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七十四話 ビールについての相談

その日、短大の講義を終えて夕食の食材を買いに行くために大学の正門を出たら、二人の中年男女が待っていた。


女性の方は先日清住酒造で会った泰子やすこさんだった。泰子やすこさんは俺のところに駆け寄って来て、


「藤野さん!」と声をかけてきた。


「どうしたのですか?」と聞くと、


「事務室で講義がもう少しで終わると聞いて、あなたを待っていたの。相談に乗ってほしいことがあって。・・・あ、こちらは私の嫁ぎ先の親戚の萩野さんよ」と連れの男性を紹介された。その男性は大きな鞄を持っていた。


「突然ですみませんが、聞いてほしい話があります。短時間で済みますので、近くの喫茶店にでも入って話を聞いてもらえませんか?」と萩野さんが言った。


「一時間以内で終わるようでしたら」と俺は答え、近くの喫茶店に入ってボックス席に座った。


「私は萩野洋酒販売という輸入会社を経営していまして、欧米からワイン、ウヰスキー、ブランデー、そしてビールを輸入して販売しています」


日本酒の酒蔵出身の泰子やすこさんは、酒造会社に嫁いだわけではなかったが、その親戚にお酒を扱う人がいたのか、と考えながら話を聞いた。


「最近は国産ビールの販売が増えて、そのおかげで輸入ビールの売り上げも上がっていますが、それでも輸入ビールは高級品扱いなので、それほど多く売れているわけではありません」


「そうですか・・・」


「そこで我が社でも大々的に国産ビールを造って売り出そうと考えていますが、藤野さんのご意見を伺いたくて参上しました」


「はあ。・・・日本酒に関しては、全国にいろいろな規模の造り酒屋があって、それぞれが独自の地酒を売り出されていますので、日本で販売されている大手のビールとは少し風味が異なる独特なビールを造って、小規模から売られるのはいかがでしょうか?」


「それが、酒税法ではビールの製造免許を得るには、年間二千キロリットル以上のビールを造らなくてはならないのです。つまり大瓶で三百十六万本近く造らなければなりません。そのため小規模な会社の参入はできず、国産ビールは大手四社、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリーに独占されています。確実に売れるビールを造らなくてはならないのです」


(作者註:平成六年四月に酒税法が改正され、ビールの製造免許を取得するための年間最低製造量が六十キロリットル以上に緩和された。その後全国で小規模な地ビールの生産が続々と始まった)


俺はビールもほとんど飲まないが、国産ビールは国民の嗜好にあわせたため、どの会社のビールも似たような味わいのラガービールになってしまっていると聞いたことがある。かの有名な食通、北大路魯山人(グルメマンガ『美味しんぼ』の海原雄山のモデル)も、ビールの味利きをして銘柄を間違えたとの都市伝説がある。それほど国産ビールの味わいは似通っているのであろう。


「そんな中へ参入されるつもりなんですね?」


「そうなんです。どういう風に事業を展開していけばうまくいくと思いますか?」


「そうですね。・・・その前に現在のビール業界の状況を教えてください」


「わかりました。何でもお尋ねください」


「では、最近、生ビールというのが話題になっているようですが、実際にはどうなのですか?」


「まず生ビールとは何かということから説明しますが、アルコール発酵を行う酵母がビールの中に残っていると、瓶詰めをした後にも発酵が進み、ビールの質が変わってしまいます。そこでこれまでは六、七十度の熱湯に二、三十分浸けて低温殺菌を行い、酵母を失活させたものを販売していました。この方法でビールの品質が安定するのですが、どうしても『パストリ臭』が生じて、わかる人には気になっていました」


「『パストリ臭』?」


「低温殺菌法を開発したのがルイ・パスツールというフランスの微生物学者で、そのため低温殺菌をすることをパストライズと呼ぶようになったのです。パストライズで生じる独特の匂いが『パストリ臭』なのです」


「なるほど」


「そこでよりおいしいビールを提供しようと、加熱処理を行わない『純生』をサントリーが三年前に発売して人気になりました。ただし酵母は除去しているため、普通に冷蔵しておけば短期間での品質の変化はありません」


「いわゆる『生ビール』が市場に出てきたわけですね」


「はい。それに対抗してアサヒが去年、『本生』という酵母を除去しない非加熱ビールを販売しました。この『本生』は酵母が生きているので、賞味期限が二週間しかないという代物です」


