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八十九話 ピムリコの謎(美知子の妖怪捕物帳・漆拾壱)

「僕も未解決事件のことについて藤野さんの意見を聞きたいんだが、いいかな?」と谷口さんが言った。


「かまいませんよ」と俺が答えると、


「集めた資料を持って来るから、喫茶店で待っててくれ」と谷口さん。


「いつもの喫茶店でいいんだな?」と中山さんが確認し、俺は中山さんにつれられてテレビ関東の建物を出た。生田さんは興味ありそうな顔をしていたが、まだ仕事があるのでここで別れた。


局近くの喫茶店に入ると、奥の四人がけテーブルに着き、ホットコーヒーを注文した。その十分後くらいに谷口さんが鞄を抱えて入って来て、中山さんの隣に座った。


「実は、以前に世界の未解決事件という番組を作ろうと思って資料を集めていたんだ。その番組の企画は通らなかったけど、気になった事件についてこの際藤野さんに聞いてみたくなってね。いいかな?」


「かまいませんが、世界の未解決事件と言うと、古今東西の専門家が検討してわからなかったものですよね?さすがに私にわかるか自信ありませんが」


「まあ、いいから。とりあえず話を聞いてくれ」と谷口さんは言って、テーブルの上に鞄から取り出した資料を広げた。


「『ピムリコの謎』と呼ばれているんだが、これはロンドンのピムリコ地区で起きた不審死事件なんだ。一八八五年の大晦日の夜、トーマス・エドウィン・バートレットという四十二歳の男が自宅の寝室で就寝した。十歳年下の妻のアデレードも一緒のベッドで就寝した。ところが翌一八八六年の元日の早朝、アデレードは夫がベッド上で死んでいるのを発見した」


「睡眠中の突然死というわけですね?」


「最初は病死の可能性も考えられたそうなんだ。しかし妻のアデレードは、過去にトーマスの弟と浮気していたそうだし、トーマスの死亡前には牧師のダイソンと親密な関係になっていたそうだ。そこでトーマスの死体を解剖したところ、胃の中から大量のクロロホルムが検出されたそうだ」


「クロロホルム中毒で亡くなったのですか?」


「トーマスの体には死亡するような病気の所見はなく、けがもなかった。そのため解剖医はクロロホルム中毒が死因と断定した」


「なぜクロロホルムが使われたのでしょう?」


「当時のロンドンではクロロホルムは麻酔薬や鎮痛薬として使われていたようなんだ。トーマスはひどい歯痛に悩まされていて、歯科医で痛み止めとしてクロロホルムを処方されていたそうだ」


「じゃあ、歯が痛くて自分でクロロホルムを飲んだのでしょうか?」


「その可能性もなくはないが、前日にアデレードは浮気相手のダイソン牧師にクロロホルムを買うよう頼んでいた。ダイソンは数か所の薬局で少量ずつクロロホルムを買ってアデレードに渡していたことが判明したんだ。そのため、アデレードによる夫の毒殺が強く疑われた」


「浮気をするために邪魔な夫を殺したということですか?」


「そう。そして警察がその線で精力的に捜査したんだが、解けない謎がひとつあった。結局その謎が解けなかったので、殺人犯として起訴されたアデレードは証拠不十分として無罪が言い渡された」


「その謎とは何ですか?」


「クロロホルムの原液を口から飲み込むと、クロロホルムの作用で口の中や食道の粘膜が焼け爛れ、炎症を起こすはずなのに、トーマスの口の中や食道の粘膜にはそんな痕跡がまったくなかったんだ。胃の中にクロロホルムが貯まっていたのに、どうやって胃の中にクロロホルムを入れたのか、その方法がわからないんだ」


「自殺であれ他殺であれ事故であれ、胃の中にクロロホルムを飲み込んだのなら、必ず食道粘膜が爛れるはずなのですね。確かにとても不思議に思います」


「胃の中にクロロホルムを入れた方法が謎なので、この事件のことは『ピムリコの謎』と呼ばれるようになった。現在の法医学者にもその謎は解けないということだ」


「チューブを口から胃まで入れてその中にクロロホルムを流し込めば、口や食道の粘膜を爛れさせないで胃に入れることができますが?」


「寝ている男の口にチューブを入れてみろ。吐き気を催して飛び起きるはずだ」


「それもそうですね」


「な?不思議だろう?トーマスはどうやってクロロホルムを飲んだのだろう?あるいは飲まされたのだろう?」


「さすがにすぐには答えられませんが、一八八六年というと八十四年も前の事件ですよね。解剖の記録とか、当時のもう少し詳しい資料はありませんか?」


「昔のイギリスの新聞記事の写真がある。英文だから詳しくは読んでないが」と谷口さんは言って、鞄の中を探し出した。


それにしても解せないことがある。クロロホルムのような有機溶剤はガスクロマトグラフという分析機械で測定することが可能だと聞いたことがある。しかしその機械が発明されたのは約二十年前だ。十九世紀に胃の中のクロロホルムの量をどうやって調べたのだろう?


