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七十一話 食べ物腐らせ妖怪(ウチャタイマグラー)(美知子の妖怪捕物帳・伍拾玖)

「それではまずわしの話を聞いてくれるか?」と清住酒造の柳楽なぎら社長が言った。


「はい、どうぞ」


「これは一月ほど前の話なんだが、酒造会社の社長が集まる宴会があったんだ。雑談しているうちに日本酒以外の酒についての話で盛り上がったので、わしはある経験を話した」


「そのご経験とは?」


「以前に舶来のワインを知人からもらったんだ。フランスかどこかの白ワインで、夕食のときにコップに白ワインをなみなみと注いで飲み始めた。ワインもいけるなと思いつつ、夕食のおかずだったマグロの刺身を口にすると、その瞬間に口の中が生臭くなって、思わず刺身を吐き出してしまった」


「それはそれは・・・」


「口をすすいでから刺身を匂ってみたが、刺身自体は新鮮で、口に入れても生臭くなどなかった。飲んでいた白ワインも、それ単独では変な匂いはなかった。しかしその両方を同時に口に入れると、耐えきれんほどの生臭さが生じたんだ」


「そうでしたか」


「日本酒を飲みながら刺身を食ったときにはそんなことが起きたことはなかったので、宴会の場で『日本人にはやはり日本酒が一番だ。ワインなんぞ飲めたものじゃない』と力説した。すると多摩酒造の社長がわしに向かって、『わしはときどき刺身をつまみにワインを飲むことがあるが、生臭いと感じたことはないぞ。お前の鼻や舌がおかしいんじゃないか?』と言いがかりをつけてきたんだ」


「おやおや」


「さらに『ほかの酒の味もわからないようじゃ、清住酒造もお先真っ暗だな』とまで言ってきたんだ。『それとも、お前の蔵には食べ物を腐らせる妖怪でも棲みついているのか』とまで言いやがった」


「食べ物を腐らせる妖怪?」


「そいつには沖縄出身の知人がいるそうだが、沖縄にそういう妖怪の話が伝わっているらしい。妖怪の名前は、ウチャなんとかだったかな?覚えていないが」


「しかしずいぶんな言い様ですね」


「そうだろう?だからわしも『お前こそワインの味がわからないんじゃないか?』と言い返して口論になったんだ。結局同席していた他の社長らに取りなされてその場は納まったが、手元にワインがなかったので決着はつかなかった」


「そうなんですね」


「そのとき同席していた社長たちが後日ワインと魚介類の組合せを試してみたそうだが、『確かに生臭かった』と言う者もいれば、『自分は特に感じなかった』と言う者もいて、はっきりと白黒がつけられなかった。このことについて藤野さんはどう思う?」


「ワインと魚介類の相性が悪いという話は聞いたことがあります。特にイクラなどの魚卵でひどいとか」


「そうだろう、そうだろう」


「私も詳しいことはわかりませんが、おそらくワインのある成分と、魚介類のある成分が反応して生臭くなるんだと思います」


(作者註:メルシャン(株)商品開発研究所が平成二十一年に発表した研究で、魚介類に含まれる必須脂肪酸のDHAやEPAが酸化すると過酸化脂質が生じ、これにワインに含まれる鉄イオンが反応すると生臭み成分の (E,Z)-2,4-ヘプタジエナールが瞬時に発生することが解明された)


「生臭くなかったと言った社長もいたそうですが?」と柳楽なぎら営業部長が口をはさんだ。


「ワインにもいろいろな産地のたくさんの種類がありますから、物によって生臭さの原因になる成分の量が違うのかもしれません」


「しかし洋食では肉料理には赤ワイン、魚料理には白ワインが定番だと聞いたことがありますが、魚料理が生臭くて食べられないといった話は聞いたことがありません。その点どうなんでしょう?」


「それは魚の調理法が違うからではないでしょうか。小麦粉をまぶしてバターで炒めるムニエル、少量の油で高温で炒めるソテー、油で煮込むアヒージョなどが代表的でしょうか?」


「洋食では生魚を食べないのか?」と社長が聞いてきた。


「生魚に近い料理としては、酢やレモン果汁に漬け込んだマリネや、オリーブオイルをかけたカルパッチョなどがありますね。ということは、刺身でも酢をかけたり、オリーブオイルをかけたりすれば、ワインと合わせても生臭さを感じなくなるかもしれません」


「しかし刺身にレモン汁やオリーブオイルは普通かけんだろう?」


「聞いた話では、遠洋漁業をしている漁師さんが、カツオを生姜醤油で食べるのに飽きて、あるときマヨネーズをつけて食べてみたらとてもおいしかったそうです。マヨネーズをかけた刺身を食べながらワインを飲んだら、オリーブオイルをかけるのと同じように生臭さの発生が抑えられるかもしれません」


