16話 京都編Ⅱ:静寂の中の殺意
――京都・六角通。
昼。
人気のない通り。
静まり返った空気。
その中心で――
二人は、すでに間合いに入っていた。
一歩踏み込めば、命が散る距離。
「……」
沖田総司は、静かに構える。
その視線の先。
傘の男が、低く笑う。
「……まさか」
愉しげに。
「もう一度、お前と斬り合えるとはな」
その声。
その気配。
「……ああ」
総司が、静かに応じる。
「俺も思わなかったよ」
一拍。
「こんな形で、ね」
互いに、理解している。
目の前の存在が“誰か”を。
風が、止まる。
その中で――
総司が、ゆっくりと口を開く。
「新選組一番隊隊長」
静かに。
揺るがず。
「沖田総司」
改めて、名を告げる。
それは確認ではない。
――礼。
その言葉に。
男の口元が、歪む。
「……ああ」
楽しそうに。
「その名だ」
傘が、払われる。
現れる顔。
狂気を帯びた眼。
「――薩摩藩士」
低く、響く声。
「薬丸自顕流」
一拍。
刀を、わずかに構える。
「田中新兵衛」
名を、叩きつけるように告げる。
一瞬の静寂。
空気が、張り詰める。
それは――
戦いの合図。
「……行くぞ」
低く。
田中が呟く。
「……うん」
総司が、静かに応じる。
――次の瞬間。
ドンッ!!
同時に踏み込む。
キィンッ!!
鋼がぶつかる。
火花。
一瞬で、数合。
速い。
重い。
狂気。
「ははっ!!」
田中が笑う。
「いいねぇ、その剣!!」
斬撃が荒れる。
だが――
殺意は、純粋。
総司が捌く。
流す。
逸らす。
踏み込む。
「……」
(速い)
一拍。
(でも――)
さらに一撃を捌く。
(荒い)
違和感。
だが同時に。
(圧が強い)
「どうした沖田ァ!!」
田中が叫ぶ。
「こんなもんかよ!!」
踏み込みが深くなる。
斬撃が重くなる。
「……いや」
総司が、静かに返す。
一歩、引く。
間合いを取る。
「ちょっと、確かめてるだけ」
その言葉に。
田中が、にやりと笑う。
「余裕だなァ」
刀を構え直す。
空気が、変わる。
殺気が膨れ上がる。
「ならよ――」
「もっと楽しませろ」
――その瞬間。
総司の構えが変わる。
低く。
鋭く。
空気が、止まる。
その様子を――
少し離れた位置から。
美雪が、息を呑んで見つめていた。
「……っ」
声にならない。
ただ、総司の背中を見つめる。
その一瞬で。
理解してしまう。
今から放たれるものが――
どれだけのものか。
そして同時に。
それを受ける危険も。
胸が、締め付けられる。
「……総司くん……」
小さく。
零れるように。
祈るような声。
――上。
屋根の上。
男が、見下ろしている。
「……ほう」
低く、笑う。
「やるではないか」
視線は下へ。
斬り結ぶ二人を、値踏みするように眺める。
「しかし」
わずかに眉を寄せる。
「口が軽い」
指先で札を弄ぶ。
「“もらった”だの“札”だの……」
小さく、鼻で笑う。
「隠すという知恵もないか」
一拍。
「使い手としては三流よ」
だが――
その口元が、ゆっくりと歪む。
「……まあ、よい」
愉しげに。
「その程度でも」
視線を細める。
「駒としては、使える」
そして――
「散る様もまた、見世物よな」
――その瞬間。
総司が、踏み込む。
音が、消える。
「――」
見えない。
一閃。
二閃。
三閃。
遅れて――
空気が裂ける。
「――無影三段突き」
――ガキンッ!!
