七十五話 蟒蛇(美知子の妖怪捕物帳・陸拾壱)
「実は・・・」と萩野さんが話し始めた。
「私の店の近所にAさんご夫婦という五十代くらいのお得意様がいて、毎月ハイネケンのビールを一ケースずつ買っていただいています」
「ハイネケンというとオランダのビールですね?」と俺は聞き返した。
「そうです」
「一ケースというと何本になりますか?」
「二十五本です」
「毎日一本ずつ飲まれるとだいたい一か月分ですね?」
「そういうことになります。奥さんはお酒は嗜まれず、ご主人がほぼ毎晩晩酌されているようです」
「なるほど。・・・それで何か不思議に思われることがあったのですね?」
「そうです。今までは今言ったように毎月一ケースずつビールを買っていただいて配達していて、今年の三月にも最初の金曜日に同じハイネケンのビールを一ケース注文されたのです。それ自体はおかしいことはありませんが、翌週の金曜日に追加の注文をいただきました」
「もう一ケース追加されたのですか?」
「いえ、そのときは二ケース注文されました。先週注文されたビールは空瓶をケースごと返していただきました。そしてその翌週の金曜日も、翌々週の金曜日も二ケースずつ注文をいただき、空瓶を二ケースずつ回収しています」
「と言うと、今までは月一ケースの注文だったのが、三月だけは七ケースも注文され、きれいに飲まれていたということですね。Aさんが急に蟒蛇、つまり大酒飲みになったとは考えられないので、客人を招いて、毎週宴会を開かれたのでは?」
「私も最初に二ケース頼まれたときはそう思いました。ただ、失礼な言い方になりますが、Aさんのお宅はそれほど広くない一軒家で、そんなに大勢集まって宴会を開けるのかな、と少しだけ不思議に思いました」
「えっと、まず確認させてください。配達したハイネケンのビールとは瓶入りのビールですね?大瓶ですか?」
「ハイネケンの瓶ビールの容量は三百三十ミリリットルで、国産ビールの大瓶の半分ほどの量です」
「大瓶の容量は?」
「六百三十三ミリリットルです」
「なるほど、確かに約半分ですね」
「瓶入りコーラのように、戸外でも手に持った瓶から直接飲むことができるサイズで、それを粋に感じられるお客さまも多いです」
「そうですね。ちょっとかっこいいですね」と俺は言った。
「ビール好きな人なら一度に大瓶を二、三本は飲まれるでしょうか?・・・もっと飲める人もいそうですね。ハイネケンのビールならひとり五、六本は飲めると仮定して、二ケース、五十本なら十人くらいは人を招く必要がありますね。・・・Aさんに人を招いて宴会でも開かれているのかと、直接お尋ねになられたことはありますか?」
「Aさんには『たくさん注文していただきありがとうございます。お集りでもありましたか?』とさりげなく聞いてみましたが、言葉を濁されるだけで、はっきりしたお話は聞けませんでした。すぐ近所に住まわれている別のお客様のお宅にお酒を配達した際に、『Aさんのお宅で何か集まりがありましたか?』と聞きましたが、特にそんな様子はないとのことでした。さすがにそれ以上調べるのは失礼と思って、以降は誰にも何も聞いておりません」
「まあ、買ったビールをどのように消費するかは客が決めることですから、追求するのは難しいでしょうね」
「ご自宅以外の場所で、・・・例えば公民館で飲み会を催されるのであれば、私に言ってもらえれば直接その場所へ運び入れます。初老のAさん夫婦がビールケースを持って移動されるのは大変だと思います」と萩野さん。
「そうですね。初回はともかく、宴会を繰り返されたのであったら、開催場所に持って来るよう萩野さんに言えばすむことですからね」
「ただ、四月以降は以前と同じように月一ケースの購入に戻りました」
「三月だけ、特別な事情があったということでしょうか?」
「そうかもしれませんが、不思議に思うことはAさんが三月にだけたくさん購入されたことばかりではないのです」
「と言いますと?」
「当店では配達したお酒の代金は月末にまとめて払ってもらっているのですが、七ケース分、つまり百七十五本のビール代一万七千五百円を小銭で支払われたのです」
「小銭ですか?」
