「非日常の終わり」
セイラと花火大会に行った日の翌朝、事件は起きた。
——いや、今思えばそれは、もっと前から始まっていたのかもしれない。
ピリリリ ピリリリ ピリリリリ
携帯の目覚ましの音が鳴り止まず、俺は目を覚ます。
「ん〜……。セイラ、目覚まし鳴ってるぞ……」
俺は、床に設置した毛布のベッドから起き上がり、ベッドの上のセイラに呼び掛ける。
セイラはいつも、俺の携帯を勝手に使ってアラームをかけている。
彼女いわく、これで少し眠いところを無理やり起こされるのが、人間らしい生活の特徴らしい。
それを体験するため、わざわざアラームをセットしているのだ。
だが彼女はあまりに健康的なため、日が登る時刻には目を覚ましてしまう。
そのため、普段俺がアラームをセットしている午前七時までの約二時間、彼女はベットの上で寝っ転がったままアラームが鳴るのを待ち、鳴った瞬間にアラームを止めるのだ。
健康的すぎるが故に、まるで目標を達成できていないのである。
ともあれ、この妖精になってからの期間、俺にとっての目覚ましはセイラの「おはよ〜!」の号令だった。
ゆえに、このスマホのアラーム音を聴くのはすごく久しぶりだったのである。
「……セイラ?」
俺は、なんだか不安に思ってもう一度彼女に呼び掛ける。
しかし、彼女から返事はない。
俺は立ち上がり、鳴ったままになっているアラームを止め、ベッドで寝ている彼女の顔を覗き込んだ。
見ると、ベッドで横になっているセイラの顔は、今まで見たことがないほど赤く染まっていて、その呼吸は荒く、とても苦しそうだった。
「セイラ‼︎ おい! 大丈夫か⁉︎」
俺は慌てて彼女に駆け寄ると、そばで大声で呼び掛けた。
するとセイラはわずかだが目を開き、こちらに向かって小さく口を開いた。
「……あ、マサ、おはよ。……ごめん、なんだか体調良くないみたい。……昨日、ちょっと力を使いすぎたのかな……?」
「昨日……」
俺の頭に、俺と目を合わせて会話をするおじさんの顔が浮かぶ。
「……あれか」
クソッ‼︎
俺は言葉にできない悔しさを、自分の太ももにぶつける。
昨日の夜、セイラは二人分の姿を認識させていた。それは、自身の能力の上限を越えた無理のある行為だったのだ。
結果、おそらくセイラは妖精の力を過剰に消費し、こうして身体に異変をきたした。
彼女の額に手を当てると、高熱を出していることがわかった。
「……ちょっと待ってろ!」
俺は部屋を飛び出し、一階の洗面所から小さなタオルと水を張った桶を取ってくる。
そして、水に濡らして絞ったタオルをセイラの額に乗せた。
「……あとは、」
俺は再び一階に降り、キッチンに置いてあったコップに水を注ぐ。ついでにリビングで体温計を見つけ出し、セイラの元へ戻った。
自分の部屋に戻る途中、寝起きの妹とすれ違った。しかし彼女は俺に気づかない。
「……当然か」
俺は部屋に戻ると、目を閉じているセイラを軽く揺さぶり、
「セイラ、水だ。飲んどけよ」
と声をかける。
しかし、彼女は目を覚まさない。
「……許してくれよ?」
俺はそっとセイラに触れると、寝ている彼女の脇に体温計を挟んだ。
彼女がいつものノースリーブの服を着てくれていたのがせめてもの救いだった。
測定結果を待っている間も何度か声を掛けてみたが、セイラは目を覚まさない。
ピピピピ
体温計が鳴り、俺は表示を確認する。
——40.1度
「……マジかよ」
大変な高熱である。
……これは果たして、病気だろうか?
しかしこの時期、インフルエンザとは考えにくい。
だが俺は、インフルエンザ以外でここまでの高熱になる病気を知らない。というより、昨日までセイラに病気らしい兆候は何もみられなかったし、ずっと彼女と行動を共にしていた俺が今ピンピンしていることからも、菌をもらったケースや、何か変なものを食べたというケースは考えづらい。
ということは、やはりこれはセイラの言うように、人間にはわからない種類の症状だと考えるのが妥当ということになる。
しかし、そうなったら俺にできることなど皆無である……。
「……どうしたらいい?」
そもそもこれは、自然に治るものなのか?
