鬼才
鬼才と検索すると天才へ転送されるけれども、
厳密には鬼才と天才とは別物だ。
過去の評論を援用すれば、
天才とは人に対して傍若無人であるが、
鬼才は人を屁とも思わない、
というのが一番、
しっくりとくる。
このご意見の出てくる「滄浪詩話」を書いた厳羽自身が、
まあ、
そのような人柄だったのかな、
と僕としては思うわけだが、
僕のような凡凡な性格には、
とても想像もできない。
そして、
その想像できない人間が目の前にいる。
「瓢箪へようこそ」
愛想はいいのだから、
これですんでいれば、
アカーシャにいても良かったのだけど。
「知っての通り、
ヒトラーは美と善を死ぬ瞬間まで信じられるような人間だったが故に、
ドイツ人にとって死ななければならない存在でした」
「へーーー」
と、突然始まった講釈が長くなるのを覚悟して、
僕はその辺の椅子に座った。
彼が僕を横目でみるので、
「李賀、いいよ、つづけて」
と、僕は促した。
「老老の特勒、酣なる春を怨む
酒客 背寒く 南山死す」
李賀の眉は太く、
頰はこけ、
背は高く痩せている。
「彼は600万人のユダヤ人を計画殺人を実行しましたが、
ハイドリヒが暗殺される以前には、
その1/5の殺害許可しか出していないのですよ。
暗殺後半年で300万人が殺されました。
イギリスが暗躍しなければ、
300万人の半分くらいは助かった可能性があります」
「月は東から昇り、
盃は東から廻ってくる、
ということかな?」
「覆水盆に還らず、
でもいいですよ。
そして、
誰もが正義に敏感になります」
「盃が足らないから?」
「恋人も、です」
「君の場合は、だろ?」
「ええ、まぁ、そうですね。
私の場合は金魚袋をもらえなかったのが大きいですが・・・。
あなたも、経験したでしょ」
相変わらず、
いやなことを言う奴だ。
僕は彼と歩くことにした。
ここは空中都市アカーシャから離れた空間に浮かんでいる、
瓢箪型の構造物だ。
無限図書館とか、
瓢箪とか、
彼に因んで白玉楼とか呼ばれている。
もともとはアカーシャ建造に先立ってつくられて試作品だが、
今はバックアップを兼ねた外部記憶媒体として使われているだけで、
好き好んで訪れる者は皆無だ。
無限図書館と称されてはいても、
中は「バベルの図書館」のような六角形をした蜂の巣状ではなく、
どちらかというと、
キケロの記憶の宮殿に似ている。
蜂の巣的構造が避けられたのは、
あの経済学的奇書「蜂の巣」を想起させるから縁起が悪い、
という節子の意見も参考にしたらしい。
故に類似点は、
それは建築的であり、
それが無限に増殖するという点と、
置かれている本の規格が、
その内容と比例せずに一定でありながら、
普通に最後まで記載されているという二点だ。
あと、
ここの管理人たる彼の個人的特質として、
それらとは別に、
彼自身の中には、
彼だけが閲覧可能な無限枚数の「本」があり、
李賀はそれを捲ることで、
過去を観ることができる。
こうした人間は稀にいて、
ある人は僅か3歳の頃に、
わたしのアルバムがね、
といって、
心の中にある、
生まれる前からの記憶の写真集を披露して、
両親を驚愕させた。
歩み出した僕らは、
数学者エッシャーが作り出した無限階段を上り下りしながら、
世間話を繰り返し、
李賀の生まれた大陸の国の宮殿を横切り、
幻想の中の空中宮殿で天高く舞い上がる噴水の飛沫に濡れながら、
昔話を懐かしんだ。
滝の裏を横切り、
下へと降りると、
桜のトンネルが現れた。
真ん中には線路がある。
桜色の空間で、
桜が舞い散る中で、
僕が呆けていると、
景色は先斗町に変わった。
一軒のバーで足をとめると、
僕は中を覗いてみた。
僕の思い出が詰まっている場所だ。
中には昔、別れた女性がいる。
「気に障るね」
と、彼にいった。
「今、起こっているのは、
こうしたことだと思うのですけれど」
「昔懐かしい思い出の場所を土足で踏みにじられて、
不快感で叫び出しそう、ということかい?」
「私もそうですから、
あなたもそうかと思ったまでです」
「僕がペイガンを作った時と同じだと?」
「ええ、
今、地上で暴れている夢たちは、
あなたから洩れ出した心のなせる技でしょうから」
「心、ね」
「だから、
私に会いに来られたのでしょうに」
さっきのバーじゃないが、
思い出の場所にしたり顔で、
無造作に出入りされるようなことほど、
心を掻き毟られることない。
「消してしまえばいいんですよ」
「夢を?」
「全て、をです。
全てを一からやり直せばよろしいでしょうに」
「ヒトラーのようにかい?」
と、僕がいうと、
とても満足したようで、
彼は目を細めた。




