八十話 (番外編)離島野鎌殺人事件(一色千代子の事件簿三十九)
その頃、警視庁の島本刑事が明応大学医学部の法医学教室を訪れ、私、一色千代子と立花先生に相談を持ちかけてきた。
「いつものことで悪いけど、また事件の相談に乗ってくれないか?」と島本刑事。
「どんな事件でしょうか?」と私は好奇心丸出しで聞いた。
「ある県の海岸に水死体が漂着したんだ。既に全身が腐敗して膨張し、顔で身元を判別することはできなかった。司法解剖の結果、死因は溺死ということになったけど、背中に刺し傷があったんだ」そう言って島本刑事は水死体の写真を出してきた。
さすがに私は見る勇気はなかったが、法医学者の立花先生が写真をつぶさに観察し、「細身の包丁かナイフで刺された傷だね。位置的には肩甲骨に当たるけど、肺や血管を傷つけていたのかな?」と言った。
「司法解剖の結果では肩甲骨に当たっただけで、臓器や血管までは傷害していなかった。死因は溺死で間違いなさそうだけど、誰かに刺されたのは確かなので、何かの事件の被害者ではないかと身元を捜索したんだ」
「どこの誰かわかったのですか?」
「ああ。隣の県に住んでいた会社員の八田伸夫という男だとわかった」
「失踪の届け出が警察に出されていたのかい?」と立花先生。
「いや、ある殺人事件の被疑者として全国に指名手配されていたんだ。顔は判別できなかったけど、歯型で本人と確認された」
「殺人事件!?」と私と立花先生が同時に叫んだ。
「ああ。会社の同僚五人と離島にある別荘に泊まりがけで釣りに行っていたんだが、その別荘で四人が殺害されていた。他のひとりは事件の前日に崖から落ちて足を骨折しており、殺人行為などできない状態だった。八田だけが別荘からいなくなっており、殺人の犯人で、島から脱出する際に溺れ死んだんじゃないかと県警は考えていたんだ」
私は島本刑事からその離島の詳細を聞いた。周りを崖に囲まれた島で、島にはその別荘しかなく、普段は無人島ということだった。島の周囲の強い海流のせいで、小型のボートや泳ぎで陸に行くことは困難だそうだ。
「その別荘にいて、犯行が唯一可能だったのが八田という人だったのですね?そして県警が考えたように溺れ死んでいたわけですが、背中を刺されていたのが不可解なのですね?」
「そうなんだよ、一色さん。八田の背中を刺した凶器はその形状と大きさから、四人を刺した柳刃包丁と同じものではないかと考えられた。しかしその包丁は四人目の犠牲者の背中に刺さったままだった」
「つまり、八田という人が刺された後に四人目の被害者が同じ凶器で刺されたということですか?」
「そうなんだ。四人目の被害者は別荘の自分の寝室で殺されていた。そしてその部屋を含めた別荘のどこにも八田の血痕は見つかっていないんだ」
「八田の血痕は容易に識別できるのですか?」
「ほかの五人は血液型がA型かB型だった。一方、八田の血液型はO型だった。八田の自宅で見つかった献血手帳に記載されていた血液型もO型だったので間違いない」
「ということは、八田は背中を刺された後、別荘に戻ることはなく、おそらく海に落ちて溺死したということですか?」
「そういうことになるね」
「だとしたら四人目の被害者を刺したのは八田ではないということですね?」
「そう。この事件を担当した刑事たちは、誰が真犯人なのかわからず頭を抱えているんだ。そこで俺に相談が来たんだ」島本刑事は名刑事との噂が全国に広まっていて、しばしば他県の刑事たちが内々で島本刑事に相談を持ちかけていた。
「四人の死亡した状況を教えてくれないか?」と立花先生が島本刑事に頼んだ。
