初めての野営
日が傾き始める少し前、村からしばらく進んだ先にある小さな湖のそばまでやってきた。
ブレディシアへ繋がる道を僅かに横にそれた林の奥にあるその湖は、ひっそりと、しかしとても綺麗な水を湛えていた。
「わぁ……綺麗」
湖を見た瞬間、自然とリリアナの口から感嘆の声が出る。
ペブリムは馬を止めて先に降りると、手綱を傍に生えている木に結びつけた。
「今日はここで野営をします。準備をしますので少しお待ちください」
そう言いながらリリアナに手を差し出した。
高い位置から下に降りるのも、なかなか怖いものがある。乗った時のように鐙に足をかけようとしたが届かず、リリアナの眉間に思わず皺が寄った。
「あの……どうやって降りたら……」
「鞍を掴んで、私の方へ体ごと向いてもらえますか?」
「……」
跨った足の片方を体に引き寄せ、横座りになろうと試みる。しかし不安定な馬の上で滑り落ちる可能の高さに、リリアナは若干青ざめた顔で首を横に振った。
「無理。後ろ向きに倒れそう……」
「……でしたら、私の方へ」
「へ?」
「手を掴んでください」
「?」
ペブリムはニッコリ微笑みながら手を差し出している。リリアナは理由もわからず、手を伸ばした。すると、ペブリムはその手を掴むなり、やや強引に自分の方へと引っ張り、弾みでリリアナの体は大きく前に傾いだ。
「お、おおお落ち……っ!!」
滑るように落馬すると思ったリリアナは、思わずギュッ目を閉じた。目の前にペブリムがいると分かっていても、無我夢中で手に触れたものにしがみつく。しかし、力強くペブリムに抱き寄せられ、すんなりと痛みもなく地面に降ろされた。
「……っ」
「……大丈夫ですか?」
温かく、柔らかな感触に包まれながら声をかけられ、思い出したようにパッと目を開けた。
目を開けると、ペブリムの首元にしがみつくように抱きついている状況に、リリアナの心臓が一気にうるさく鳴りだした。
「あ! ご、ごめんなさい!」
真っ赤になりながら、ペブリムの胸に顔を埋めていたリリアナは慌てて手を離し、硬直してしまう。
「お疲れでしょう。すぐに支度をします」
ペブリムは何事もない様子で微笑み、リリアナを地面に降ろして手を離すと、すぐに野営の支度に取り掛かる。馬に積んであった荷を降ろし、手慣れた様子でテキパキとテントを建て始めた。
「……」
リリアナは僅かに顔を染めたまま、そんな彼女を少し不貞腐れたような、憮然とした顔で見つめる。
――なんか色々、ズルい……。
無意識に自分の胸元に視線が落ちる。
馬に乗っている時もそうだったが、先ほど抱きしめられた時にも感じた柔らかな感触に、口を尖らせる。
「……不公平じゃない?」
言っても仕方がないのだが、つい気にしてしまうのは、年頃だからかもしれない。
リリアナは深い嘆息を吐き、気を取り直してペブリムを手伝おうと思った。だが、普段乗らない大きな馬の背に跨り、ガチガチに緊張し過ぎていたせいか、体中が軋むように痛んで思うように動かない。
仕方なく、ペブリムが用意してくれていた小さいクッションの上に腰を降ろした途端、立ち上がるのさえ嫌になるほどドッと疲れが出た。
――ほんとに、疲れた……。
リリアナは深い溜息を吐いて膝を抱えるように蹲り、ぼんやりと陽の光を受けて輝く湖面を見つめた。
どこかで鳴く小鳥の声が、静かな空間によく響いている。
――あんまり深く考える間もなく、村を出ることになっちゃったけど……良かったのかな。ほんとに。
リリアナは何となく、手袋をはめた左手を持ち上げて見つめた。
ただの痣が、自分の人生だけじゃなく村のみんな全体を巻き込むような事態になるとは、想像もしなかった。ましてや、自分がただの村医者の娘ではなく、実は高貴な身分だったなどと、到底信じられない。
――自分が王女さまなんて……。
むしろ嘘だったらいい。先ほど自分の身に起きた全てが、夢であって欲しいと願わずにいられない。
今更そんなことを言われても、王女になどなれるはずがない……。
「……」
リリアナはやがて、疲れからウトウトし始め小さく身を丸め込み、抗えない眠気にその場に横になる。幸い、地面は草が生えて柔らかい。
温かな太陽と土の香りに包まれて、リリアナは深い夢の中に引きずり込まれていった。