そのとき谷口さんが大判の写真を出してきた。新聞記事を写したもので、字が細かいが何とか読むことができた。


「え・・・と、ここに胃の中からクロロホルムが見つかったとの記述がありますね」


「読んで訳してくれないか?」


「はい。・・・『解剖によりトーマス・エドウィン・バートレットの胃の中に約一オンスのクロロホルムがあった』と書いてあります。一オンスってどのくらいの量でしょうか?」と俺は谷口さんに聞いた。


「念のため英和辞典と国語辞典を持って来た。これで調べてくれ」と言って辞典を差し出す谷口さん。


すぐに『ounce(オンス)』を調べてみると、二十八・三四グラムと書いてあった。


「一オンスは三十グラム弱ですね。・・・思ったより少ないです。コップ一杯の七分の一くらいです」と俺は言った。


「その量で中毒死しますか?」と聞く中山さん。


「クロロホルムの致死量ってわかりますか?」と俺は谷口さんに聞き返した。


「調べた限りだと、成人の平均致死量は約四十五グラムらしい」


「致死量の約半分が胃の中にあったのですね」


「もっと大量にあるのかと思っていた。その記事にはその理由について何か書いてないかい?」


「えっと、口や喉、気管にはまったく痕跡がなかったとしか書いてありませんね」


「ほかの記事も調べてくれ」と言われて別の写真に写っていた記事を読んでみた。


「こちらの記事には、当時の中毒学者、トーマス・スティーブンソンの言葉として、『検査したところ死者の胃内容には八ないし九滴分のクロロホルムが含まれていることが明らかになった』と書かれています。一滴の量は・・・」と俺は言いながら辞典をめくった。


「一滴は約〇・〇五グラムです。つまり中毒学者による検査では胃の中に〇・五グラム弱のクロロホルムしかなかったことになります。これって致死量の九十分の一ですよ」


「かなり少ないな。その記事にはその理由について何か書いてないかい?」


「えっと、『クロロホルムが拡散する早さを考慮に入れても、クロロホルムの致死量には到底及ばない』と書いてあります。つまり、胃粘膜から多少吸収されていたとしても、大量のクロロホルムがあったとは言えないってことですね」


胃の粘膜もクロロホルムで爛れたはずで、そんな粘膜からどれだけ吸収されるのか疑問である。


「致死量のクロロホルムを飲んだんじゃないってことか?」と谷口さんが聞いてきた。


「しかし、検屍をした医者はクロロホルム中毒が死因だと判定したんだろ?その記事が間違っているんじゃないか?」


「どっちが正しいのか、今の私にはわかりませんが、クロロホルムにはかなり強い臭気があるはずです。その臭気に惑わされて、大量のクロロホルムが胃の中にあると誤認したのではないでしょうか?」


「クロロホルムの蒸気を肺から吸収したのかもしれないぞ」


「そうかもしれませんね。肺から吸い込むと、直接血中に入っていきますから。ただ、この記事には、気管にも異常は認められなかったと書いてあります」


「クロロホルムを飲んだ量はともかく、なぜ口や食道の粘膜に炎症は起きなかったんだろう?数滴のクロロホルムでも、粘膜の上を流れれば、多少は痕跡が残るんじゃないのか?」


「クロロホルムは少量でもそのまま飲める代物じゃありませんから、おそらく水かワインにでも溶かして飲んだんじゃないでしょうか。クロロホルムは水にはあまり溶けませんが、ワインのアルコール分には溶けるかも」


「どのくらいのクロロホルムを飲んだのかわからないが、〇・五グラムから三十グラムくらいのクロロホルムなら、二百ミリリットルのワインに混ぜて一気に飲み込んだら、口や食道の粘膜を刺激しないで飲み干すことができるかもな」と谷口さん。


「クロロホルムを混ぜたワインなどを飲んだ後にさらにチェイサーとして水かワインを飲めば、粘膜の爛れはより起きにくかったでしょう」


「胃からアルコールが検出されたとは聞かないが?」


「クロロホルムの強い臭気で、アルコールの匂いがわからなかったのかもしれません。当時は精密に分析する機械はなかったでしょうから」


「胃の中身の性質や量、さらに詳しい分析結果がわかれば、真実にもっと近づけるだろうなあ」と谷口さんが残念そうに言った。


「今となっては薮の中だな」


「で、誰が犯人になりますか?」と中山さんが聞いてきた。


「当時、クロロホルムは麻酔薬や鎮痛薬、つまり薬と認識されていて、毒とは思われてなかったと思います。となると、誰がトーマスに飲ませても、殺意はなかったのではないでしょうか」


