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直線659  作者: 伊野部俊
5R【"妹"、戦う】
58/61

【オークス①】リベンジマッチ

大変お待たせいたしました。

皐月賞は応援していたリアライズシリウスが負けてしまいましたが、ダービーでのリベンジを願っています。

しかしロブチェンは強かったですね。全く買ってませんでしたが(泣)




2026年5月24日(日)、午前2時。

黒木牧場の初代牧場長・黒木(いさむ)は、都内のビジネスホテルで目を覚ました。


「…………」


(またか)

これだからベッドは嫌なのだ。二重構造のバネだか何だか知らないが、変に跳ね返って落ち着かない。布団の沈み込む感触の方が自分には合っている。


(年のせいかな)

それもあるかもしれない。何せ今年で齢81である。年寄りは早起きというのが世の中の共通認識だし、実際自分も含めて周りの老人はみんな朝型だ。


だが今宵に限っては、それらが理由ではない気がした。もっと本能的なものが関係しているような……


勇はすぐに起き上がると、壁にかけられた上着を掴んだ。そして素早く羽織り、ドアの方に向かう。かつて夜毎(よごと)目を覚ましては、愛馬たちの様子を見に行った時と同じ動きだった。作業着とゴム長靴の感触がふと(よみがえ)る。


「…………」

ドアの横にある鏡には、ホテルのルームウェアに一張羅のジャケットを着た珍妙なる翁が映っていた。あの頃の面影はほとんど無い。ただの寝ぼけたジイさんが立っている。


しばらく鏡を眺めると、勇はベッドに戻った。


(皮肉なもんだ)

馬産から身を引いて38年経つというのに、まだ体はホースマンでいる。夜明け前に目が覚めるし、二度寝しようと目を閉じたところで眠くなどならない。最近は年のせいにしているが、いくら何でも2時に目が覚めていたら老人を通り越して幽霊である。


何せこの男、生まれたときからずっと馬と生きてきたのだ。43になるまで、"あの日"の事故があるまで——馬のことを考えない日などなかった。



勇は窓の方へ目をやった。カーテンの隙間から見える東京の街は、眠らずに煌々と輝いている。


約12時間後——オークスには、生産馬のスターフィーユが出る。阪神JF3着、桜花賞2着と悔しい思いをしてきただけに、今度こそ報われてほしい。何せ彼女はダービー馬の娘なのだから……


スターフィーユの父、ディープブリランテ。歴代屈指の猛者揃いと名高い2012年クラシック世代のダービー馬だが、彼もまた娘と同様の善戦マンな時期があった。


2歳時に東スポ杯2歳ステークスこそ勝つが、3歳になってからは共同通信杯で2着、スプリングステークスも2着、クラシック初戦の皐月賞でも3着に敗れてしまう。ああ、どっかで見たことのある惜しさ……


そんなわけでダービー当日は、上位人気2頭から大きく離されての3番人気に甘んじる。しかしディープブリランテはレースを勝ち、その名の通り世代の頂点に輝いたのだ。


娘のスターフィーユも、いつの日か世代の一番星に輝くのだろうか。父から輝きを、亡き母から額の星を受け継いだ小さな芦毛の牝馬。


勇はカーテンの隙間から夜空を見上げる。おとめ座の一等星・スピカが、都会の明かりに負けじと青白く——愛馬の毛色のように光っていた。



◆◆◆


同じ頃、美浦(みほ)トレセンも目を覚ましていた。


5月とはいえ、この時間帯は空気が冷たい。桜花賞馬・ドンナモンジャイの主戦騎手、小森優一はウインドブレーカーに騎手用の青いヘルメット姿で厩舎に現れた。


「おはよ。……どう?あの子」


「んー、オークスは大丈夫そうですね。テープも剥がれてないし、ちょっと前に引き運動しましたけど元気一杯で」

「ええ、欠けたところ、大分伸びて埋まってきましたよ。若い子は伸びが早いんで……間に合いましたね」



厩務員と獣医の言葉に、思わず優一は頬を緩める。

夜中にも関わらずやる気マンマンで首を振る相棒を見て、自身も武者震いをしたのがわかった。


(ああ、またあの馬と戦える)


◆◆◆


1ヶ月前——桜花賞。

阪神競馬場のターフビジョンに映し出されたのは、下馬して相棒をなだめる小森優一と、落ち着かない様子のドンナモンジャイだった。疲労で歩様は乱れ、不安を紛らわすように優一の手に鼻を押しつけている。