「ひとり目は別荘の持ち主である藤田圭介。血液型はA型。ベッドの中で胸を刺されて死亡していた。心臓を貫通していたが、凶器は室内になく、傷の形状と大きさから同じ柳刃包丁による刺創と考えられた。二人目は鎌田 明、A型。ベッドの掛け布団の上にうつぶせで倒れていた。背中を刺され、心臓を貫通していた。凶器は室内になかったが、同じ凶器による刺創と考えられた。三人目は久我健夫、B型。ベッドで寝ている状態で首を刺され、頸動脈から失血して死亡していた。凶器は同じ包丁と考えられたが、室内にはなかった。そして四人目が島原和彦、A型。鎌田と同じようにベッドの掛け布団の上にうつぶせで倒れており、背中に柳刃包丁が刺さったままだった。死因は右肺貫通による失血死だ。ちなみに包丁からは指紋は検出されなかった」
「四人の部屋にO型の血痕はなかったのですね?」と私は確認した。
「その通り。背中を刺された八田が彼らの部屋を出入りした痕跡はない」
「となると、犯人はまず別荘の外の崖の上で八田を柳刃包丁で刺して海に落とし、別荘に戻って四人を次々と刺していったということでしょうか?」
「その場合、犯人は唯一死亡していない舟木三郎、B型という男になるが、舟木は事件の前日に崖から落ちて足を骨折していて、藤田が翌日迎えに来るようにと漁船を持っている漁師に連絡しているんだ。骨折はけっこう重傷で、歩くのがままならない状態だった。五人にこっそり近づいて凶器を刺せたかどうか、疑問視されている」
「舟木という人が骨折だと偽って、藤田に無線連絡してもらった後でひとりずつ殺害していき、最後に自分で自分の足を骨折させたという可能性は考えられますか?」と私は立花先生に聞いた。
「どうだろう?骨折すればその部位が腫れたり、皮下出血が生じて皮膚が赤紫色に変色したりする。同僚に医者はいないだろうから、『痛い、痛い。骨が折れた』と嘘をつけば信じてもらえるかもしれないけど、その後自分で自分の足に骨折させるのは難しいかも。・・・島本刑事。舟木の足の骨折はどんなものだった?」
「事件後、病院で診断されたのは右踵骨と右脛骨下端の骨折だよ。踵で体重を支えることは困難だから、杖か誰かの助けを得ないと、うまく歩けない状態だそうだ」と島本刑事が答えた。
「自分で自分の足を骨折させるって、口で言うのは簡単だけど、調節が難しいだろうね。足の骨折で死んでしまうこともあるから」
「骨折だけで人は死亡するのですか?」
「踵の骨だけならその可能性は低いけど、大腿骨を骨折したら出血が多くて失血死する危険があるし、肺脂肪塞栓症が起きる危険もある」
「肺脂肪塞栓症?」と私は聞き返した。
「骨髄の中にある脂肪分が静脈血液中に入ると、右心を介して肺動脈に入り、肺の毛細血管を脂肪滴が詰まらせてしまう。この詰まりが肺の全域で起こると肺血流が止まり、肺に水が貯まって肺水腫という病態を起こす。・・・実際に貯まるのはただの水じゃなく、血管から漏れ出た血漿成分だけどね。・・・そして呼吸ができなくなって死亡する危険があるんだ」
「ということは、舟木という人が足を骨折させようとわざと高所から飛び降りた場合、骨折の程度を見誤って死んでしまうこともある、危険な賭けになるわけですね?」
「そう。足だけでなく頭などを打撲して死亡することもあるだろうね。かと言って低いところから飛び降りたら、骨折しない可能性が高い」
「小説のような虚構の中ならともかく、現実では難しいのですね」
「舟木が犯人でないとしたら、誰が真犯人なんだい?」としびれを切らした島本刑事が聞いてきた。
「藤田、鎌田、久我は三人ともほぼ即死で、しかも死んだ後に凶器が持ち去られている。彼らは明らかに誰かに刺殺されたのだろうね」
「となると、残ったのは島原か。・・・島原も鎌田と同じように背中から刺されて死んでいるが?」