ただでさえ、妖精についての知識はほとんどない。それに加えて、今の俺には相談できる相手も一人もいない。
外に出ても、認識して貰えばければ、できることなどほとんどない。
俺の中に、絶望感が押し寄せてくる。
「マ……サ……」
「セイラ!」
目を閉じたまま、セイラが微かに口を開く。
「……ごめん、ね……」
「何を謝ってんだ! ……大丈夫、きっと俺がなんとかしてみせる」
俺がそう言うと、彼女は目を閉じたまま口元でニコッと笑った。
俺は運んできた水入りのコップをベッドのそばに置き、ゆっくりと立ち上がった。
そうだ、一人で絶望している時ではない。
「……少し待っててくれ」
そう言い残すと、俺は携帯と財布だけ持って家を出た。
近所のコンビニにはセルフレジがなかったため、俺は少し遠い薬局まで走り、栄養補給のためのゼリーやおでこに貼る冷たいシートを買った。
まずは、あれが自然治癒で治るものだという想定のもと、できることをすることにした。
家に帰ると、セイラは眠っているようだった。
俺はひとまずセイラの額に熱冷ましのシートを貼り、水入りのペットボトルとゼリーを枕元に置くと、今後どうするかについて考え始めた。
ひとまずセイラが動けない以上、俺の姿を認識してもらうことは不可能である。
仮に俺の姿を認識してもらえたとしても、セイラの姿を認識できるのが俺だけという事実は変わらないため、病院に行ったりすることはできない。
「……今はともかく、セイラの意識が戻るのを待つしかないか」
俺はそう呟き、セイラの方をみた。
——その時、俺はとんでもない異変に気がついた。
「……なんだよ、これ?」
ベッドで寝ているセイラの指先が、わずかに透けて見えなくなっていた。
俺は恐る恐る、消えかけているセイラの手をとった。
「……触ることはできる」
消えて見えなくなっている部分も含めて、セイラの手は確かにそこにあった。
「……これは、どういうことだ?」
俺は必死で考える。
知っていることなどほとんどない。未知の領域だ。それでも、必死で考える。
……一つ、確かなことがある。
さっき体温を計った時には、こうはなっていなかった。
ということは、これは俺が買い物に行っている間に起こったことということだ。
しかし、だとするとまずい。この消えていく現象は、現在進行形で起こっているということになってしまう。
ということは、もしこのまま放っておけば、セイラが完全に見えなくなってしまうことも考えられる。
「……まずい」
なにか、なにかないか?
俺は、セイラとの会話を必死で思い出す。これまでの会話から、この現象についてのヒントを探し回る。
「あれ……?」
俺は、ふと声を漏らした。
それはとても素っ頓狂な声だったが、俺の心は言い表せない不安で満ちていた。
「……思い、出せない?」
言葉にした途端、底しれぬ恐怖が俺を襲った。
妖精になってからの記憶が思い出せないのである。
人間の時の記憶は鮮明に思いだせる。しかし、妖精になってからの——セイラに出会ってからの記憶が、なんだかとても昔のことのようで、思い出すのに時間がかかってしまう。
「……これは」
その瞬間、俺の中に一つの会話が思い出される。
『今のマサの記憶は主に、妖精のエネルギーによって定着されているんだよ。だから、人間に戻って妖精のエネルギーがなくなったら、妖精のエネルギーによって留められていた記憶も……』
「……妖精エネルギーがなくなると、そこに定着していた記憶も消える?」
ハッと俺はセイラの方を見る。
心なしか、先ほどよりも見えなくなっている部分が広がっている気がする。
「……そういうことか」
俺はそう呟くと、携帯を開きメッセージを打つ。
そして、寝ているセイラを背中おぶって部屋を出た。
今何が起こっているのか、その全てがわかったわけではない。
しかしそれでも、わかったこともある。
今、俺の中の妖精エネルギーが無くなりつつあるのだ。
セイラが消えていっているのは、厳密にはセイラが消えているのではない。俺がセイラの姿を認識できなくなってきているのだ。
妖精エネルギーの流れていない「人間」では、「妖精」を見ることはできない。
妖精になってからの記憶がぼやけてきているのは、妖精エネルギーに定着されていた記憶が、妖精エネルギーととも消えていこうとしているから……。
もし、妖精エネルギーが完全になくなったら、俺はどうなるのだろう?
