八十八話 首吊り現場の不審者(美知子の妖怪捕物帳・漆拾)
今回のお話は平成二十五年に大阪府で起こった事件に想を得ていますが、事件とは無関係のフィクションであることを明記しておきます。
「もうひとつ、僕の相談に乗ってくれませんか?」と中山さんが言った。
「いいですよ」
「藤野さんは、新聞やテレビでしつこく報道されていた事件が、しばらくするとまったく報道されなくなり、あの事件はどうなったんだと思ったことはありませんか?」
「あります。なぜ事件の後日談というか、その後どうなったかの報道がされないことが多いのですか?」
「ひとつは、日々新しい事件が起こって、そちらの報道に紙面や放送時間が割かれ、報道する余裕がないからです。もうひとつ、わざわざ報道するほどの新しい情報が開示されていないという理由もあります。そのうち私たち報道する側も、個々の事件を忘れてしまい、報道する機会がなくなるのです」
「なるほど。そういう報道されなくなった事件の結末をまとめて紹介するというテレビ番組を作ってもおもしろそうですね」
「そうだな。いいアイデアをもらった」と谷口さんが言った。
「私たちもしばらくしてから思い出して、あの事件はどうなったんだ、続きを放送したいと思うことがありますが、警察に取材してもやっぱり目新しいことは教えてもらえません。そんな事件について、藤野さんのご意見を伺いたいのですが・・・」
「何か具体的な事件がありますか?」
「はい。ひとつは謎の人物が絡んだ不可解な首吊り事件です」中山さんはそう前置きをして、事件の詳しい情報を話し出した。
「発端はAさんという二十代前半の男性会社員にかかった電話です。当時Aさんはあるアパートの一室を借りていましたが、その当時はその部屋を出て別のアパートに転居していました。ただ、元のアパートは借りたままでした」
「住んでいないのにアパートの契約を続けていたのですか?」
「はい。実はそのアパートには、Aの母とAの姉夫婦が入居することになっていて、そのため解約してなかったのです」
「なるほど」
「Aは自宅に電話を引いておらず、転居先のアパートの大家さんの家の電話を緊急連絡先にしていました。そしてある日の夜十時頃に、大家さんのところに電話があり、Aを呼んでくれと頼まれたそうです」
「それで?」
「Aが電話に出ると、知らない男が『Aのアパートで人が死んでいる』と告げてすぐに電話を切ったそうです。突然の電話にAは困惑し、しばらく考えてから母親に電話して今のことを伝えました」
「母親も驚いたでしょうね?」
「そのようです。母親もどうしたらよいかわからず、同居していた娘、つまりAの姉に相談しました。姉も驚き、夫に電話の内容を話して、Aのアパートを見に行ってほしいと頼んだそうです」
「その時点では、誰も警察に通報しなかったのですね?」
「はい。いたずら電話の可能性もありますから、死体の存在を確認しないと通報できなかったのだと思います」
「その気持ちは理解できますね」
「頼まれた姉の夫は、死体があるというアパートにひとりで行くのを躊躇し、友人に一緒に行ってくれと頼みました。こうして姉の夫とその友人がAのアパートを見に行ったのですが、そのときは既に午前〇時頃になっていました」
「それでどうだったのですか?」
「夫と友人がそのアパートに行くと、窓から電灯の光が漏れていたそうです。そこで誰かいるのではないかと考え、ドアをノックすると、中からひとりの中年男性が出てきました。夫も友人も知らない人だったそうです」
「空き部屋に入り込んでいた浮浪者のような人でしたか?」
「いえ、身なりは普通の男性でした。この男性をBとします。Aの姉の夫はBに、『あなたは誰か?また、この部屋に死体があると聞いたが、ほんとうか?』と問い糺しました。するとBは質問には答えず、部屋の奥が見えるように体をずらしました。すると、入口側の台所と奥の部屋の間の鴨居にかけたロープで男性が首を吊っているのが見えました」
「『し、死んでいるのか?』と姉の夫がBに聞くと、『確かに死んどる。早く警察を呼んだらどうや』と答えました」
「関西弁で話したのですか?」
「はい。明らかな関西訛りがあったようです。Bの言葉を聞いて、姉の夫とその友人は急いでアパートから出て、近くの公衆電話から警察に通報しました。アパートの前で警察が来るのを待つこと約十分、駆けつけてきた警察官とともにアパートの部屋に戻ると、Bはいなくなっていました」
「警察に尋問されるのが嫌で、逃げ出したのでしょうか?」