「凶器の柳刃包丁を横向きにしてどこかに固定し、背中から近づいてわざと刺されれば、あたかも他人に刺されたように偽装できるかもしれませんね」と私は言った。
「島原の寝室の写真も預かっている。・・・本棚があって、一番上の棚には本と本の間に一か所だけ隙間がある。ここに柳刃包丁の柄を差し込んで、自分で刺したのか?」
「そうかもしれません」
「そうだとすると他殺を装った自殺なんだろうか?」
「そうかも知れませんし、さっきの骨折の話と同様に、死なない程度の傷を作ろうとして、誤って致命傷を負ったのかもしれませんね」
「包丁が肺に貫通して失血死しているから、死亡するまでに多少の時間があったことだろう。背中に包丁を刺したままベッドに身を投げることぐらいならできそうだ」
「整理すると、島原は別荘の外の、おそらくは崖の上で八田の背中を柳刃包丁で刺し、崖から突き落とした。そして別荘に戻り、藤田、鎌田、久我を順不同で刺していった。最後に自分も刺されたふりをして、本当に死んでしまった、ということか。そのように考えられると刑事には返事を出しておくよ」と島本刑事は言った。
「次は殺人の動機だな。島原はなぜ五人を殺害しようとしたのだろう?そして舟木を殺さなかったのはなぜだろう?」
「事件前の彼らの関係や個人的なことについて、何か情報がありますか?」
「舟木を除いた五人は数年前から同じ会社の同じ部署で働いていて、公私ともにつき合いがある。舟木は数か月前に別の部署から異動してきて、五人と仲良くなったようだ。会社の中では彼らの間で諍いが起こった事実はないらしい。ただ、半年ほど前に八田の妹が轢き逃げで亡くなっており、八田はずっと悲しんでいたらしい。そして舟木を除いた四人はしょっちゅう八田を慰めていたという話だ」
「轢き逃げの犯人は捕まったのですか?」
「まだ捕まっていない」
「轢き逃げ犯はどうやって見つけるのですか?」
「現場の路上に残ったタイヤ痕を調べ、車の破損した部品の破片や塗装膜などがあれば回収して車種を絞っていく。さらに車の修理工場を回って、人身事故を起こしたような車がないか探していくんだが、今のところ該当の車は見つかってないようだ」
「車が見つかればその所有者を調べて、事件当時誰が運転していたか特定していくのですね?」
「そういうこと」
「同じ車種の車を総当たりで調べていくということはしないのですか?」
「大衆車だったら県内に何千台もあるだろうから、よほどの大事件でもない限りそこまで捜査しないだろうね。県外の車の可能性もあるから、調べきれないだろう」
「別荘で死んでいた四人が轢き逃げの犯人だったとしたら、八田が妹の復讐で四人を殺していったというストーリーが考えられるけど、八田が殺されていることからその線はないだろうな」と立花先生が言った。
「亡くなった妹さんとつき合っていた人はいなかったのですか?」
「交通課ではそこまで調べていないからわからない」と島本刑事。
「島原が妹の恋人だったと言いたいのかな?」と立花先生が聞いてきた。
「しかし兄である八田も殺されているということは、八田も轢き逃げ犯のひとりということになる。妹を誤って轢いたとして、そのまま逃げるか?」
「交通事故が夜に起こったんじゃないですか?」
「ええと・・・そうだな。夜十時頃に信号のない十字路で交通事故に遭っている」と島本刑事が預かっている資料を調べて言った。
「八田、藤田、鎌田、久我が乗っている車が妹さんを撥ねたとします。暗かったので八田は妹だと気づかず、そのまま逃げました。ところが翌朝になって轢き逃げされたのが妹だったことを知ります。八田は嘆き悲しみ、自らの罪の重さに苦しんだことでしょう。他の同僚は、八田を慰めながら、『お前も共犯だから、轢き逃げしたことは誰にも言うな』と釘を刺していたのかもしれません」