「賞味期限が生鮮食品みたいに短いですね」


「現在、『生ビール』の定義について、加熱処理を行わないことに加えて、酵母を除去するのかしないのかが論争になっています」


「なるほど」平成時代の生ビールは賞味期限がそれほど短くはなかったので、酵母を除去した『生ビール』が定番になったのだろうな、と俺は思った。


(作者註:昭和五十四年に公正取引委員会が生ビールの定義を「熱処理をしないビールのすべて」と公示し、酵母の有無は不問となった)


「それから、ノンアルコールビールについては今どのようになっていますか?アルコールを含まないビールのことです」


「ノンアルコールビールはアルコールの割合が一パーセント未満のものを指します」と萩野さんが説明を始めた。


「ノンアルコールビールの作り方には、アルコールが一パーセント以上のビールを作ってからアルコール分を除去する方法と、発酵を抑えてアルコール濃度が一パーセント以上にならないようにする方法と、ビール風の味付けをした清涼飲料水の三種類があります。ビールを作ってからアルコール分を除去する方法で造られたのが昭和二十三年に発売された『ホッピー』です」


「ビールをいったん造ってからアルコール分を除去した方が、ビールの味を保てますね」


「そうなのですが、昭和二十五年に酒税法が改訂されて、製造過程でアルコールが一パーセントを越えると酒税が課せられるようになったため、既に製造免許を得ていた『ホッピー』以外のノンアルコールビールはこの方法では造ることができなくなりました」


「そうなのですか?それでは、今販売されているノンアルコールビールは?」


「ビール風の清涼飲料水か、アルコール発酵を抑える方法で造られたビールです。アルコール発酵を抑える方法は、麦汁の量を減らしたり、アルコール発酵しにくい酵母を使ったり、発酵途中で酵母を除去したり、温度を下げたりして発酵を止める方法などがあります」


「けっこう手間がかかるのですね?」


「そうなのです。おいしいノンアルコールビールを造るためには越えなくてはならない技術的ハードルが多いのです」と萩野さん。


「発酵を抑えて造ったノンアルコールビールの例が去年発売された『サッポロライト』です。大々的に宣伝していますが、売れ行きは今ひとつのようです」


「将来的にはノンアルコールビールの売れ行きが増えると思いますが、現時点では手間がかかる割にあまり売れないようですね」


「はい。『ホッピー』もビール風味の清涼飲料水としてそのまま飲むのではなく、焼酎を混ぜて飲むのがはやっていますので、本末転倒ですね」


「なるほど。現状がよくわかりました。ありがとうございました」と俺は言った。


「それでは萩野酒造が造るビールの販売戦略ですが、まず酵母を除去した生ビールを売り出します。酵母が残っていると賞味期限が短く、返品が増えそうなので」


「そうですね」


「そして価格は他のビールより十円くらい安くします」


「安売りですか?」と萩野さんは驚いて聞き返した。


「はい。既存のビール会社はそれぞれ財閥グループとの関わりがあり、財閥系の企業がビールの銘柄を指定する場合が多いと聞いたことがあります」


「その通りです。例えば、三菱系はキリンビール、住友系はアサヒビール、三井系はサッポロビール、三和系はサントリービールと決まっています」


「料亭などではその点を考慮してビールを選んで出しますから、新規参入のメーカーのビールは料亭向けでなく、一般のお客さんを主なターゲットにしなくてはなりません」


「そのために安くするのですか?」


「そうです。安いビールは品質が劣るとみなされがちですが、品質の方は萩野さんの方で保証していただくとして、一般の人にはまず安さでアピールします。安くてうまいと評判になれば、売り上げは上がることでしょう」


「確かに。最初は赤字覚悟で味を知ってもらわなくてはならないというわけですね」


「そうです。そのためには缶ビールを主とした方がいいかも知れませんね。流通コストが安く住みますし、瓶の回収の手間もかかりませんから」


「しかし、飲食店では瓶ビールで提供するのが普通なので、缶ビールだけというわけには・・・」


「そうですか。なら飲食店用に瓶ビールを残しましょう」


「ご理解いただきありがとうございます」


「それから雑誌に宣伝記事を出し、テレビにはコマーシャルを流します。宣伝文句キャッチコピーはそうですね、今までに多かった『すっきり、爽やか』という表現ではなく、『うまさと香り際立つ、欧州風のビール』として味のアピールをしましょう」