「はい、百円玉、五十円玉、十円玉が主で、五百円玉も多少含まれていました。しかしお札はほとんどなく、Aさんは『申し訳ないが』と断りつつも小銭をたくさん出されてきたのです」
「計算が大変だったのでしょうね?」
「ええ。Aさん宅の台所のテーブル上に小銭を一枚ずつ並べて数えましたので、手間がかかりました」
「小銭で支払う場合は、最大枚数が決められていたと思いますが?」
「はい。臨時通貨法という法律により、五百円玉では一万円まで、百円玉では二千円まで、五十円玉では千円まで、十円玉では二百円までと、それぞれ二十枚までの支払いは拒否できませんが、それより多い小銭での支払いは拒否できることになっています(作者註:現在では昭和六十二年に制定された『通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律』に同様の条文がある)」
「それでお札で払うよう言われたのですか?」
「いいえ、お得意様ですからそんなことは言わずにすべて小銭で受け取りました」
「小銭で一万七千五百円分ですか。・・・払う方も事前に数えておかなければならないのに、なぜそんな面倒なことをされたのでしょう?」
「財布に小銭が多すぎると使いにくいので、貯まっていた小銭を使い切ろうとしたのではないでしょうか?」
「でも、普通の買い物なら、適宜小銭を混ぜて支払いますから、そんなにたくさんの小銭が貯まるわけではないと思いますが・・・。昔から小銭を集められていたのでしょうか?」
「小銭を集めていたとしても、子どもではありませんから、百円玉だけを集めるとか、後で数えやすい集め方をすると思いますが・・・」
「・・・ハイネケンのビール百七十五本で一万七千五百円でしたよね?ビール一本百円ですか?」
「うちではその値段で販売しています」
「国産ビールの値段はわかりますか?」
「大瓶で百四十円です」
「なるほど。量が約半分だから、確かに国産ビールより少し高いですね」と俺は言って、あることに思い当たった。
「Aさんは三月に買った大量のビールをほかの人に転売したのではないでしょうか?一本百円のまま売られたのか、利益を追加して売られたのかまではわかりませんが、何人もの人に百円前後で売られたのだとしたら小銭をたくさん受け取ります。全員が百円玉で支払ったとは限らず、五十円玉や十円玉混じりで払われたこともあったでしょう。五百円玉で払って、お釣りを受け取った人もいたでしょうね。そして貯まった小銭は、そのまま持っていても嵩張るだけなので、萩野さんへの支払いに全部使われたのではないでしょうか?」
「お酒を販売するには酒類販売業免許が必要です」と萩野さん。
そう言えばコンビニの展開の相談を受けたときも、どの店舗でもお酒を売ることができるわけではないと聞いたな(四十八話参照)。
「もちろん仲間内で融通しあうだけなら、利益を取らなければ問題ありませんが」
その話を聞いて俺はしばらく考え込んでから口を開いた。
「・・・ある程度の状況がわかってきました」
「もうわかったのですか?」驚く萩野さん。
「この謎の要点は三つです。三月にのみたくさん買われたこと、自宅以外の宴会場所に直接運ぶよう頼まれなかったこと、そして小銭で代金を支払われたことです」
「ええ。それから何がわかったのですか?」
「まず、三月は年度末です。Aさんが所属する何らかの組織・・・組織と言ってもたいそうなものではなく、職場とか自治会とかのそれほど多人数ではない人の集まりを想定していますが、年度末だから皆で宴会をしようという話が出たのではないでしょうか?」
「年度末の宴会?」
「はい。誰かが異動するとか、役職者が替わるとか、あるいは年度内に消費しなければならない予算が余ったとか、いろいろな理由が考えられます」
「そういうことはあるかもしれませんが・・・」
「そしてある場所で宴会を開くことが決まったとします。当然お酒や料理の手配が必要となります」
「そうですが、飲食店などで開かれる場合はお酒の持ち込みはおそらく認められません」
「そうですね。ですから誰かのお宅・・・参加者全員が入れるような広間があるお宅とか、公民館の部屋を借りるとか、飲食はできるけれど飲食店ではないところが開催場所に選ばれたのでしょう」
「それはあり得ることですね」