田中が、強引に受ける。
完全には止めきれない。
頬が裂ける。
血が飛ぶ。
「……っ!」
一歩、後退。
だが――
「はっ……!」
笑う。
「いいねぇ……それ……!!」
狂気が増す。
その瞬間――
「総司!!」
声。
複数の足音。
セレナたちが駆け込んでくる。
「……チッ」
田中が舌打ちする。
「邪魔が入ったか」
刀を肩に担ぐ。
「今日はここまでだ」
にやりと笑う。
「次は――」
目が、光る。
「最後までやろうぜ」
一歩、下がる。
「沖田」
低く。
はっきりと。
「近いうちに、再戦だ」
そのまま――
気配が、消える。
――静寂。
風だけが残る。
「……逃げたか」
総司が、静かに息を吐く。
刀を下ろす。
「総司!」
セレナが駆け寄る。
「無事!?」
「うん」
やわらかく答える。
「大丈夫」
だが――
その目は、鋭いまま。
「……あの人」
美雪が、小さく呟く。
「“札”って言ってた」
総司が、静かに頷く。
「……うん」
視線は、消えた方向へ。
「ただの辻斬りじゃないね」
――上。
誰もいない屋根。
風だけが、静かに吹き抜けていく。
気配は、すでに消えていた。
――静寂。
風だけが、通りを抜ける。
「……逃げたか」
総司が、小さく息を吐く。
刀を下ろす。
その瞬間――
「総司くん!!」
強い声。
美雪だった。
そのまま、ずかずかと近づいてくる。
「ちょっと!!」
ぴたり、と目の前で止まる。
「なんで一人で突っ込むの!?」
怒っている。
はっきりと分かる。
「危ないって分かってたでしょ!?」
「いや……」
総司が、少し困ったように笑う。
「大丈夫だったし――」
「そういう問題じゃない!!」
即、遮る。
一歩、踏み込む。
距離が近い。
「もし何かあったらどうするの!?」
その声は――
怒っているのに。
どこか、震えている。
一拍。
総司が、少しだけ目を細める。
「……ごめん」
やわらかく。
静かに言う。
その一言に――
「……っ」
美雪の表情が、揺れる。
怒りが、ほどける。
その代わりに。
別の感情が、浮かぶ。
その時――
「……あ」
美雪の目が、止まる。
総司の頬。
薄く、切れている。
血が、一筋。
「……もう」
小さく、呟く。
さっきまでの勢いはない。
そっと、手を伸ばす。
「じっとしてて」
やさしく。
指先で、頬に触れる。
ハンカチで、そっと血を拭う。
「……無茶するんだから」
小さく。
本音が、こぼれる。
距離は、近い。
総司が、少しだけ苦笑する。
「……心配かけたね」
「当たり前でしょ」
即答。
でも――
その声は、やわらかい。
一拍。
「……でも」
少しだけ、視線を落とす。
「無事でよかった」
ぽつりと。
静かに。
その言葉に――
総司が、ふっと笑う。
「……うん」
やわらかく、頷く。
そのまま。
ほんの少しだけ。
静かな時間が流れる。
そのまま。
ほんの少しだけ。
静かな時間が流れる。
――だが。
「……で?」
セレナの声。
腕を組みながら、じっと総司を見る。
「何があったの?」
視線が鋭い。
「あなたが傷つくなんて、珍しいわよ」
「……確かに」
晋作も、低く言う。
「普通じゃねぇな」
「ええ」
晴明も、静かに頷く。
「ただの辻斬りではないでしょう」
一瞬の沈黙。
その中で。
総司が、ゆっくりと口を開く。
「……強かったよ」
短く。
だが、はっきりと。
「――昔と同じで」
その一言で。
空気が、わずかに変わる。
「……は?」
晋作が、眉をひそめる。
「見たことある気がするが……あれ、誰だ?」
総司は、少しだけ目を細める。
「名前聞いたら驚くよ」
一拍。
「多分、晋作は特にね」
「……はっ」
晋作が、わずかに笑う。
「上等じゃねぇか。言ってみろよ」
その言葉に。
総司が、静かに告げる。
「――田中新兵衛」
一瞬。
時間が止まる。
「……は?」
晋作の顔が、固まる。
「……あの人斬り、か……?」
低く。
信じられないように。
「いや……だが、あいつは確か――」
言葉が、止まる。
そして。
「……なんで、この時代にいる」
その問い。
だが――
次の瞬間。
晋作の中で、何かが繋がる。
「……っ」
目が、わずかに見開かれる。
「……まさか」
低く、呟く。
「泰山府君祭……か」
その言葉に。
「……え?」
「なに、それ……?」
総司と美雪が、同時にきょとんとする。
視線が、晴明へ向く。
晴明が、一歩前に出る。