「当社では今まで輸入ビールを扱ってきましたから、輸入ビールに近い味わいとした方がいいのでしょうか?」


「あくまで一例です」と俺は断った。


「そしてビールは味わいを変えたものを三種類売り出します」


「三種類?」


「そうです。まず、日本の標準的なビールの味わいに近い生ビール。銘柄は『標準生ピルスナー』とでもしましょうか」


「他の国産ビールとあまり味わいを変えない方が受入れられやすいのですね?」


「そうです。そして日本酒の味わいに淡麗と濃醇があるのに倣って、『端麗辛口生ファインドライなま』と『麦芽100%濃醇生(オールモルトなま)』を売り出します。『端麗辛口生ファインドライなま』は文字通り従来のビールよりすっきりした味わいで飲みやすくしたものです。『麦芽100%濃醇生(オールモルトなま)』」は麦芽百パーセントビールで、どっしりした味わいになります」


「なるほど。ワインのライトボディ、ミディアムボディ、フルボディと同じですね」と萩野さん。


「『端麗辛口生ファインドライなま』は酵母の種類を変えないと造れないかもしれません。あるいは、ビールに醸造用アルコールを多めに混ぜるとか・・・おいしくなるでしょうか?」


「製法についてはわかりませんのでお任せします」


「『麦芽100%濃醇生(オールモルトなま)』は『ヱビスビール』と同じようなビールですね。ただ、『ヱビスビール』は今あまり売れ行きが良くなさそうで・・・」


「『ヱビスビール』は本格的な分、少し値段が高いですよね。わずかな価格差でも消費者は敏感です。その点萩野ビールの『麦芽100%濃醇生(オールモルトなま)』は、安いけどどっしりした味わいです。愛好者が増えるといいですね」


「要するに一般客向けに安く提供し、しかも味わいを三種類揃えるということですね。・・・うまくいくかどうか、一種の賭けですね」


「そうですね。ほんとうなら一商品に集中する方がリスクが少ないのかもしれませんが、後発の会社としては既存のビールとの差を明確に打ち出した方が消費者にアピールできると思います。・・・もっとも、失敗しても私には責任が取れませんが」


「責任を取るのはもちろん私の仕事です」と萩野さんが行ってくれた。


「とにかく、商品の良さを一般の人にうまく伝えることが鍵でしょうね」


「いろいろと示唆に富むご助言、ありがとうございました」と萩野さんが頭を下げた。


「ところでこちらは我が社で扱っている輸入ワインです」そう言って萩野さんは鞄の中から二本のワインを出してきた。赤ワインと白ワインが一本ずつだった。


「赤がフランスのボルドーのワインで、白はドイツのモーゼルワインです。藤野さんを紹介していただいた泰子やすこさんにも一本渡すと約束していましたので、どちらを取るか、お二人でお決めください」


「便乗して私までワインをいただいて申し訳ないから、藤野さん、お好きな方をどうぞ」と泰子やすこさんが俺に言った。


「私はワインにあまり詳しくないので、泰子やすこさんからお好きなのをどうぞ」と俺は遠慮した。


「じゃあ、赤ワインをいただいてもよろしいかしら?」


「ええ、どうぞ」


「赤ワインを飲むと吸血鬼が血を吸うところを思い出すの」


そういえば泰子やすこさんは吸血鬼について少し詳しかったな。マニアだったのかな?


「じゃあ、私は白ワインをいただきます」と俺は萩野さんに言った。


「どうぞ、どうぞ」と萩野さん。


「ところで藤野さんは謎解きがお得意と聞きました」


それを聞いて俺は泰子やすこさんの顔を見た。


「先日お聞きした、生きながら腐っていった人と吸血鬼のお話は萩野さんから聞いたの。藤野さんのお答えを萩野さんに話したら、いたく興味を引かれて・・・」と泰子やすこさんが説明した。


「そうなのです。私自身が不思議な出来事に興味があるというわけではないのですが、なぜか尋常でない話を見聞きすることが多く、泰子やすこさんにも話したことがあったのです。実はあの二つの話以外にも私には真偽が判断できない謎がありまして、藤野さん、どうか私の話を聞いていただけないでしょうか?」


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

山本泰子やまもとやすこ 清住酒造の事務員。

萩野武蔵はぎのたけぞう 萩野洋酒販売の社長。山本泰子の親戚。


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