「ええよ、ええよ……落ちつき」


優一はレース直後で上がった息を急いで整えた。馬を刺激しないよう、咳き込みそうになるのを堪えてゆっくりと低めのトーンで話す。


「よう頑張った。も~、ほんまにようやった。完っ璧や。もう……ええよ」


その言葉に全く偽りはない。馬場状態や展開の違いこそあれど、概ね自分の予想通りにレースは進んだ。全ては愛馬の勝利に向けて上手くいっていた。


しかし2番人気のスターフィーユは強かった。他の有力馬や自分の相棒のようにゴリ押しで勝てるタイプではないが、器用さと経験でカバーしてしまう。どんな条件でも崩れない。こういう牝馬が一番恐ろしい……


この馬を攻略しなければ三冠は無い。ゆえにわざわざトライアルに出て直接対決し、"お勉強"をさせておいたのだ。惜敗と引き換えに、ドンナモンジャイは更なる強さを手にした。もうこの馬は敵ではない——そう心の内で叫ぶと、優一は相棒にさらに鞭を入れた。


……いや、正確には"入れようとした"。なぜならゴーサインを出す前に、怪物牝馬は自らの意志でギアを上げた。


敗者のみに与えられる、理屈では説明できない底力が脚に宿ったのだろうか。負けたくないという彼女の意思がはっきりと、もうビンビンと手綱に伝わった。それは牡馬と走っていた時——無敗だった頃には決して感じることのないものだった。



「強い牝馬のライバルは、牡馬ではありません」

「彼らをなぎ倒す、強く気高い牝馬なのです」



"牝馬の小森"こと、父・小森良一調教師の言葉が浮かぶ。ドンナモンジャイが誰と戦いたがっているかは明らかだった。牡馬のような越えるべき壁ではなく、同じ立場で切磋琢磨できる強い牝馬こそ——彼女が待ち望んだ存在だった。


(そうか!!)

(これがライバルか!!)


ドンナモンジャイは残り100mでちっぽけな芦毛を捕らえると、そのまま2馬身突き放して勝った。


だが高低差1.8mの急坂を一気に駆け上がった代償は大きい。喜びも束の間、入線直後にガクンと力が抜けたのがわかった。右前肢の裂蹄(れってい)が判明したのは、それからほんの数十分後のことだ。速さゆえの薄い蹄は、意地のぶつけ合いで欠けてボロボロになっていた。


幸いなことに傷は神経まで達していなかったため、すぐに割れ目をふさぎ、広がらないようにテープが貼られた。そして再び"ライバル"と戦う日を夢見て——現在に至る。



◆◆◆


午後2時、東京競馬場。

黒木牧場の2代目牧場長・黒木(わたる)は、モニターに写し出された単勝オッズを睨んでいた。嬉しいのか悲しいのか、何とも言えない顔をしている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

馬番 馬名        馬体重  騎手   単勝

①  スターフィーユ   428 (-2) 柚木   3.3 

⑱  ドンナモンジャイ  502(+4) 小森優  3.3

⑥  インディゴラシーン 476(+6) 香月   12.8

④  マリアグローブ   480 (-8) 岩倉   25.5

⑮  モンテアミー    508(+2) 藤吉   39.2

︙            ︙    ︙    ︙     

︙            ︙    ︙    ︙    

⑬  ザナドゥーラ    474(+8) 大山   364.7  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……はぁぁぁぁ」

愛馬スターフィーユと桜花賞馬のドンナモンジャイが単勝オッズ3.3倍で並び、ともに1番人気になっている。


ありがたいし嬉しいことだ。所有馬がG1で1番人気など、ひょっとしたら開業以来初めての快挙ではなかろうか。牧場の十八番——スプリントやマイルのG1でもこんなことはなかった。


ただ……枠が悪い。悪すぎる。

これがダービーならウッハウハで舞い上がっていたところだが、オークスにおいて1枠1番は極端に勝率が低いのだ。こういう妙に運に恵まれないところが、万年銀メダルの理由なのだろうか。いや、そんなことを考えてはダメだ……


枠が何であれ、フィーユは1番人気だ。きっとファンも、銀メダルコンビに"今度こそ"と夢を託してくれているのだろう。血統を考えてもマイル~中距離までは融通がきくし、距離が伸びることで道中の立ち回りがより重要になってくる。彼女の競馬の巧さと、鞍上の巧みな位置取りが樫の舞台で輝くことは間違いない。


渉は腹をくくった。純粋な実力勝負と言われている東京2400mで、ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。フィーユがG1にふさわしい馬かどうか、あるいはその他大勢なのか……このレースがはっきりさせてくれるだろう。


パドックに目を向けると、陣営は皆同じ思いを抱いているようだった。栗林親子も息子の(とおる)も、父の(いさむ)も、そして柚木(ゆのき)慎平も——どこか達観した様子でフィーユの晴れ姿を見守っていた。