「つまり、歯痛をごまかすためトーマス自身がワインに混ぜたクロロホルムを飲んだのかもしれないし、妻のアデレードが痛み止めとして夫に飲ませたのかもしれない。同じ部屋で寝ていたんだから、アデレードが浮気していたとしても、夫に対する愛情はまだあったのだろう」と谷口さん。


「あるいは夫が歯痛で夜中にうなされて、アデレードも不眠気味になったので、うなされないよう、つまり歯の痛みを抑えるために、アデレードがクロロホルムを買い求めようとしたのかもしれません。実際に買ったのは頼まれたダイソン牧師だったのですが」と中山さんが言った。


「そう考えると、謎が謎ではなくなるな」


「今までの考察をまとめると、トーマスの歯痛を抑えるためにアデレードはクロロホルムを買い、致死量未満のクロロホルムをワインか何かに混ぜてトーマスに飲ませた、あるいはトーマス自身が飲んだ、ということになりますね」と俺は言った。


「しかしアデレードには殺人容疑がかかって、裁判になったんだろう?なぜ歯痛を抑える目的でワインに混ぜて飲ませたと証言しなかったのだろう?」と疑問を呈する谷口さん。


「裁判の時点では死因はクロロホルム中毒でした。そしてクロロホルムをどうやって飲ませたかが裁判の焦点になっていました。ワインに混ぜて飲んだと証言すれば、殺人の方法が明らかになったと思われて、アデレードは有罪になったことでしょう。だから、アデレードは事実を言えなかったんじゃないでしょうか?」と俺は言った。


「なるほど。・・・ところで、もし飲んだクロロホルムの量が致死量未満だったとしたら、トーマスの死因は何になるんだ?」と谷口さんが再び疑問を呈した。


「それは私にはわかりませんが、クロロホルムには少量でも麻酔作用があります。その結果、心機能が減弱して亡くなったのかもしれませんね。お医者さんじゃないので、これで正しいか、自信はありませんが」


「原因不明の突然死かもしれませんね。いわゆるポックリ病ですよ。ほんとうは病死だったのに、クロロホルムを飲んでいたために、死因がわからなくなったのでしょう」と中山さんがフォローしてくれた。


「これで『ピムリコの謎』も明らかになったということにしよう」と谷口さん。


「そして新しい番組制作会社の企画として、いつの日か『世界の未解決事件調査ファイル』という番組を作るよ。その際にはまたお世話になるかもしれない」


「ご健闘をお祈りします」とだけ言っておいた。


「ほかには藤野さんに聞きたい未解決事件はないのかい?」と中山さんが谷口さんに聞いた。


「いろいろあるけど、容疑者もわかっていない事件で犯人は誰かと聞いても、さすがに藤野さんにもわからないだろう」


「そうですね」


「例えば、一八八八年にロンドンで起こったジャック・ザ・リッパー、つまり切り裂きジャックの事件がある」


「有名な事件ですね」


「売春婦が何人も殺された未解決事件なんだが、一九六四、五年に同じような事件がこれもロンドンで起こった。売春婦が何人も殺害されて、しかも死体から衣服が剥ぎ取られていたという・・・」


「つい最近ですね」


「これをジャック・ザ・ストリッパー、剥ぎ取りジャック事件と呼ばれている」


「・・・あの、冗談ですよね?」


「いや、実際に起こった事件なんだ。冗談っぽく聞こえるけどね」と言って谷口さんはにやりと笑った。


「この事件も容疑者が何人も浮かび上がったけど、結局犯人は捕まっていない」


「切り裂きジャックはともかく、剥ぎ取りジャックは日本ではあまり知られてないと思いますから、『世界の未解決事件調査ファイル』のテレビ番組で取り上げたらきっと反響を呼びますよ」


「ふざけた番組だと誤解されるかもしれないですけどね」と中山さんが言った。


「とにかく、今回はありがとう。いろいろと参考になったよ」そう言って中山さんは謝礼金の入った封筒と領収書を出してきた。これも局の必要経費で落とすのかな?と俺は思いながら領収書に日付と名前を書いた。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

谷口篤郎たにぐちあつろう テレビ関東の演出部の社員。

中山大樹なかやまだいき テレビ関東の報道部の社員。

生田征夫いくたゆきお テレビ関東の大道具係。


参考文献


Michael Farrell/Adelaide Bartlett and the Pimlico mystery(British Medical Journal, Volume 309, 24–31, 1994)


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