「マヨネーズか。・・・もはやそれは刺身とは言えんだろう?特に白身魚には合いそうにないぞ」


「白身魚のお刺身には酢味噌などどうでしょうか?この食べ方でも生臭さは抑えられると思いますよ」


「いろいろ提案してもらって悪いが、どうしても醤油で食べたいんだ」


「なら、鼻をつまんで食べると生臭身を感じないのでは?」と俺が言ったら二人が苦笑していた。


「とにかく、以前わしが生臭さを感じたワインをもう一度入手して、多摩酒造の社長に贈ってやる」と社長は息巻いていた。


「話は変わりますが、日本酒やワインなどのお酒はアルコールを含みますので雑菌が繁殖しにくく、本来は腐ることはありません。それでも日本酒は『火落ち』という劣化が生じることがあります」と営業部長が話し始めた。


「『火落ち』すると日本酒はどうなるのですか?」


「透明だったお酒が濁ってきて、味もすっぱくなります。これはアルコールに耐性がある火落ち菌の繁殖によるものだとわかっています。以前は防腐剤のサリチル酸を日本酒に添加して火落ちの発生を抑えていましたが、発癌性の疑いがあることがわかって、去年からサリチル酸の使用を自粛することになりました」


「今ではどうやって火落ちを予防しているのですか?」


「使用する器具や桶の衛生管理を徹底するとともに、絞った日本酒に火入れをすることで予防しています」


「気苦労が絶えませんね」


「日本酒のことではないのですが、沖縄のものを腐らせる妖怪の話を聞いて思い出したことがあります」


「なんでしょう?」


そのとき、お茶を出してくれた事務員が再び入室してきた。そして少しだけ飲んだ煎茶の代わりに、香り高いコーヒーを出してくれた。かまわず話し続ける営業部長。


「実は去年の秋頃にバナナをもらったので、木箱に保管しておいたのです。バナナはまだ硬く、皮に黒い斑点が出ていない新しい状態だったのですが、一、二日後でしたか、バナナを食べようと思って箱を開けたら黒い斑点がたくさんできていました。バナナの実自体も一部が黒くなって腐りかけていました。妖怪の仕業とは思わないのですが、なんであんなに早く腐ったのか今でも疑問に思っています」


「品質が悪いバナナだったんじゃないのか?」と社長が聞き返した。


「私の印象では品質には問題ないように思われましたが」


「バナナの皮の黒い斑点はシュガースポットと言って、完熟の目安になるのですが、その木箱にはほかにリンゴとか入っていませんでしたか?」


「そういえば、リンゴの食べ残しが二、三個、木箱の中に残っていたような」


「原因はそのリンゴですよ」と俺が言ったら営業部長は驚いた顔をした。


「果物や野菜の表面からはエチレンガスという気体が出てくるそうです。そしてこのエチレンガスは果実や野菜を早く熟させるという作用があるようです。熟し過ぎると腐っていきます。リンゴは特にエチレンガスの発生量が多いと聞いています」


「それでバナナが熟して、さらに腐りかけていたのですか」


「ちなみにエチレンガスはジャガイモの発芽を抑えたり、切り花の鮮度を保つ作用もあるそうです」俺の説明に二人は感心しているようだった。


「あの、私も聞いていいですか?」と、まだ応接室内にいた事務員が声をかけてきた。


「なんだ、泰子やすこ?」と社長が聞く。


泰子やすこは私の妹なんです」と補足する営業部長。この三人は親子だったんだ。


「私の嫁ぎ先の親戚から聞いた話なのですが、村はずれのある老人が何かの病で臥せり、とうとう亡くなってしまったそうです。臨終の際にお医者さんが呼ばれたのですが、息を引き取ったときには既に体が緑色になって、皮膚の表面が剥がれて液が出ていて、腐り始めていたそうです。死体を何日も放置すれば腐るのはわかりますが、死んだ直後なのに体が腐るなんて、言い方が悪いのですが生き腐れのようなことが起こるのでしょうか?」


「なんか恐ろしい話だな」と社長。「まるで死人憑しびとつきのようだ」


死人憑しびとつきとは何ですか?」


「死体に何者かが取り憑いて死体を動かすという現象のことだよ。昔何かの本で読んだな。その老人も本当は何日も前に死んでいて、死人憑しびとつきのせいで生きていたようにふるまっていたんじゃないか?」


「どうなんでしょう?」と営業部長が俺に聞いた。


「私は医者でないので詳しいことはわかりませんが、腐敗は細菌が繁殖して起こります。ですから生きている人に生じた炎症や感染症で細菌が繁殖すれば、生きながらにして体が腐っていくことがあるのかもしれません」