◆◆◆


《散り行く桜に別れを告げて、リベンジマッチは緑豊かな樫の舞台で。東京競馬場、本日のメインレースは第87回優駿牝馬(オークス)(G1)。生涯一度にして最高の栄誉へ、3歳牝馬の頂点を決める戦いの火蓋が今——切られました!!》


スタンド前の大歓声の中、18頭の乙女が飛び出していく。最内枠のフィーユは完璧にゲートを出た。一切無駄のないスタートで、まず第一関門はクリア。渉は「おしっ」と呟き、軽く拳を握った。


スタンドからは同様の声が次々に上がる。馬主、調教師、そして厩務員——皆それぞれの思いを、ターフを駆ける18頭に熱く注いでいた。


最大のライバル、大外18番のドンナモンジャイも綺麗にゲートを出ていた。最もスタンドから近く、人気ゆえ桁違いの声援と視線を向けられているのにこの落ち着き様。こういう馬がG1を勝つのだと、嫌でも思い知らされる貫禄だった。


フィーユは序盤から早めに脚を作ると、馬群が固まる前に上手く抜け出して3番手につけた。これで他馬に包まれて何も出来ずに終わる、という最悪の状況はひとまず回避できた。第二関門も突破したと言っていい。


(上手い!!)


今日の柚木は冴えている。いつも位置取りは上手いのだが一切迷いがない。「お……いいな」ではなく「そう、そこっ、そこだよ。ドンピシャだよお前」と言いたくなるほどピンポイントで仕掛けている。


心なしか、フィーユの馬体が光っているように見えた。茶色い塊の中で1頭だけ、白く輝いている。



バックストレッチに入ってからも、フィーユは満点の走りを見せた。行きたがる素振りも見せず、逃げを宣言していた⑦アマルトゥブシンからきっちり距離を保って大欅の向こう側に消えていく。第三関門も問題なし!!


(まだか)


渉はそわそわしてきた。緊張と高揚が入り交じる。まだレースは終わらないのかというじれったさ。クラシックの舞台で愛馬が見せる完璧な走り、そしてその先の希望。6ハロンや8ハロンでは考える余裕の無いことがポンポン浮かんで仕方がない。


先頭を単騎で逃げる⑦アマルトゥブシンが大欅の向こう側を無事に越え、その数秒後に愛馬も姿を現した。


もう渉の目にはスターフィーユしか映っていなかった。ゆえにその瞬間は違和感を覚えなかったが、観客のざわめきがさすがに気になったのか、愛馬のはるか後ろに視線を移す。


(いない)


大外18番、ドンナモンジャイの背に乗っているはずの小森優一がいない。最大のライバルは何とカラ馬になってふらふらと外へ逸走していた。


(落馬か!!)


だが優一の姿自体が見当たらない。大欅の向こう側付近で落ちたのか、無事も何もわからない。スタンドの歓声はみるみるうちにざわめきへ変わる。3年前、天皇賞秋での落馬を知る者も多いだけに最早勝負どころではなくなっていた。


ところが数秒もすると、スタンドのざわめきが不思議な熱を帯びていく。


失格扱いで外へ逸走していたドンナモンジャイが、なぜか再びレースに参加していた。騎手を大欅の向こうに置いたまま、馬自身の意志ではるか前の馬群を猛追しているではないか。


「やめろ!!」


渉は思わず叫ぶ。何か彼女の脚に異常が起きているなら走ってはダメだし、司令塔を失ったカラ馬は何をするかわからない。接触でもされたらこちらまで落馬する可能性がある。ゴール手前で失格などという地獄絵図はごめんだ……


ドンナモンジャイは止まらなかった。あっという間に後方集団に追いつくと、騎手という重りが無い恩恵もあって次々に他馬を抜いていく。1頭だけ明らかに早送りしているように見えた。


(やめろ)


残り200m地点で中団も抜いた。残すは失速し始めた先頭⑦アマルトゥブシン、追い込みをかけて伸びているフローラステークス覇者の⑮モンテアミー、幸運の7枠13番から激走する大穴⑬ザナドゥーラ、そして愛馬の①スターフィーユ……


「やめろ!!」

「やめろぉぉぉ!!」


スターフィーユ(Star Fille)

2023年生 牝3 芦毛 

父:ディープブリランテ

母:クロノシネマ

母父:ノールブラック

生産牧場:黒木牧場(浦河町)

馬主:クロノレーシング

勝負服:黒、白二本輪、白袖灰一本輪

戦績:7戦2勝(2-3-2-0)

主な勝ち鞍:26'チューリップ賞(G2)


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