そんなことを考えると、とても恐ろしくなる。
しかし、今の俺にはそれよりも心配なことがあった。
……このまま俺がセイラを忘れたら、彼女はどうなるのだろう?
身体は良くなるのだろうか? 誰がこの弱った彼女を守れるのだろうか? 無事にあの泉に戻れるだろうか? 無事に、旅を続けられるだろうか? いや、そんなことよりも……。
俺はセイラを背負ったまま駐車場へ行き、車の前に立った。
しばらくすると、家の中から、俺が送ったメッセージを見た父さんが現れた。
『友達と妖精の泉に来たんだが、帰る手段がないので迎えに来てほしい。』
どうやら父さんは俺が送ったメッセージに応じてくれたようだ。
ピピッ
音が鳴るのと同時にフロントライトが点滅し、車のドアが解錠される。
俺はそれと同時に、後部座席のドアレバーを引いた。
ピーッ、ウィーン
音を立てながら、後部座席のドアが開く。
「なんだ?」
父さんが不思議そうに呟き、後部座席のドアに近づいてくる。
俺はセイラをおぶったまま、父さんが閉めるよりも早く、車の中に乗り込んだ。
「……誤作動かな?」
父さんは首を傾げると、後部座席のドアを閉め、そのまま妖精の泉へと車を走らせた。
自宅から妖精の泉までは、車で約三十分かかる。
その間も、俺はセイラが消えていないかを終始確認し、妖精になってからの時間について思い返すことで彼女と過ごした時間のカケラを繋ぎ止めておこうと、必死でもがいていた。
やがて標高が徐々に上がってきて、あたりから建物らしい建物の姿が消える。
進行方向の空には厚い雲が広がり、暗い屋根があたりの山を覆っている。
「……降りそうだな」
運転席の父親がつぶやく。
俺はそれを横耳で聴きながら、隣で横たわっているセイラの手を取った。
その姿は先程からなんの変化もないように見える。しかし、それでも着実に、彼女を認識する力が弱まっていることを感じざるを得なかった。
「……頼む、奇跡でいいから、なにか起きてくれ」
俺は、曇った空に溶け込む山を見ながら、願うように呟いた。
『百メートル先 妖精の泉 駐車場』
そんな看板が見えた頃、窓ガラスには水滴が打ちつけていた。
「こんな雨で、マサたちは大丈夫なのか?」
父さんが不安そうに呟く。
しかし、俺にそんなことを気に留める余裕はなかった。
今はただ一秒でも早く、救いを求めて駆け出したい気分だった。
セイラと初めて出会った場所に、駆け出したかった。
ピーッ
車が駐車場に止められたタイミングで、俺は後部座席を勢いよく開けた。
「——なんだ⁉︎ またか⁉︎」
父さんが慌てているのを尻目に、俺はセイラをおぶって勢いよく外へと駆け出した。
車外へ出た途端、空から降り注ぐ雫が身体がみるみる内に濡らしていく。
ツルツルになった石やぬかるんだ土が足元を滑りやすくし、所々にできた水溜りが足元への注意をさらに高める。顔をあげれば汗のように顔をつたう雫が視覚を妨害し、雨音は聴覚を刺激する。
「……厄介な雨だな」
だがそんな文句を垂れている場合ではない。
俺はできる限り最速で、駐車場を離れた。
専用の駐車場から、階段を使って崖を少し降りる。
階段を終えると、木板とロープで作られた橋があり、長さは10メートル、高さは3メートルほど。歩くとギシギシと鳴るそのボロい橋を渡って更に10メートルほど進む。
そこに妖精の泉があった。
「ハア、ハア……。着いた……!」
暗い空の下で見るその場所は、初めて見た時のそれとは大分違っていた。
光の差し込んでいた神秘的な空間には冷たい雨が降り注ぎ、それが川の流れをより大きく、荒々しいものにしている。
あまり近づくと、セイラもろとも水に流されてしまうだろう。
「……仕方ない」
俺は、河原から少し離れた岩場にセイラを降ろした。
本当のことをいえば、妖精の泉の中央あたりまで行きたかった。
仮に、今のセイラの体調不良が妖精エネルギーの使いすぎによるものだとしたら、妖精エネルギーを吸収すれば治るはずである。
俺の記憶の混乱やセイラの認識が弱まっているのも同じ原理だとしたら、妖精エネルギーを吸収することこそが唯一の解決策である。