「……死者の魂を引き戻す術だ」
静かに。
だが、断言する。
一拍。
「だが――」
わずかに間を置く。
「本来、人が扱える術ではない」
空気が、変わる。
「試みる者はいても」
「成立させられる者は、ほとんどいない」
低く。
「失敗すれば、術者自身が喰われる」
「代償は、軽くない」
静かに続ける。
「まともに扱えるとすれば――」
ほんの一瞬。
「限られた存在だけだ」
その言葉に。
場の空気が、重く沈む。
「……じゃあ」
セレナが、腕を組んだまま言う。
「今回のは“まともじゃない”ってことね」
「ええ」
晴明が頷く。
「完全な再現ではない」
一拍。
「歪んだ形で引き戻されている」
「……なるほどね」
セレナが、小さく息を吐く。
その時――
「……あの」
美雪が、小さく口を開く。
「さっき……」
少しだけ考える。
「“札”って言ってたよね……?」
視線が、総司へ向く。
「人払いの札、貰ったって……」
「ああ」
総司が頷く。
「言ってた」
一拍。
「どこかに、あるんじゃないかな」
その一言で。
空気が、動く。
「……探すか」
晋作が、周囲を見渡す。
「近くにある可能性は高いな」
六角通。
不自然な静けさ。
人の気配が、ほとんどない。
「……この状態自体が答えみたいなものね」
セレナが、静かに言う。
全員が、散開する。
――探索。
足音だけが響く。
そして。
「……これか」
晴明が、足を止める。
地面の端。
目立たない場所。
貼られている一枚の札。
それを、静かに拾い上げる。
「……これは……」
ほんのわずかに。
晴明の目が、細くなる。
(……不完全だが)
(ここまで形にするか)
一拍。
(……道満)
確信。
だが――
表情は、すぐに戻る。
「それ?」
セレナが、近づく。
視線は鋭い。
「……ああ」
晴明が、静かに頷く。
「この札で人払いをしていたのは間違いないだろう」
事実だけを告げる。
それ以上は言わない。
「……そう」
セレナが、じっと見る。
ほんの一瞬。
“何か”を感じ取る。
だが――
追及はしない。
「……便利だな」
晋作が、軽く言う。
「戦うには都合いいってわけか」
「……逆に言えば」
総司が、静かに言う。
「完全に仕組まれてるってことだね」
その言葉に。
誰も否定しない。
晴明は、札を見つめたまま。
何も言わない。
セレナもまた。
それ以上、何も聞かない。
――だが。
確実に。
何かが動いている。
静寂の中。
物語は、さらに深く潜り始めていた。
その時――
「……じゃあさ」
セレナが、ふっと口を開く。
軽く息を吐きながら。
「私は、ここで別行動するわ」
「……え?」
茜が、小さく反応する。
「確認しておきたいことがあるのよ」
セレナは、さらりと言う。
だが――
視線は、どこか別の方向を見ている。
「もうすぐ日も暮れるし」
一拍。
「その前に、ね」
その言葉に。
「……何かあんのか?」
晋作が、じっと見る。
探るような目。
「まあね」
セレナが、軽く笑う。
「大したことじゃないわ」
嘘ではない。
だが――
全部は言っていない。
「じゃあ、また後で」
ひらりと手を振る。
そのまま、歩き出す。
夕方の光の中へ。
――五人が残る。
一瞬の沈黙。
「……いいのかよ」
晋作が、ぼそっと言う。
「一人にして」
「……」
総司が、少し考える。
「セレナなら大丈夫な気もするけど」
一拍。
「辻斬りの件もあるしね」
「ええ」
晴明も、静かに言う。
「放置するのは得策ではありません」
「……ですよね」
茜も、小さく頷く。
「……仲間だしな」
晋作が、肩をすくめる。
「放っとく理由もねぇ」
その言葉に。
総司が、ふっと笑う。
「決まりだね」
「こっそり、追おうか」
――
夕暮れ。
京都の街。
人影が、少しずつ減っていく。
その中を――
セレナが、一人歩く。
迷いのない足取り。
やがて。
とある場所で、足を止める。
視線を上げる。
静かな境内。
歴史の気配。
「……ここね」
小さく、呟く。
その先にあるのは――
晴明神社。
「……やっぱり」
ほんの少しだけ。
目を細める。
「気になるのよね」
そのまま、ゆっくりと歩き出す。
「……せっかくだし」
小さく呟く。
「見て回ろうかしら」
外壁に掲げられた説明板。
一つ一つ、足を止めながら目を通していく。
絵。
文字。
そこに刻まれた――
“安倍晴明”の生涯。
