誓約
私は毎日、
誰かを殺して過ごした。
首を切り落として、
生首から頭蓋骨の飾り物を作ってみたりもした。
その過程で思ったのは、
織田信長が骸骨盃で酒を飲んだから残酷だ、
と言うけれども、
第二次大戦の時、
日本兵に首無し死体が多かったのを知らない方が、
死者に対して残酷じゃないかな、
ということだ。
21世紀の日本人は、
日本人の首を切り落として、
玩具のように故郷に持ち帰って自慢していたアメリカ人と、
よくもあんなに仲良くできたな、
と不思議に思ってしまった。
野蛮人と精神異常者に共通点を見出して、
自慢気に論文にした20世紀の西洋文明を崇拝した末路とも言えなくないけれども、
私は自分の精神世界の模造品を弄くりまわしながら、
ここはまるで動物園だな、
と思うようになった。
そうえば、
動物園が植民地時代の残酷さの名残だっていうことも、
世間では忘れられている。
現地人の女や男を見世物にした。
冒険家と名乗るサディストは、
現地人にお金を渡して少女を殺させて食べた。
さすがの私も、
殺しはしても、
食べようとは思わなかった。
どちらかと言えば、
もしかしたら、
彼女たちが捕まらなければ、
いずれ私は殺されて食べられていたかもしれない。
人の残虐行為への順応力の高さは、
驚くべきものがあるのは確かだ。
だからこそ、
戦争はなくならないし、
男が始めた戦争を女性が全力で支えたりするわけだ。
もし、
女性が安全で母性的で教育的な想像力に富んでいるのなら、
前線で日々繰り返されている行為を想像できないはずがない。
私はそんな思いになりながら、
私を虐めた女性が子供と心中する日へと移動した。
彼女は夫の裏切りや、
過去の自分の行為が周囲にしれたことで、
すでに正気を失っていた。
私は駅のホームでベンチに座っている。
三メートル前に、
赤ん坊を抱いた女性がいる。
彼女は数分後、
電車に飛び込む。
私はその光景を永遠と思えるくらいに、
繰り返した。
電車の急ブレーキの音、
周囲の悲鳴と飛び散る肉片類。
みたら、
また、
エレベーターに乗って前日へ、
そして飛び込む場面へと、
それを繰り返すだけの日々を送った。
その内、
私の頭に、
これは20世紀の戦争中の、
「日本人の頭部を土産物にするための調理法および解体法」という写真入り新聞記事と同じくらいに下らない、
という考えが浮かんだ。
そう思ったら、
途端に、
ここから出たくなった。
けれども、
今気づいたが、
ここから出て現実にかえる方法を、
私は教えられていなかった。
確か、
<自分が決してしないと誓えるなにかをみつけだす>とか言っていたはずだが、
それが具体的に何を意味しているのかがわからない。
私が決してしないと誓えるのは、
殺すことに慣れたり、
楽しみを感じたくない、
というくらいなのたが。




