七十二話 薔薇と吸血鬼(事件編)(美知子の妖怪捕物帳・陸拾)
日本酒を酌み交わしていた清住酒造の柳楽社長と営業部長だったが、
「さきいかだけじゃもの足りんな。泰子、何か食うものを調達してくれ」と社長が事務員の泰子さんに言った。
「それじゃあいつもの寿司屋でお造りとにぎり寿司をもらってきます」と言って応接室を出て行った。
「藤野さんもどんどん飲んでくれ」と俺に酒を勧める社長。
「は、はい。いただいています」と俺は言って少しだけグラスの日本酒をすすった。
「藤野さんは普段からお酒を飲んでいますか?」と聞く営業部長。
「私はあまりお酒に強くないので滅多に飲みませんが、下宿に同居している先輩たちはよく飲んでいます」と答えた。
「先輩たち?女性かい?」と聞く社長。
「もちろんです。二人の先輩と同居していますが、二人ともよく飲んでいますよ」
「なら、帰るときにおみやげにうちの日本酒を持って帰ってくれ」
「は、はい。あ、ありがとうございます」一升瓶を持って帰るなんて重そうだが、断ることはできそうにない。
「その先輩方は美人なの?」と変な方向に話が進んでいったが、まもなく泰子さんが寿司桶を二つ抱えて戻って来た。ひとつにはお造り。鯛やマグロなどの刺身が並んでいた。もうひとつの桶にはにぎり寿司が並んでいる。玉子、マグロや青魚のお寿司だった。
「さあ、藤野さん、どんどん食べて、どんどん飲んでくれ。泰子も一緒にな」
「はい、ありがとうございます」と俺は言って取り皿にマグロの握りを取ろうとしたら、
「藤野さん、これが何かご存知ですよね」と泰子さんが言って、お造りの桶の中のツマの上に乗っている黄色い小菊を指さした。
「もちろん知っています。つま菊と呼ばれる食用菊ですね。苦いので、実際に食べることはありませんが」
「おや、藤野さんはつま菊の味を知っているのかな?」と社長がにやにやしながら聞いてきた。
「実際に食べたことがあるような口ぶりですね」と営業部長も笑って言った。
「昔、つま菊が添えられているお造りを家族で食べたとき、弟が『あ、タンポポが乗ってる!』と叫んだんです」と俺は弁解を始めた。
「すると父が、『それはタンポポでなく食用菊だ』と教えてくれたのです。食用菊というのなら食べられるだろうと思い、口に入れてみただけです」
「食べれないことはないだろうが、洋食の皿に添えられているパセリと一緒で、食べはしないな」と社長。
「この小菊は食べてもおいしくありませんが、東北の方では大輪の食用菊があって、花びらをおひたしなどにして食べているそうですよ」と泰子さんが言った。
「苦くはないのか?それとも苦みを味わっているのか?」
「私も食べたことはありませんが、その話をしてくれた人によると苦くはないとのことでした」
「ほんとうに食用にしている食用菊があるのですね」と俺は言った。
「菊以外に食べられる花はないのかい?」と営業部長が聞いてきたので、
「食べられる花のことを英語でエディブルフラワーと言いまして、日本でも菊のほかに食用の桜草やパンジーなどの花が売られているようですよ」と俺は答えた。
「そんなものを売っているのか」と驚く社長。「うまいのか?」
「食べられるものはあまり味がしないものが多いようです。私は刺身のつまに付いていた花穂紫蘇を食べたことがありますが、香りが良かったですよ」
「味はともかく花があると食卓が華やかになっていいな、花だけに」と社長がダジャレを言った。愛想笑いをしておく。
「食用のバラもあるのでしょうか?」と聞く泰子さん。
「国内で売っているか知りませんが、あると思いますよ」と俺は適当に答えた。
「バラがどうかしたのか、泰子?」と聞く営業部長。
「実はこれも嫁ぎ先の親戚から聞いた話なのですが、吸血鬼に襲われて亡くなった女性がいたそうです」と泰子さんが言ったので驚いた。
吸血鬼と言えば真っ先に思い浮かぶのがドラキュラだろう。ブラム・ストーカーという作家が書いた小説『吸血鬼ドラキュラ』に出てくる妖怪で、日光や十字架やニンニクに弱く、昼間は棺桶の中で眠り、コウモリなどに化けることができるという吸血鬼のイメージを作り上げた。
「吸血鬼が出たというのは日本国内のお話ですか?」
「そうです。ある資産家のお屋敷で催された洋風の立食パーティーで起こった事件なのです。もちろん本当に吸血鬼の仕業なのかわからないので、藤野さんに聞いてみようと思ったのです」
「わかりました。どうぞお話しください」
「そのパーティーは資産家が所有する洋館の二階の大広間で催されました。かなり凝って作られた洋館で、二階にはバルコニーがあって庭に面していますし、室内や廊下には洋画や西洋の甲冑が飾られていたそうです」と泰子さんが説明を始めた。
