【オークス②】府中の魔物
お待たせいたしました。
次回は4/29頃を予定しています!
裂蹄に悩まされた馬といえば、白いアレの宿敵・トーセンジョーダンを思い出します。そんな彼が勝ったのは天皇賞秋でしたね……
昨日は青葉賞で悲しい出来事がありました。改めて全人馬無事を祈るばかりです
「秋の府中には魔物が棲む」という言葉がある。
古馬中距離王決定戦・天皇賞秋(G1)において、1965年の五冠馬シンザンの勝利を最後に、長きにわたって1番人気が負けるというジンクスがあった。実力馬が集まり層が厚くなることに加え、トリッキーなコースが幾多の優駿を苦しめてきたのだ。
コース改修が行われた現代ではそのジンクスは破られ、1番人気が順当に勝つレースになっている。しかし"悪い気"のようなものは確かに存在するのか、府中の舞台で何か起こると人々はこの呪いを思い起こすのである。
そして馬でもないのに、年がら年中この魔物に悩まされている男がいた。
2017年優駿牝馬。熾烈な叩きあいに敗れ、デビュー2年目の弟が先にG1を勝利。
2023年秋天。秋華賞を蹴ってまでして挑んだ大一番で、大斜行した他馬と接触し落馬。
そして——たった今、2026年優駿牝馬。1番人気を背負った相棒の様子が、大欅の向こう側に差し掛かった瞬間おかしくなった。
(あかん)
桜花賞の入線直後と同じだ。走行時の振動に紛れてガクンと嫌な感触が伝わった。
(蹄か!!)
快晴と絶好の良馬場が、皮肉にもドンナモンジャイの蹄を痛めつけたらしい。蹄に貼られていたテープが取れ、ふさいだ割れ目が衝撃で広がったに違いない。傷が神経まで達すれば、場合によっては最悪の未来が待っている。
(止まれ!!)
(もうレースなんかええわ)
優一はすぐに腰を高くして手綱を引いた。これ以上走らせるわけにはいかない。
だが相棒は——怪物牝馬は止まらなかった。
明らかにさっきと様子が違うのに、先頭集団で白く光るライバルを睨んで必死に食らいついている。レースを諦める気などさらさら無い。男馬と戦っていた——無敗の頃には考えられないことだった。
しかしこのまま走っていては確実に魔物に喰われる。次の瞬間優一の体は宙に浮き、相棒を重い荷物から——府中に呪われた男から解放していた。
(行け!!)
(お前の走りたいままに走れ!!)
3年前とほぼ同じ位置に優一の体は叩きつけられる。
天地がひっくり返った世界で、相棒が大欅の向こう側を越え空へ駆けていくのが見えた。それを見て安心すると、ジョッキーカメラが壊れるのと同時に優一の電源もプツンと切れた。
◆◆◆
「……くん」
「優……くん」
「優一くん!!」
大きな二重瞼の目が見開かれる。妻・マリのショートボブが細かく揺れていた。目も不安で揺れている。
「小森くん。無事でよかった」
背中の痛みを堪え体を起こす。ドンナモンジャイの馬主・棚橋幹夫と管理調教師の父・良一も来ていた。棚橋の手にはなぜか玩具店の紙袋が2つ……
「あ。これね、君の子供2人に」
マリが丁重にお礼を言って袋を受けとる。中にはぬいぐるみや女児向けのアクセサリーキット、さらにはどこで情報を仕入れたのか馬のフィギュアまで入っていた。海外製で精巧に作られている。安くはないだろう。
競馬は金持ちの道楽——たった数分で億単位の金が動く業界である。生まれた時からこの世界にいる優一は慣れているが、一般家庭出身の妻は戸惑うことも多かったはずだ。それが今や、大量に来たであろう訪問者にきっちり応対している。サイドテーブルには花やら果物やらが、所狭しと置かれていた。
「いやぁ、また府中の魔物に襲われたね。その感じだと半年は稼げないだろ。てなわけで援助ですよ、援助。現金は露骨だから」
「……ハハ……おおきに。にしても、うちの息子が競馬星人だってよく知ってましたね」
「"小森先生"から常々話は聞いてますよ。何でも作りが粗悪だと見向きもしないってね。おたくの孝一くんはホントに2歳ですか、え?」
棚橋は良一の肩をポンと叩く。愛馬があんなことになったというのにこの明るさ——気丈に振る舞っているのは容易に想像がついた。
「すんません。その……オークス」