「そうでしょうね。で、警察官は首を吊っている男性が本当に死んでいるのを確認すると、署に連絡をして応援の警察官や鑑識が来るのを待ちました。その間に姉の夫と友人は事情を聞かれましたが、今話したこと以外、何も知らなかったようです」
「遺書は室内にありましたか?」
「机の上に遺書のような内容を記したメモが残っていたそうです」
「そのメモには何が書かれていましたか?」
「将来を悲観したので自死する、といった内容が簡潔に書かれていました」
「それで、首を吊って死んでいた人が誰なのかわかったのですか?」
「姉の夫は最初は死体を見るのを嫌がりました。しかし警察に言われてしぶしぶその死体の顔を見ると、Aの母親の知人だということがわかりました」
「Aの母親の知り合い?どういう方ですか?」
「姉の夫は詳しく知らなかったので、Aの母親を呼び出しました。母親に警察官が尋ねたところ、死亡していた男性、この人のことをCと呼びますが、Cは確かに母親の知り合いでした。Cは中年男性で、窃盗の前科があったためまともな職にありつけず、日雇いの仕事をして糊口をしのいでいたようです。着ていた服も粗末なものでした」
「そんな人とAの母親は知り合いだったのですね?」
「母親は面倒な仕事があるときに、安い手間賃でCに仕事を頼んでいたとのことです」
「なぜ、CはAのアパートにいたのですか?」
「Aが新しいアパートに引っ越し、その後に母親たちが入居する予定だったので、仕事を探していたCに部屋の掃除をしてほしいと頼んで鍵を渡していました」
「なるほど。それならその部屋にいても不思議じゃありませんね。その部屋にいたもうひとりの中年男性、関西弁の訛りがあったBの身元はわかりましたか?」
「いいえ。Aの母親が掃除を頼んだのはCただひとりで、Bが誰なのか心当たりはなかったようです。もっとも母親はBの顔を見ていませんので、ひょっとしたら知り合いだったのかもしれませんが」
「BはCの友人か、仕事関係の人か、はたまた家族や親戚だったのでしょうか?」
「Cは定職に就かず、家族もいなかったようです。Cの交友関係は母親も知らないし、関西弁の男のことも聞いたことがないと言っていました」
「なるほど。Aに電話をかけてきた人物はBなのでしょうか?」
「その人物も誰かわかりません。Aによると、電話の相手は標準語で話していたので、B以外の人物かもしれません」
「そうですか。ところでCは自殺ということで間違いないのですか?」
「死体発見現場に不審者がいたので、事件の可能性があるため司法解剖が行われました。死因は定型的縊死、つまり典型的な首吊りで、他殺を示す痕跡はまったくなかったようです。また、死亡指定時刻は午後九時から十時の間で、Aへの電話の直前頃ということでした」
「その事件はどのように報道されていたのですか?」
「『人が住んでいないアパートの一室で謎の首吊り死体。現場にいた不審者は失踪』という内容で、他殺をほのめかすような報道が多かったように思います。その後、警察からは、『Cは自殺。Bの正体と行方は不明のまま』とだけ報告されて、新聞には小さな記事が載ったかもしれませんが、テレビでは特に報道されませんでした」
「謎の多そうな事件ですが、結局殺人事件ではないと結論づけて、警察は捜査を終了したのですね?」
「そうです。この事件について、藤野さんはどう思いますか?」と中山さんが聞いてきた。
「まず、死因は司法解剖で確認されたように、首吊りで間違いないでしょう。そして自殺か他殺かという点については、おそらく自殺だと思います」
「なぜですか?」
「法医学者と交際している友人から聞いた話ですが、他殺死体を首吊り自殺に偽装するのはかなり難しいということです」
「と言いますと?」
「首吊りは高いところに固定したロープのようなものを輪っか状にしたところに自分の首を入れ、体重をかけて首を絞めるのですが、重力で引かれるためロープなどによる首の圧迫痕は横から見ると斜めになっており、圧迫痕の一番低いところが皮膚に深く食い込んでおり、上に行くほど圧迫の程度が弱まっていくという特徴があるそうです」
「そうなのですね」
「典型的な首吊りの場合は首の神経の圧迫で反射的に死亡する、つまり即死することが多く、顔の皮膚は血の気がない状態だそうです。絞殺死体では頸部圧迫痕が水平方向で、顔の皮膚が極端に赤くなるので、絞殺死体を首吊り死体に偽装することはまずできません。他の死因による他殺死体でも、その死因の痕跡が残るので、首吊りではないとすぐにわかるようです」
「なるほど」
「また、首吊りを偽装するために、全身の力が抜けた他人の死体を持ち上げて、天井から吊るしたロープの輪っか状の部分に頭を通すのは、かなりの重労働です。犯人が力の強い男性でもスムーズにはいかず、そこかしこに不自然な痕跡が残るので、警察や法医学者をだますことはできません」