この場所『妖精の泉』は、セイラが数ヶ月以上にもわたって過ごした場所である。
それならば、もしかしたら今も、セイラがいた頃の妖精エネルギーが残留しているのではないだろうか。それらを吸収することができれば、俺もセイラも助かるのではないだろうか。
俺はそう考えていた。
その理屈でいくならば、セイラがいたであろう対岸に行くのが一番である。
しかし、今はあいにくの雨。氾濫した川を渡って対岸へ行くのは、あまりに困難である。
だからといって、雨がやみ川が落ち着くのを待っていれば、その間に俺はセイラを認識することはおろか、その記憶までもなくなってしまうかもしれない。
俺はセイラを川から離れたところに寝かせると、一人で川に近づくことを試みる。
しかし、流れの速くなった川の迫力を前に、思わず足がすくむ。
前には僅かな希望と、それを阻む危険な川。後ろには、かけがえのない者の存在と、自分が何を苦しんでここに来たのかさえ思い出せなくなるという、想像を絶する絶望。
俺は、意を決して一歩を踏み出そうとする。
「……マサ?」
背後から声に、俺は足を止める。
「……マサ、どこ?」
その声のすべてが、俺を震わせる。
瞬間、俺は彼女の元へと駆け戻っていた。
「セイラ! 大丈夫か⁉︎ 何か変化があったか⁉︎」
俺はセイラが再び目と口を開いてくれたことへの喜びと、どうしようも出来ない現状への不安との間に立ちながら、彼女の手をとり声をかけた。
「……あのね、私、マサに内緒にしてたことがあるんだ……」
セイラはどこか虚ろな目で、ゆっくりと喋り始めた。
「……なんだ? なんの話だ?」
俺の動揺と困惑、そして質問の全てを意に返さず、彼女は続けた。
「……私、前に一人の人間の男の子に会ったの。彼は友達と川遊びに来てたんだけど、全然楽しそうじゃなくて、何で一緒にいるのかなって私はひどく不思議に思ったんだ。……今はわかるの、別に彼らは友達じゃなかったんだね……」
アハハ、とセイラは笑う。
しかしそれはいつもの元気な彼女からは想像できないほどに弱々しく、今にも消えそうな笑い声だった。
「……何を、言っているんだ?」
俺はそんなセイラを抱き抱えながら、震える声でそう聞く。
「……私ね、その時初めて、特定の誰かに興味を持ったの。それまでにも色々な生き物を追いかけてきたけど、一つの個体に興味を抱いたのは、あれが初めてだった……」
急に雨が強くなり、あたりを激しい音が包む。
「彼に再会した時、驚いちゃった……。だっていきなり姿を見せろとか叫ぶし、いきなり目の前で死にかけるんだもん」
俺は黙って彼女の話に耳を傾ける。
「でもそれがきっかけで、初めて会話ができた。一緒に時間を共にすることもできた。私はなんだか変に舞いあがっちゃって、なんだか変に緊張しちゃった」
そう言うとセイラはゆっくりと右手をあげ、俺の頬に触れる。
「……だからね、私どう振る舞えばいいのか分からなかった……。だから、認識を歪めたの。マサからは、マサと接する時の私がいつも元気で、モジモジなんてしてないように見えるように……」
セイラはそう言うと、俺の頬に手を当てたまま、エヘへと笑った。
「……じゃあ、花火大会の時のは——」
「……エヘヘ、さすがに二人分をやりながらマサに対してまで能力を使うのは無理だったみたい。それに、やっぱり素の私で話したくなる時もあったからね。」
俺は彼女が時折見せてきた、凛としたどこか含みのある表情を思い出した。
「……そうか、じゃあずっと……」
もっと何か言いたかった。しかしあとに続く言葉が思いつかず、俺はグッとその肩を抱く力を強めた。
「……マサと出会えて、楽しかった。この日々は、私の宝物だよ。だから、私のことは気にしないで……。大丈夫、マサは人間の生活に戻れるよ。この日々の記憶に引っ張られることもきっと無い。……黒歴史はちゃんと消える、でしょ?」
セイラは全てを受け入れたような穏やかな表情で、俺に笑いかけてきた。
やめろ、そんなことを言うな。
俺は忘れたくなんかない。この日々は、俺にとってだって忘れられない最高に楽しい時間だったんだ。そんな時間が、思い出したくない黒歴史なわけあるか!