これ以上棚橋に無理はさせたくない。優一は罵られる覚悟で重い口を開いた。同席している妻に辛い思いをさせるのは避けられないが、かといってずっとのんきに話し続ける度胸はなかった。
「……いや。むしろこっちがお礼を言わなきゃって思ってたところだ」
マリがさりげなく丸椅子を持ってくると、棚橋は会釈をしてどっかりと腰を降ろす。
「あの時は確かに腹が立ったよ。大欅の向こう側を越えて、さあ2冠へ——なんて思ってたらカラ馬になってたんだから」
「いや、そう……なんです。すみません」
「ともかく、ドンナモンジャイは最後まで走りきった。もちろん落馬したからレースは失格だが、ちゃんと"先頭"でゴールしたよ」
優一の予想通りだった。ドンナモンジャイは単純に最後まで走り抜きたかったのだ。痛みより執念を優先するあたり、並の馬の思考ではなかった。
「……けどな。走りきれたのは、こう言っては申し訳ないが君が落ちて"くれた"からな気がするね。もし君を乗せたまま無理に走っていたら、別のゴールに行っていただろう。そう考えると、感謝してもしきれない」
別のゴール、という言葉が重く突き刺さる。
裂蹄が悪化した時点で、ドンナモンジャイにとって優一は司令塔から苦痛を倍増する重りに変わった。
だが彼のした行為は、場合によっては勝負を放棄し公平さを揺るがしたと取られかねない。現に今回の落馬で200億近くの馬券が紙屑になっているのだ。それでも優一は馬の未来を選んだ。
「君が落馬した経緯は知らないし、詳しく聞かれて八百長疑惑を立てられても困るだろ。だからこの話は終わりだ。怪我を治すのに専念しなさい」
「は、はーい」
「それにな……ドンナモンジャイも、もう走ることはない。引退だよ」
棚橋の言葉に、優一は頭を思いっきり殴られたような気がした。落馬以上の衝撃が脳を駆け抜ける。
◆◆◆
ゴール板を駆け抜けたその瞬間は、何が何だかもうわからなかった。むしろ観客やスタッフが悲鳴を上げたのは、すぐ後ろ——3番手、実質的には2着で入線したスターフィーユの白い馬体が赤く濡れていたためだった。
だが全馬が完走した直後、その血の主はフィーユではないことが判明する。
蹄から血を吹き出しながら先頭でターフを駆け抜けたドンナモンジャイは、入線後すぐに馬運車に乗せられ姿を消した。同時に鞍上の小森優一も、意識不明のまま救急車で搬送されていく。
勝ち馬モンテアミーを讃える歓声より、またも2着に敗れたスターフィーユへのため息より、祈りと沈黙の方がはるかに多かった。
優一の一瞬の判断のおかげでドンナモンジャイの命は失われずに済んだ。しかし右前肢の蹄は縦に大きく裂け、競走能力喪失の診断が下される。桜花賞の時は表面の軽いひびと欠損に留まったが、府中の魔物に情けなど無かった。
◆◆◆
「足が治って歩けるようになったら、ドンナモンジャイに会いに来てくれよ。あの子は君がどうなったか、まだ知らないんだから」
「は、はい。故郷の——下坂部牧場に戻るんでしたっけ」
「そうそう。"援助"したんだからそれくらいはお願いしますよ」
棚橋は冗談半分でそう言いながら、良一に案内されて病室を後にした。
「優一」
「うん?」
「どうしたい?これから」
「……せやなぁ……あんな、マリちゃん」
「うん」
「まずは1人になりたいわ」
「そう」
妻はすぐに棚橋からの見舞品を持ち、キッズルームで遊んでいるであろう我が子2人のもとへスタスタ歩いていった。
足音が完全に聞こえなくなったのを確かめると、優一は視界をぐにゃりとひん曲げ、白く冷たい部屋の空気を慟哭で激しく震わせた。
ドンナモンジャイ(Donnamonjai)
2023年生 牝3 鹿毛
父:デクラレーションオブウォー
母:ヤルヤン
母父:ディープインパクト
生産牧場:下坂部牧場(新ひだか町)
馬主:有限会社棚橋商事
勝負服:緑、黄星散、桃袖緑二本輪
戦績:7戦5勝(5-1-0-1)
抹消
2歳新馬 ① (マジックキングダム)
百日草特別 ① (マイティタックル)
東スポ杯2歳S(G2) ① (ニルヴァーナ)
共同通信杯(G3) ① (マイティタックル)
チューリップ賞(G2) ② スターフィーユ
桜花賞(G1) ① (スターフィーユ)
優駿牝馬(G1) 中 モンテアミー