「……陰陽師として仕えて、式を使って都を守って……」
軽く息を吐く。
「ちゃんと仕事してるじゃない」
その時――
「私の生涯が気になりますか?」
不意に。
後ろから声がかかる。
「……やっぱり来てたのね」
セレナが、少しだけ笑う。
「晴明」
そして――
「てか、みんなもでしょ?」
振り返らずに言い切る。
「……バレたか」
総司が、苦笑しながら姿を現す。
「さすがだな」
晋作も、肩をすくめる。
「隠れる気なかったでしょ……」
茜が、困ったように笑う。
美雪も、小さく手を振る。
「まあいいわ」
セレナが、軽く肩をすくめる。
「ちょうどいいし」
一拍。
「みんなで見ましょうか?」
――
「安倍晴明は、平安時代の陰陽師で」
晴明が、穏やかに語り出す。
「天文、暦、呪術などを扱い」
「朝廷に仕え、都の異変を祓っていた」
「式を使い、災いを防ぐ――」
「そういう役割だ」
「へぇ」
セレナが、軽く頷く。
「ちゃんと“守る側”だったのね」
「一応な」
晴明が、わずかに苦笑する。
「……すごいですね」
茜が、素直に言う。
「ここまで伝わっているなんて」
「それだけ影響力があったってことだろ」
晋作が、腕を組む。
「ただの噂じゃ残らねぇ」
「……これ」
美雪が、別の説明を見る。
「白狐の子って話もあるんだね」
「母が狐だった、という伝承だな」
晴明が、淡々と答える。
「事実かどうかはさておき」
「象徴として語られている」
「ロマンあるわね」
セレナが、くすっと笑う。
「嫌いじゃないわ、そういうの」
そのまま。
穏やかな空気が流れる。
――だが。
その中で。
セレナだけは、わずかに視線を落とす。
(……やっぱり無いか)
心の中で、呟く。
(ここに何かあると思ったけど……)
(外れね)
ほんの一瞬。
悔しさが滲む。
だが――
すぐに顔を上げる。
「……さて」
軽く手を叩く。
「満足した?」
その瞬間――
「それ、お前じゃねぇのか?」
晋作が、即座にツッコむ。
「一番じっくり見てたの、お前だろ」
「……あら」
セレナが、くすっと笑う。
「バレた?」
「最初からだ」
総司も、苦笑する。
「なんか目的あって来た感じだったし」
「……別に」
セレナが、軽く肩をすくめる。
「ちょっと気になっただけよ」
さらりと流す。
だが――
その言葉の裏を。
何人かは、感じ取っている。
――夜が、近づく。
静かに。
だが確実に。
次の局面が、すぐそこまで迫っていた。
――夕暮れ。
鞍馬寺。
空は、朱に染まり。
山の影が、ゆっくりと長く伸びていく。
風が、止まる。
音が、消える。
その静寂の中――
一人の男が、座していた。
黒い法衣。
深く被った頭巾。
微動だにせず、座禅を組んでいる。
だが。
その場の空気は――
明らかに“歪んでいた”。
「……来たか」
低く。
静かに。
男が、呟く。
その背後。
気配が、現れる。
音もなく。
そこに立っていたのは――
田中新兵衛。
血の匂いを残したまま。
「いいところで逃げたな」
黒い法師が、わずかに口元を歪める。
「それで剣が泣かぬか?」
嘲るように。
だが、どこか愉しげに。
田中が、鼻で笑う。
「邪魔が入っただけだ」
肩を鳴らす。
「次はそうはいかねぇ」
目が、ぎらりと光る。
「沖田は、俺が斬る」
一歩、踏み出す。
「この時代でな――」
口元が歪む。
「逆に、追い詰めてやるよ」
不敵に、笑う。
その瞬間――
「……高杉晋作には手を出すな」
別の声。
低く。
抑えた声音。
振り向くまでもなく。
気配だけで分かる。
一人の男が、ゆっくりと歩いてくる。
浪人風の装い。
影の中から、姿を現す。
田中が、舌打ちする。
「……ちっ」
「過去の因縁ってやつか」
吐き捨てるように言う。
「好きにしろ」
黒い法師が、静かに口を開く。
場を、支配する声。
「その程度の情に縛られるなら、それまでよ」
一拍。
わずかに、首を傾ける。
「だが」
指先が、わずかに動く。
空気が、揺らぐ。
見えない“何か”が、応じる。
「奴らの足取りは――式に追わせている」
静かに。
確信をもって。
「逃げ場はない」
そして――
わずかに視線を田中へ向ける。
「貴様が望むなら」
低く。
ゆっくりと。
「沖田との一騎打ち――整えてやろう」
その言葉に。
田中の目が、わずかに細まる。
「……ほう」
興味を示す。
その直後。
男の口元が、歪む。
「ただし」
一拍。