もともと俺の日常は、いつも曇り空だった。それを、お前が変えてくれたんだ。お前が、俺の世界を最高に明るいものにしてくれたんだ。
そんなかけがえのない存在であるセイラを失って、そのことすら忘れて生きていく、そんなものが未来なのだとしたら、そんなものはいらない。必要ない。
俺にとっては、セイラと過ごすこの日常がこそが日々の全てなのだ。
気がつくと、俺の目からは涙が溢れ出していた。
「……マサ? アハハ、なに泣いてるの。大丈夫、思い出は消えない。私は君に会えて、本当に幸せだったよ」
……ありがとう。
そう言うと、彼女は静かに目を閉じた。
俺の頬に触れていた右手が、重力に引っ張られて地面に落ちた。
「……セイラ?」
まるで世界の時が急に動き出したかのように、周囲の音が耳に飛び込んでくる。
雨が枝葉を揺らす音、川の水が流れる激しい音が、まだ耳に残る彼女の声に代わって俺を包む。
「……セイラ? おい!」
俺は、目の前で眠るように目を閉じている彼女を揺さぶる。
しかし、いくら揺さぶっても返ってくるのは虚しい沈黙だけだった。
「……嘘だろ」
雨が無感情に降り注ぐ。しかしその雨にさえ、感情が宿ったように感じられる。
俺はゆっくりと、彼女の口元に耳を近づけ呼吸を確認する。
……わずかだが、息はある。
俺はひとまず、ホッと胸を撫でおろす。
しかしそれは、ひとまず最悪を回避したにすぎず、状況は何も改善していない。
いやむしろ、悪くなっているとすら言える。
俺のセイラを認識する力はいよいよ弱まってきている。すでにその腕は透き通り、向こうの地面が見える。
必死で繋ぎ止めていた記憶も今のやりとりの間にどこか遠くへ行ってしまったらしく、記憶はすっかりまばらになっている。
「……どうすればいい?」
俺は絶望しかけたその心で呟くと、頭をさげうなだれた。
ふと、びしょ濡れになったズボンが視界に入る。
俺はそれを見て、ふと懐かしさを感じた。
「……そうだ、前にもこの森でこうしてずぶ濡れになったことがあった。あれは、確か……」
俺の脳裏に、うっすらと彼女との出会いの風景が思い出される。水の中で溺れた時の、まだ人間だった時の記憶が蘇る。
「……そうだ、セイラはあの時水中で……」
俺のなかに、一つのアイディアが浮かんだ。
それはあまりにもメルヘンで、あまりにも古典的で、実行するのがはばかられるほどのものだった。だが、不思議とこれが答えだという強い確信があった。
「……あの時セイラは、俺に妖精エネルギーを分け与えることで俺を生かした。もし、その妖精エネルギーを返すことが出来たなら……。」
そこまで口にして、俺は覚悟を決める。
俺の中の妖精エネルギーをセイラが取り込めば、少なくともセイラの命は助かる。
その影響で俺の命がどうなろうと、もはやどうでもいい。俺はすでに一度、自分のドジで死ぬ筈だった人間なのだ。
彼女にもらった時間の中で、俺は大切なものを見つけることができた。
その恩返しができるのなら、この命など、安いものだ。
俺は頭をセイラの顔の上に持ってくると、そのまま見下ろすように彼女をじっと見つめた。
「……お前のせいで、俺の日常は一気に騒がしくなった。お前にたくさん振り回されて、やりたくもないことをいっぱいしたし、知りたくもない自分をたくさん知ったよ。……でも、そのおかげで俺は楽しかった。人生で、一番楽しい時間を過ごせたよ。セイラがくれたものは、俺に命の輝きを教えてくれた。だから……、この命、お前に返すなら悪くない」
——これは、俺の感謝だ。
俺は静かに彼女に近づき、その唇にキスをした。
唇から、わずかに彼女の体温が伝わってくる。
その温もりはなんだかとても懐かしく、また、初めて知る温もりだった。
……こんな最後なら、人生の終わりとして、悪くはないだろ?
……もう充分だ。充分、幸せだ。
俺は薄れゆく意識の中、そんなことを感じていた。
夢の中で、彼女が俺に笑いかけてくれた気がした。