「初めから首にロープをかけておいて、天井の梁に通したロープを引っ張って、体を持ち上げる方法はどうでしょうか?この方法だとCが生きていても死んでいても首を吊らせることが可能です。力は要りますが、ロープを引っ張るだけなのですから」
「その場合は、体重がかかったロープを引っ張った際に、梁との摩擦でこすった跡がロープ上に残ります。だからロープを調べればすぐにばれてしまいます」
「なるほど。生きている自殺志願者が自らの意思で首を吊らないと、いろいろなところに変な痕跡が残って、警察に丸わかりというわけですね?」
「はい」
「BがCに首を吊れと脅して、無理矢理首を吊らせるのはどうかな?」と谷口さんが口をはさんだ。
「その場合は普通の首吊り自殺と識別が難しいでしょうね」と俺は答えた。専門家には別の意見があるかもしれないが、俺には思いつかなかった。
「ただ、BがCの首吊りに深く関与したのなら、現場に留まらずさっさと逃げ出したことでしょう。この事件ではAを呼び出すような電話があり、誰かが来るまでBが待っていたということですから、BがCに首吊りを強要した可能性は低いと思います」
「Cの持ち物をBが探っていたために逃げるのが遅れて、姉の夫たちと鉢合わせしたのかもしれないぞ」と生田さんも言った。
「その部屋には誰も住んでいなかったのですから、Cの持ち物が部屋のどこかに置いてあった可能性は低いでしょうね。Cが何か重要なものを身につけていたとしたら、Bは首を吊らせる前にCを脅して所持品を調べたはずです。このように、Bが現場の部屋に留まる理由がありません」
「じゃあ、Bはなぜその部屋にいたのでしょうか?それにAに電話をかけてきたのは誰でしょうか?」
「Aに電話をかけてきたのが誰かわかりませんが、Bと同一人物なのかもしれません。Bは関西弁、電話をかけてきた人物は標準語だったということですが、関西出身の人でも東京で職に就くと、仕事の電話は標準語で話すようになることが多いです」
「なるほど。訛りだけで別人とは決めつけられないということですね」
「そしてBが現場の部屋に留まっていた理由については、あくまで想像ですが、BはCの古い友人で、それもたったひとり残った友人なのかもしれません。そして再会したときに、将来に希望を持てなくなったCは、Bに自殺することを告げます。Bは思いとどまるよう説得しましたが、Cの意思は堅く、Bは最終的に折れてCの死を見届けることにしたのです」
「なぜそこまでしたのでしょう?それにAに電話をかけたのがBだとしたら、なぜ電話をかけたのでしょうか?」
「BにとってCは恩人のような人だったのかも。そしてCの遺体が誰にも看取られずに放置され、朽ちていくのに耐えられず、死後すぐに見つけてもらうためにAに電話をかけたのではないでしょうか。Aの連絡先は、Cが母親から教えられていて、死ぬ前にBに教えたのでしょう」
「そこまでしたのなら、警察が来るのを待って、事情を説明すれば良かったものを」と谷口さんが言った。
「Bも脛に傷を持つ身で、警察とは関わり合いたくなかったのかもしれませんね」
「藤野さんが言ったように考えると、この事件は特に疑問点のないただの自殺で間違いなさそうですね。ただ、AとAの家族にはいい迷惑だったのでしょうが」
「まったくその通りだな」と生野さん。
「特にAの家族でも何でもない、姉の夫の友人にとっては死体を見せられたことが衝撃で、未だに悪夢にうなされているのかもしれないぞ」
「転居する予定だったAの母親たちも、そんな部屋には住みたくなくなっただろう。そのアパートの大家も、その部屋を穢されたことで、次の居住者を見つけるのに苦労することだろう」と谷口さんも言った。
「Aは賠償金を請求されるかもしれませんね。Cもどうせ死ぬのなら、公園などの戸外か、自分の家で死ねばいいものを」と中山さんも言った。
「外では死にたくなかったのでしょう。そしてCが住んでいたところは、ゴミが貯まって汚れていて、そこでも死にたくはなかったのかもしれません。Aの母親に掃除を頼まれたのをいいことに、Aの部屋を死に場所に選んだのでしょうね」
「納得のいく説明、ありがとうございました」と中山さんは感謝してくれた。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
中山大樹 テレビ関東の報道部の社員。
谷口篤郎 テレビ関東の演出部の社員。
生田征夫 テレビ関東の大道具係。