「“場”はこちらで用意する」
指を組む。
印を結ぶ。
空気が、変わる。
重く、濁る。
「――謹みて招く」
低く、響く詠唱。
「鬼門を開き、鬼気を顕せ」
「血に飢えし者、我が呼び声に応じよ」
「来たれ――」
一瞬の静寂。
次の瞬間――
地面が、歪む。
黒い靄。
瘴気。
その中から――
巨大な影が、這い上がる。
「――星熊童子」
低く。
名を告げる。
現れたのは――
鬼。
異形の巨躯。
歪んだ角。
濁った眼。
ただ立つだけで、空気を圧する。
「酒呑童子の配下の一体よ」
男が、淡々と告げる。
「こいつを使え」
短く。
投げるように。
その言葉に。
田中が、にやりと笑う。
「……面白ぇ」
刀に手をかける。
「いい舞台だ」
目が、狂気に染まる。
「これなら――」
一歩、踏み出す。
「最後まで楽しめそうだ」
黒い法師は、静かに笑う。
名も名乗らず。
ただ――
すべてを見下ろす存在として。
「……ああ」
低く。
底の見えない声で。
「存分に、踊れ」
夕闇が、深くなる。
山が、完全に影に沈む。
鬼が、低く唸る。
人と鬼。
そして――“何か”。
すべてが揃う。
――夜が、始まる。
狩りの時間が、訪れようとしていた。
――夕暮れ。
鞍馬寺。
空は、朱に染まり。
山の影が、ゆっくりと長く伸びていく。
風が、止まる。
音が、消える。
その静寂の中――
一人の男が、座していた。
黒い法衣。
深く被った頭巾。
微動だにせず、座禅を組んでいる。
だが。
その場の空気は――
明らかに“歪んでいた”。
「……来たか」
低く。
静かに。
男が、呟く。
その背後。
気配が、現れる。
音もなく。
そこに立っていたのは――
田中新兵衛。
血の匂いを残したまま。
「いいところで逃げたな」
黒い法師が、わずかに口元を歪める。
「それで剣が泣かぬか?」
嘲るように。
だが、どこか愉しげに。
田中が、鼻で笑う。
「邪魔が入っただけだ」
肩を鳴らす。
「次はそうはいかねぇ」
目が、ぎらりと光る。
「沖田は、俺が斬る」
一歩、踏み出す。
「この時代でな――」
口元が歪む。
「逆に、追い詰めてやるよ」
不敵に、笑う。
その瞬間――
「……高杉晋作には手を出すな」
別の声。
低く。
抑えた声音。
振り向くまでもなく。
気配だけで分かる。
一人の男が、ゆっくりと歩いてくる。
浪人風の装い。
影の中から、姿を現す。
田中が、舌打ちする。
「……ちっ」
「過去の因縁ってやつか」
吐き捨てるように言う。
「好きにしろ」
黒い法師が、静かに口を開く。
場を、支配する声。
「その程度の情に縛られるなら、それまでよ」
一拍。
わずかに、首を傾ける。
「だが」
指先が、わずかに動く。
空気が、揺らぐ。
見えない“何か”が、応じる。
「奴らの足取りは――式に追わせている」
静かに。
確信をもって。
「逃げ場はない」
そして――
わずかに視線を田中へ向ける。
「貴様が望むなら」
低く。
ゆっくりと。
「沖田との一騎打ち――整えてやろう」
その言葉に。
田中の目が、わずかに細まる。
「……ほう」
興味を示す。
その直後。
男の口元が、歪む。
「ただし」
一拍。
「“場”はこちらで用意する」
指を組む。
印を結ぶ。
空気が、変わる。
重く、濁る。
「――謹みて招く」
低く、響く詠唱。
「鬼門を開き、鬼気を顕せ」
「血に飢えし者、我が呼び声に応じよ」
「来たれ――」
一瞬の静寂。
次の瞬間――
地面が、歪む。
黒い靄。
瘴気。
その中から――
巨大な影が、這い上がる。
「――星熊童子」
低く。
名を告げる。
現れたのは――
鬼。
異形の巨躯。
歪んだ角。
濁った眼。
ただ立つだけで、空気を圧する。
「酒呑童子の配下の一体よ」
男が、淡々と告げる。
「こいつを使え」
短く。
投げるように。
その言葉に。
田中が、にやりと笑う。
「……面白ぇ」
刀に手をかける。
「いい舞台だ」
目が、狂気に染まる。
「これなら――」
一歩、踏み出す。
「最後まで楽しめそうだ」
黒い法師は、静かに笑う。
名も名乗らず。
ただ――
すべてを見下ろす存在として。
「……ああ」
低く。
底の見えない声で。
「存分に、踊れ」
夕闇が、深くなる。
山が、完全に影に沈む。
鬼が、低く唸る。
人と鬼。
そして――“何か”。
すべてが揃う。
――夜が、始まる。
狩りの時間が、訪れようとしていた。
16話 完