「呪いや祟りなどの怪奇現象ではないということですね?」と泰子やすこさんが聞き返した


「そうです」俺の答を聞いてほっとした泰子やすこさん。


「しかしうちは酒屋なのに、腐ったとか生臭いとか、そういう話ばかりになったな」と嘆く社長。最初に話し始めたのは社長だったはずだが。


「口直しに、いやお清めとして特級『清住きよすみ』でも飲むか。泰子やすこ、一本持って来てくれ。冷やで飲むからグラスも頼む」と社長が言った。


「いえ、私はお酒は・・・」と断ろうとしたが、泰子やすこさんはさっさと応接室を出て行った。


「ところで、ワインの話に戻りますが、貴腐きふワインというとても甘いワインがあるそうですね。飲んだことはありませんが」と営業部長が言った。


「きふ?どういう字を書くんだ?」と社長が聞き返した。


「貴族の『貴』に腐ると書きます」


「また腐った話か?」


「実際はブドウの表面にカビのようなものが生えることによってブドウの水分が抜け、糖度が高くなったのを使って造るワインのようですよ。そのため極甘になるそうです」


「カビの生えたブドウ?そんなので酒造りをするやつの気が知れんなあ」


「そう言えば、ポートワインもとても甘いようですね。飲んだことはありませんが」と俺も言った。


「サントリーの『赤玉ポートワイン』か?」


「いえ、ポルトガルで造られている本家のポートワインですよ」


「赤玉とは別物か?」


「サントリーの赤玉ポートワインはワインに甘味料や香料を混ぜたものですよ。一方、本家のポートワインは、発酵の途中でブランデーを加えて発酵を止め、ブドウの甘味を残したワインです」と営業部長が説明してくれた。


(作者註:赤玉ポートワインは原産地名称保護制度に関するマドリッド協定に従い、昭和四十八年に『赤玉スイートワイン』に商品名を変更した)


「いずれ飲んでみたいですね」と俺は言った。


「ワインの原料は甘いブドウですが、日本酒の原料はお米なので、一度お米の中のデンプンを糖に変えてからアルコール発酵させるそうですね?」


「そうです。だから日本酒の製造はワインよりも手間がかかっています」と自慢げな営業部長。


「だとしたら、発酵の途中でお酒を加えて発酵を止めたら、糖分が多く残っている、通常より甘い日本酒が造れそうですね」と俺は素人考えを述べた。


「その発想は面白いですね!」と営業部長が感嘆した。


「そういうお酒ができるか検討する価値があります。もし完成したら、『貴腐日本酒』とでも名づけましょうか?」


「おいおい、腐るという字を付ける必要はないだろう。誤解を生むぞ」と社長が忠告した。


(作者註:同様の方法で昭和四十八年に濃厚な甘味のある日本酒が国税庁醸造試験所で開発され、『貴醸酒』と名付けられた)


そのとき事務員の泰子やすこさんが一升瓶とグラス類を入れた籠を持って入室してきた。おつまみのつもりなのか、さきいかを盛った皿も籠の中に入っていた。


グラスに日本酒を注いで俺たちの前に置く泰子やすこさん。ちなみに先ほど持って来てもらったコーヒーが、まだ口を付けない状態でグラスの横に置かれている。


「それでは清住酒造の益々の発展を祈って、乾杯!」と社長がグラスを持ち上げて発声した。


「か、かんぱい」と俺も仕方なくグラスを上げ、口をつけた。そして少しだけ日本酒をすすった。やや甘口の日本酒が口の中に広がる。


顔が火照ってくるのを感じる。すぐに酔ってしまいそうだ。


ところで、甘いお酒を飲むと悪酔いしやすくなるのだろうか?それとも甘口、辛口は酔いにはあまり影響しないのかな?俺はそう思いながら口の中の少量の日本酒を飲み込んだ。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

柳楽慎司なぎらしんじ 清住酒造の社長。

柳楽 昭(なぎらあきら) 清住酒造の営業部長。社長の息子。

山本泰子やまもとやすこ 清住酒造の事務員。社長の娘、営業部長の妹。


書誌情報


Tamura T at al/Iron is an essential cause of fishy aftertaste formation in wine and seafood pairing. J Agric Food Chem, 57: 8550 (2009)

雁屋哲、花咲アキラ/美味しんぼ 3巻(「料理のルール」所収、カツオの刺身をマヨネーズで食べる話が出てくる、ビッグコミックス、1985年5月30日初版)

Elmer OH/Grouth inhibition of potato sprouts by the volatile products of apples. Science, 75 (1937): 193–193 (1932)

荻原直正/因伯伝説集(「死人に憑者」所収、牧野出版社、1951年初版)

上野忠親/雪窓夜話抄 巻上(「岩井郡にて死人駈走りし事」所収、因伯叢書、1915年初版)


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