「そのパーティーを主催した資産家の奥様が嫉妬深く、短気で、粗相をした女中にきつく折檻することもしょっちゅうでした。周囲の人は鬼女のようだと噂していたそうです」
そういう女性もいるだろうな。特に社会的な身分が高いことを鼻にかけ、使用人を人と思わないような人が。
「そのパーティーには資産家の愛人と噂されていた若い美人も参加していたそうです。愛人かどうかは定かではありませんでしたが、その噂は妻も聞き知っていて、パーティーの開始直後から妻はその女性をにらんでいたとのことです」
「わしだったらその場にいたくないな。なんでわざわざ愛人を呼んだんだ?」と社長。
「本当に愛人だったのかわからないと言ってますよ」と営業部長が口をはさんだ。
「妻の表情に気づかない客人も多く、パーティー自体は和やかに進行していたそうですが、資産家とその女性が親しげに話しているのを見た妻はパーティー会場から姿を消しました」
「妬心のあまり、いたたまれなくなったのでしょうか?」と営業部長。
「まもなくその妻が戻って来ると、料理が並んでいるテーブルに置かれていた花瓶からバラを一本抜いて、その花を口でくわえたのです」
「バラの花を?食用のバラだったのか?」と聞く社長。
「いいえ、そうではないと思います。そのバラは八重咲きの十六夜薔薇と呼ばれる品種で、その実は食用になりますが、花を食べる習慣はありません」
「バラに実がなるのですか?それも食べられる実が?」と聞き返す営業部長。
「正確に言うと、これも聞いた話ですが、十六夜薔薇には八重咲きのものと、原種の一重咲きのものがあって、実がなるのは一重咲きの方です」
「バラの実か。・・・うまいかどうか想像がつかないが、興味はあるな」と社長。
「中国では十六夜薔薇の実のことを、刺す梨と書いて『刺梨』と呼ぶそうです。もちろんそんな実はパーティーには出されていません」
「本来食べるものではない八重咲きの十六夜薔薇をその妻がかじったのですね?それでどうなりましたか?」と俺は聞いた。
「花瓶の花を食べるなんて奇妙な行為に、そのパーティーに列席していた客は驚いて何も言わずに妻を見つめたそうです。そして妻がバラの花を口から離すと、唇から一筋の血が流れるのが見えました」
「血が流れた?・・・ああ、バラのトゲを噛んだのだな?」とひとりで納得する社長。
「いいえ、バラの花びらにはトゲはありませんし、花瓶に生けられていたバラはトゲを取り除いたものばかりだったそうですよ」
「じゃあ、なんで妻の口から血が流れたんだ?」と聞く社長。
「愛人への嫉妬のあまり、唇を噛んだせいじゃないですか?」と営業部長は言った。
「しかし、自分の唇を自分の歯で噛む場合、唇の内側を噛みますよね?血が出たとしても口の中に流れ、口の外に出ることはなさそうですが?」と俺は指摘した。
「じゃあ、なんで口から血が流れたんだ?」と聞き返す社長。
「妻はすぐに口をぬぐってごまかしたそうです。そのとき、使用人が愛人と噂されていた女性が階段から転落していると大声で知らせてきました。そしてその女性は一階に下りる階段の下で実際に倒れていました」
「厠にでも向かった女性を妻が突き落としたんじゃないか?妻も直前まで会場にいなかったんだろう?」と社長が言った。
「誰もがそう疑ったのかもしれませんが、目撃者はなく、犯人とは断定できませんでした。それどころか、転落死した女性の首の左側に、牙で噛んだような傷が二つあって、吸血鬼の仕業じゃないかと皆が騒ぎ始めました」
「ここで吸血鬼が出てくるのですか。・・・あ、妻の口から血が流れていたのはもしや、女性の首から血を吸ったからじゃないのでしょうか!?」と営業部長が叫んだ。
「ほかの者もそう思ったようですが、とにかく救急車と警察が呼ばれ、医師による死亡確認の後で司法解剖されたそうです。首筋の噛まれたところは傷が頸動脈や頸静脈に達しておらず、出血多量で亡くなったわけではありませんでした。死因は転落により首の骨が折れたためだと鑑定されました」
「死因が転落死でも、吸血鬼に首を噛まれたのは確かじゃないのか?だから妻が犯人では?」
「警察もその点を確認するために、半ばバカバカしいと思いながらも妻に十字架を見せたり、ニンニクを嗅がせたりしたようですが、妻には何の効果もありませんでした。昼間外出することもあり、日光に弱いわけでもありません」
「そうだろうな。吸血鬼なんか想像の産物だ」と言い捨てる社長。
「警察は妻本人にも『吸血鬼じゃないだろうな?』と聞いたそうですが、妻は鼻で笑って、『パーティーで私がバラを手に取ったところをみんなが目撃しているはず。私が吸血鬼ならバラはすぐに枯れたわ』と言い返したそうです」