「そのことを妹の恋人だった島原が知って、四人に復習したということか?」
「普段から仲のいい五人だったとしたら、島原もその車に乗っていたのかもしれませんね」
「だとしたら、島原も自分で自分を責めたことだろう。あのとき逃げずに、救急車を呼んでいたら妹が助かったかもしれないのに、と」と立花先生が言った。
「その場合、島原が自分で自分の背中を刺したのは、被害者を装うつもりだったのではなく、自分で自分を罰した、つまり自殺した可能性もあるな」と島本刑事。
「そうですね。この五人の誰かの車が交通事故を起こした車で、まだ修理に出していなければその痕跡が残っているはずです」
「わかった。相談を持ちかけてきた刑事にこれらのことを回答しておこう。・・・それにしても舟木はとんだとばっちりだったな。足を骨折した上に、同僚たちは全員死んでしまって、一時は殺人犯の容疑をかけられたんだからな」
「骨折していなかったら、そのまま殺人犯にされていたのかもしれませんね」
「そうだな。さらに八田の死体が見つかるのが早かったら、ひとりだけ生き残っていた舟木に弁明の余地はなかっただろう」
それを聞いて私は考え込んでしまった。
「何か引っかかる点があるのかい?」と立花先生が私に聞いた。
「島原が自殺するつもりだったら、凶器の柳刃包丁の指紋を消す必要はありません。島原はなぜ指紋を消したのでしょう?」
「自分が殺人犯だということを死後も隠したかったんじゃないか?遺族に迷惑がかかるから」
「そうなると、犯人は海に落ちた八田か、生き残った舟木と警察は考えるでしょう。八田の死体が見つかったら、犯人は舟木で、足の骨折も自作自演だったと決めつけるかもしれません。島原は、知り合って日が浅い舟木に殺人犯の汚名を着せても、良心の呵責はなかったのでしょうか?」
「自分も死ぬつもりだったから、そこまで考えが及ばなかったのかもしれないぞ」と島本刑事。
「あるいは、舟木に殺人犯の汚名を着せて、苦しませるつもりだったとか・・・」
「それはどういうことだい!?」と立花先生と島本刑事が聞き返した。
「八田の妹さんの交通事故は信号のない暗い十字路で起こりました。運転手からは妹さんを視認しにくかったと思いますが、妹さんはライトを光らせながら近づいて来る車には気づいていたはず。それなのに妹さんは十字路を渡ろうとして車に撥ねられています。なぜでしょう?」
「・・・なぜなんだ?」
「夜道で誰かに襲われていて、走って逃げていたとしたら?十字路で立ち止まって、車が通過するのを待てなかったのではないでしょうか?」
「誰かって誰だ?・・・まさか舟木か!?」
「島原は妹さんの後から追いかけてきた舟木の顔を、・・・車のライトで照らされたその顔を、一瞬でも見て記憶に残っていたのかもしれません。そして恋人である妹さんが死んでまもなく、舟木が同じ部署に異動してきた。島原は舟木が妹さんを追いかけてきた男の顔とそっくりだと思ったのですが、さすがに一瞬見ただけなので確信は持てなかった。そこで舟木は殺さず、そのかわりに殺人の容疑がかかるようにしたのです。・・・舟木の骨折は想定外だったのでしょうが」
「女性が襲われた事件があったのなら、舟木が犯人かもしれないと、つけ加えておこう」と島本刑事は言った。
登場人物
島本長治 警視庁の刑事。
一色千代子 明応大学文学部二年生。
立花一樹 明応大学医学部法医学教室の医師、法医学者。
八田伸夫 水死体として見つかった会社員。
藤田圭介 八田伸夫の同僚。
鎌田 明 八田伸夫の同僚。
久我健夫 八田伸夫の同僚。
島原和彦 八田伸夫の同僚。
舟木三郎 八田伸夫の元同僚。現在は人材派遣会社にいる。




