら、その後も父さんのとの会話を続けた。
* * *
「学校?」
俺は病室で、父さんが放った言葉を復唱した。
「ああ。聞けば明後日は登校日らしいじゃないか。学校に行ってみるのも、記憶を取り戻すための良い刺激になるんじゃないかと思ってな」
「……学校か。」
確かに、学校に行けば何か予想もしなかったような発見があるかもしれない。しかし、予想外のことが起きなければ何もありはしない。
俺の学校生活は灰色で、誰と関わるでもなく過ごしているのだ。そこに刺激などあるのだろうか?
「……正直、あまり気が進まないな」
全て話すのも面倒だったので、俺は一言そう言った。
「……そうか」
あくまで父さんは俺の意思を尊重する構えだったらしく、少し残念そうではあったものの納得したようなトーンでそう言った。
「それに学校なら、夏休みが終われば嫌でも行くことになるしな」
俺がそう言うと、父さんも頷いてくれた。
「お話し中すみませんお父さん、ちょっと失礼しますね」
後ろから入ってきた看護婦さんが、机を動かしながら父さんに声をかけた。
見ると、昼食を配るワゴンが病室の前にやってきていた。
「あ、すみません」
父さんはそう言うと座っていた椅子を少しずらした。
時刻は12時。待ちに待ったお昼である。
「食」だけが楽しみとなる入院生活において、献立表というのは、好きな人から返信を待っている時の携帯くらい何度も確認するものなのだ。
……今日は確か、焼き鮭をメインにしたメニューだったか……。
俺の記憶どおり、目の前に焼き鮭とサラダ、ご飯、味噌汁などを載せたお盆が現れる。
「おお、うまそうだな」
横にいた父さんがそう言う。
なんでお前が言う、という感じだが、確かに美味しそうだ。
俺はふと、病室の窓を見た。
高い位置にある病室の窓からは、青い空と白い雲、そして遠くに建っているマンションだけが確認できた。
ふと、学校の中庭で食べるお手製のしゃけおにぎりを思い出す。
「……あれ、食べたいな」
「ん? どうした?」
よそ見している俺に、父さんが声を掛けてくる。
俺は正面に向き直り、
「……父さん、俺、やっぱり学校に行くよ」
と言った。
実際のところ、俺もなぜ自分がこの決断をしたのか、そのはっきりとした理由はわからない。
しかし、あの中庭での時間を思い出した瞬間、なぜだかあそこに行かなくてはならない気がした。
俺の言葉を聞いて父さんは、少し驚いた表情をしていた。しかし、すぐに穏やかな表情に戻り頷いた。
「わかった……。そうしたらお医者さんにそうできるか聞いてみるよ」
「ありがとう……」
そう言うと、俺は箸をとった。
お昼の鮭は普通に美味しかった。しかし、思い出の中のあの味と比べると、どうしてもどこか見劣りしてしまった。
……あれは別に、そんなに特別なものじゃない筈なのに。
こうして俺は一ヶ月ぶりに、学校に行くことになった。




