悪夢
バタバタと駆ける雑踏。こだまする悲鳴。辺り一面に舞う、真っ赤な花弁……。
リリアナは買ったばかりのパンの袋を握りしめたまま、凍り付いていた。
――嘘……
下卑た笑いを浮かべながら、血に塗れた剣を振り翳して、逃げ惑う人々を追いかけ回し、無惨にも斬りつけるマージ兵たち。
次々と殺されていく人々を、リリアナはその場で傍観することしかできなかった。その時ふと、リリアナの左肩を強くつかんで来る感触に、体が跳ねる。
「……逃げて」
「!」
掠れた声が聞こえ、リリアナがそちらを振り返ると頭から大量の血を流したパン屋のおばさんが目の前に迫る。
「……い、や」
真っ青になったリリアナが、逃げ出そうと後ろへ身を引く。だが、おばさんの手はガッチリとリリアナの肩を掴んで離さない。
――逃げろって言ったのに!
リリアナは身を捩り、おばさんの手から逃れようとするが、逆の手が伸びてきたかと思うと、逆の肩を掴まれる。力強く肩に食い込む指の痛みに、リリアナは顔を顰めた。
「離、して……っ!」
「リリアナ……逃げて……」
「やだ……っ」
リリアナはパンを取り落とし、おばさんの手を振り払おうとする。だが、おばさんは大きく目を見開くと、恨めしそうに表情を顰めながら勢い良く顔を近付けてきた。
『あんただけ逃げて……何処へ行くつもり?』
「い、嫌っ!!」
リリアナは何とかおばさんを振り切ると、一目散にその場から駆け出す。そして診療所に駆け戻ると、急いで鍵をかけ、髪を振り乱して涙目になりながら荒い息を吐く。
――夢? これは夢なの? それとも……。
その時、ツンと服の袖を引く感覚を覚え、恐る恐るそちらを振り返った。
「リリアナ……」
そこにいたのは、心配そうな表情を浮かべているゲーリの姿がある。
リリアナは彼の姿を見た瞬間、心の底から安堵のため息を漏らし、彼の両腕を掴む。
「ゲーリ! 良かった! 無事だったんだ!?」
「無事って……どうしたんです?」
「え? だって、マージ兵がいたし、村の皆が殺されて……」
血相変えてそう言うと、ゲーリは困ったように笑っている。まるで、言っている意味が分からない、とでも言うような顔だった。
リリアナは一瞬、怪訝な顔を浮かべたが、すぐに思い出したようにゲーリの肩に目を向ける。
「あ、ゲーリ、そう言えばケガは? 大丈夫なの?」
「ケガ? してませんよ、ケガなんて」
「……え。でも、肩に酷い怪我してた、でしょ?」
「まったく、あなたはさっきから何を言ってるんです?」
「……」
何かが変だ。
そう感じたのも束の間、目の前の困ったように微笑むゲーリの頭から、赤いペンキを流したように血が流れていく。
リリアナはサッと顔を青ざめさせ、咄嗟に身を引こうとしたが、ゲーリに腕をガッチリと握り返され逃げることが敵わない。
「リリアナ……」
「は、離して……っ!」
「何処へ行くんですか?」
「やだ……」
ゾワリ、と背筋に寒気が走る。
何度も身を捩り、強く体を引いてゲーリの手から必死になって逃れようとしたが、ビクともしない。
『あなたのせいで、私も村も酷い目に遭ったって言うのに……』
「……っ!!」
その言葉にリリアナは大きく目を見開き、ズキン、と胸が痛む。
――やっぱり、あたしのせいなんだ……。
愕然とした顔を浮かべたまま、そう思うと涙が滲む。
「あ、たし……」
リリアナはボロボロと涙を零しながら、頭を抱えてその場にしゃがみ込む。その瞬間、ふっと鼻先に嗅いだことのある柔らかな香りが掠め、温かな温もりに体が包み込まれた。
***
「……」
リリアナは涙を零しながら、薄っすらと目を開く。
視界は涙で霞み、頭は夢から覚めきっていない。それでも、自分を包み込む温かさや安心する香りで、少しずつ心が解けていく感覚があった。
――誰、だろう……。
暗い世界に、薄ぼんやりと灯るオレンジ色の灯り。
暗くて顔は見えないが、自分を抱えているその人物はそっと、柔らかなマットの上に横たわらせると、何も言わずにその場を離れて行った。
――ペブリム、さん……じゃ、ない?
去っていく後ろ姿は、つい先ほどまで見ていたペブリムの背中より大きく見えた気がしたが、それを確認する間もなく、リリアナは再び意識を失うように目を閉じた。