「その準備として料理とお酒の手配が必要になります。お酒は当初、日本酒や国産ビールを想定されていたと思います。ところが参加者たちとAさんが話し合いをしているうちに、Aさんが自宅ではハイネケンのビールを飲んでいると話してしまったのかもしれません」
「Aさんはハイネケンのビールを好まれていますから、そういう話が出てきてもおかしくないでしょうね」
「そうなるとほかの人たちは日本のビールと味が違うのか、と興味を示したことでしょう。そして話が進むうちに、Aさんの家で購入したハイネケンのビールをケースごと持ち込むことになったのです」
「三月の初めにAさんが買ったビール一ケースを、Aさんか誰かが宴会場に運んだということですか」
「そうですね。ただ、ハイネケンのビールはAさんが個人で買ったものですから、ただで提供するわけにはいきません。かと言って宴会の予算で購入するとAさんが販売した形になってしまいます。そこで飲みたい人が元の百円のままでAさんから譲ってもらうことにしたのです」
「それなら販売したのとは少し違いますから、問題ないでしょう」
「その宴会で、小型の瓶でぐい飲みするハイネケンのビールのかっこよさが参加者に受けて、翌週も、その翌週も宴会を開いて、Aさんにハイネケンのビールを買って来るよう頼まれたのでしょう」
「翌週から二ケースになったのは、もっと飲みたいと参加者が言ったからでしょうか?」
「そうでしょうね」
「でも、それでもさっき言った疑問は解消されません。別宅か公民館のようなところでハイネケンのビールを飲むのなら、その場所へ直接運ぶよう私に言えばいいじゃないですか?」
「もし、その場所に出入りの酒屋さんがあったら?」と俺が言うと萩野さんははっとした顔になった。
「日本酒や国産のビールをいつも買い付けている出入りの酒屋さんがいて、それとは別の店、つまり萩野さんのお店からビールを購入することをその酒屋さんが知ったら?・・・別に禁止されているわけではないでしょうが、ちょっと気まずくなるかもしれません」
「気にする人は気にするかもしれませんね」
「そこでAさんが購入したハイネケンのビールを自分たちで会場に搬入することにしたのでしょう」
「なるほど。・・・そして、その宴会は三月いっぱいで終わったのですね?」
「はい。送別会などが終わった、あるいは予算が尽きたということで三月だけで終わったのでしょう。ハイネケンのビールに興味を示した参加者も、国産ビールよりやや高いので、それ以降は飲もうと思わなくなったのです」
「なるほど。一応の説明がつきますね」
「別の可能性としては、知人たちにハイネケンのビールを転売して多少の利益を得ていたのが、値段で敬遠されたのと、酒類の販売は違法行為であると誰かに指摘されて、一月と経たないうちにやめたのかもしれません」
「Aさんはそんなことをしそうな人には見えないので、その可能性は低いと思いますよ」と萩野さんが言った。
「それにしても、日常のささやかな謎も、理路整然と考えていけばそれらしい正解にたどり着けるものなんですね。藤野さんの推理には感心しました」
「筋が通っているように見えても、真実とは異なるのかもしれません」と俺は言い訳をしておいた。
「泰子さんが言ったように、なかなか頭が回る女性ですね」と泰子さんに言う萩野さん。
「そうでしょう、そうでしょう」となぜか得意げな泰子さん。
「萩野さんはまだほかにも藤野さんに相談されたいことがあるのでしょう?」
「ええ。もうひとつの謎は、今話したような日常のちょっとした謎ではなく、もっと奇怪な経験なのです」
「奇怪?」
「はい。実は昔、近所に住んでいた子どもが突然消えたことがあったのですが、その親も、近所の人も、誰もまったく気にしなかったことがあったのです。まるでその子どもが最初からいなかったかのように・・・」
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
萩野武蔵 萩野洋酒販売の社長。
山本泰子 清住酒造の事務員。萩野武蔵の親戚。
註)蟒蛇とは大蛇という意味で、大蛇が獲物を丸呑みにする様子や、八岐大蛇が大酒を飲まされて退治されたという神話から、大酒飲みや酒豪を指す言葉として使われるようになった。