「吸血鬼がバラを枯らすのですか?初めて聞きましたが」と聞き返す営業部長。
「『吸血鬼カーミラ』という有名な小説があって、それを元に『血とバラ』という映画が作られました。映画の中で吸血鬼の肖像画があり、肖像画の吸血鬼が手にしていた薔薇が色褪せていたので、吸血鬼がバラを枯らすというイメージができましたの」と泰子さんが言った。
(作者註:吸血鬼とバラの関係はそれまで言及されることはほとんどなかったが、昭和四十七年以降に連作された萩尾望都の少女マンガ『ポーの一族』シリーズで、吸血鬼がバラの生気を吸い取るという描写があったことから、それ以降に吸血鬼とバラを題材にした作品が作られるようになった)
「それから『吸血鬼ドラキュラ』を原作とした映画『魔人ドラキュラ』では、吸血鬼がトリカブトという花を嫌がっていましたが、資産家の妻の寝室の花瓶にはトリカブトの花が生けてあって、その事実からも自分は吸血鬼ではないと妻は主張したそうです」
「妻が吸血鬼でなくても、愛人を階段の上から突き落としたのではないかという疑惑は晴れないぞ」と社長が言った。
「その疑いは残りますが、妻が女性を突き落とした証拠はなく、結局警察は事故死として片づけたそうです」
「その妻なら厳しく尋問されても自分が犯人だとは言いそうにないな」
「ただ、首を噛まれた痕跡の説明もつかず、吸血鬼騒動の真相は闇の中です。藤野さん、誰が死んだ女性の首を噛んだのでしょうか?」
「そうですね。・・・その前に質問があります。妻の寝室か屋敷のどこかから薬品が見つかったという話は聞いておりませんか?具体的にはクロロホルムのような有機溶剤がなかったかということですが」
「そうか。階段の上で愛人の口をクロロホルムを染み込ませたハンカチか何かで覆い、意識を失ったところを突き落としたんだな!?」と社長が叫んだ。
「いえ、クロロホルムは吸入麻酔薬として使われていたことがありますが、意識を失わせるためには大量の蒸気を吸わせる必要があり、ドラマや映画で見るようにハンカチにクロロホルムを少量かけて口と鼻を覆っても、実際に意識を失うことはないと聞いています」
「なんだ、それも作り話か」とあきれる社長。
「クロロホルムはありませんでしたけど、無水エチルアルコールの空瓶が妻の部屋にあったそうです」
「無水エチルアルコール?」と聞き返す社長。
「化学実験で用いられる高純度のアルコールです。もちろんハンカチなどに染み込ませて鼻と口に押し当てても、麻酔効果はありません。でも、何となくその用途がわかった気がします」と俺は言った。
「無水アルコールが事件に関与しているのですか?」と聞き返す泰子さん。
「真実かどうか証明できませんけど、今聞いた話からあるストーリーを思いつきました」と俺が言ったら、三人が俺を注目した。
「まず疑問に思ったことは、誰も女性が階段から落ちるときに叫び声を聞かなかったことです。屋敷の構造上、声が聞こえなかったのかもしれませんが、大声で叫べば誰かに気づかれた可能性があります。誰かに突き落とされたとすれば、その犯人は他人に目撃されないよう、女性に叫ばせない必要があります」
「ここで安っぽい推理小説なら、女性にクロロホルムを嗅がせて、意識を失わせてから突き落としたと探偵が推理するのでしょうね」と営業部長が言った。
「そうです。実際にはクロロホルムは役に立ちません。ただ、意識を失わせる前に悲鳴を出させないよう、布かハンカチで口を覆った可能性はありますね」と俺は言った。
「それから泰子さん、そのお屋敷に西洋の甲冑があったと言われましたが、その甲冑はどのようなもので、どこに置かれていたのでしょうか」
「その屋敷に私がいたわけではないので正確なことはわかりませんが、女性が転落した階段を上がったところのそばの廊下の壁側に飾られていたそうです。全身が金属製の鎧と兜だそうです」と泰子さんが教えてくれた。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
柳楽慎司 清住酒造の社長。
柳楽 昭 清住酒造の営業部長。社長の息子。
山本泰子 清住酒造の事務員。社長の娘、営業部長の妹。
書誌情報
ブラム・ストーカー/吸血鬼ドラキュラ(表現社、1958年初版)
ジョゼフ・シェルダン・レ・ファニュ/吸血鬼カーミラ( 世界恐怖小説全集第1巻、東京創元社、1958年10月初版)
萩尾望都/『ポーの一族』シリーズ(小学館、別冊少女コミック、1972年3月号〜1976年6月号掲載)
映画情報
カーミラ・ストロベリ主演/血とバラ(1962年3月7日日本公開)
ベラ・ルゴシ主演/魔人ドラキュラ(1931年10月8日日本公開)




