【桜花賞①】さあ、クラシックへ
次回は4/10頃を予定しています。
いよいよ現実でも26世代のクラシックが始まります!!桜花賞が楽しみです。
2026年4月初旬。
北海道・日高は浦河町、開業51年目の黒木牧場。スーツケースに荷物を詰め込みながら、牧場長の黒木渉は耳にスマートフォンを押し当てていた。
「おう、そうそう。到着は明日の昼前かな。で、厩舎に顔出して……うん。夜はお前ん家に泊めてもらおうかね」
《冗談だと思いますけど、やめてくださいよ。俺もう所帯持ちなんすから。難し~い年頃の娘もいるんですからね。嫁そっくりの小鬼》
「はは、わかってるよ。いや、成美ちゃんも随分大きくなったもんだねぇ」
《ええ……まあ、そうっすね。背丈も態度もデカくなっちゃって。鬼嫁に似たんですよ》
「背丈はお前だろ。バレー部のエースなんだって?将来は栗林厩舎の四代目、美人調教師ってか」
《さあ……わかんないすよ。成美が継ぐのか、それとも弟の直哉なのか……少なくとも、強制はしたくないんでね。俺だって親父に言われたわけじゃなくて、自分で継ぐって言い出したんですから》
◆◆◆
茨城県・美浦の栗林康成厩舎。
電話の相手——栗林誠は、事務室で子機を片手に書類を確かめる。クラシック戦線の開幕に向けて、やらなければいけないことが山積みなのだ。トライアルのチューリップ賞を制して桜花賞に出走が決まったスターフィーユに、青葉賞からダービー出走を目指すクロノドラクロワ。生涯一度の晴れ舞台に、登録ミスで出られないなど絶対にあってはならない。
「しかし黒木牧場さんからクラシックとか……何年ぶりですかね。大丈夫ですか?NHKマイルと間違えてません?」
《ばか、桜花賞なら前にも何度か出てるよ。8年くらい前と……あと17年前だったかな》
「"桜花賞なら"ね。そりゃ、クラシックで一番距離が短いっすもんねぇ。千六ですから」
《うるさいな。お前のとこだって、クラシックより短距離なんだろ》
少々痛いところを突かれ、誠は苦笑する。
短距離王国の名で知られる栗林厩舎は、スプリント(1200m)からマイル(1600m)に滅法強いことで知られている。厩舎と縁の深い黒木牧場が、短いところ向きの馬をよく出すからというのが理由の1つだった。
だがもう1つの理由は、JRAで開催されるレースの中で最も多いのがスプリント~マイル戦ということだ。全レースのうち、実に50%近くを占めている。すなわちそれだけ出走し活躍する機会を増やせる——馬主への還元率と馬の将来を考えた、合理的な経営方針なのである。
「うちの親父はリアリストっすから。勝てるレースをきっちり見極めて、多頭出しで確実に獲りに行く。それに"うちは短距離メインです"ってはっきり言うもんだから、入ってくる馬も粒揃いになる。良いこと尽くしでしょ」
《ああ……ほんと、清々しいまでの合理主義だよ。お前ら親子、夢とロマンの業界にいるのに中身はコンサルかよ》
「やだなぁ。今の時代、夢もいいけどある程度は現実を見なきゃ。それこそG1なんか、ゴリゴリの合理主義で仕上げられた馬の独壇場じゃないすか。外厩×外人騎手、って」
その軽くも現実をよく捉えた言葉に、渉はため息をつく。
《……とにかく、明日にはそっちに着くからな。うちの馬たちをじっくり見させてもらう。康成さんにもそう伝えといてくれ。悪いな》
そう言うと、渉からの電話は切れた。
◆◆◆
その日、渉は久しぶりに牧場敷地内の離れに足を運んだ。父・勇の様子を見に行くためだ。
「おじいちゃんも、もっといい家に住めばいいと思うんですけどね。何もこんな牧場の中に小屋を作らなくたって。体に良くないですよ」
一緒についてきた息子・徹がそっと言う。昔の零細牧場の頃ならともかく、今や短距離界に名を轟かせる実力派のオーナーブリーダーである。牧場には多額の賞金が入っているというのに、勇は一人で小さな掘っ立て小屋に住んでいる。もうすぐ81になるというのに。
月に一回くらいは事務所兼自宅の方にやってくるが、それは息子や孫に会うためではない。事務所の2階——展示室に行き、"あの日"に思いを馳せるためだ。1988年、第10回新潟大賞典(G3)。ガラスケースに収められた優勝レイとゼッケンに、色褪せた口取り写真。そしてそこに写らなかった亡き戦友……
クロノレーシング創始者であり、初期の黒木牧場を支えてくれていた日系アメリカ人のジョージ・ブラック。新潟大賞典のその日に自動車事故で死亡し、牧場初の重賞制覇の瞬間に立ち会うことは無かった。
「"昔の黒木牧場"に浸っていたいんだろ」
渉は放牧地を駆ける若駒を横目で見ながら言った。
「あの日の事故から、すぐに経営は俺に引き継がれたからな。親父にとっての黒木牧場は、ジョージさんが生きてた頃のちっぽけな牧場なのさ。今みたいな日高の星じゃない」
「でも、ただの生産牧場からオーナーブリーダーになったのは、ジョージさんがうちのおじいちゃんにって遺したお金が元手なんでしょう?じゃあ、今の黒木牧場だってジョージさんの遺志と言えるんじゃ……」
「そんな簡単にはいかないだろ」
息子の徹は当時のことを知らないからとはいえ、渉はつい言葉に力がこもった。
「何せあの日までずっと一緒に歩んできたんだ。それがいきなり片足もげて、義足ができました、はいまた同じように歩いてくださいとはならないよ。失われた片足は戻らないんだから、全く一緒ってのは無理だ。牧場も然りだろ」
「……すみません」
ごもっともと感じたのか、徹は大人しくなった。
徹が生まれたのは"あの日"から10年も経った1998年である。その頃には牧場は完全にオーナーブリーダーとして生まれ変わり、クロノレーシングの名義も個人馬主から一口クラブに変更されていた。勇が事故当時のことを全く孫に話さなかったため、徹はかつての牧場を知らずに育ってしまった。その弊害なのか、時折牧場の方針について揉めることがある。
◆◆◆
「お……お前ら、来たのか」
勇は小屋の中で本を読んでいたが、息子と孫の訪問に気づくとゆっくりと立ち上がった。足元がおぼつかない。
その老いっぷりに、渉は不安を通り越して悲しさすら憶えた。年齢だけでは説明がつかない程、昔とは似ても似つかぬ覇気の無い姿。
あの事故が起きる前の父は、それはもうエネルギーに満ち溢れていたのだ。30で故郷の大牧場を離れ単身アメリカへ渡航。そこで出会ったジョージと手を組み、日高に小さな牧場を開いた。数こそ少ないがいい馬を生産し、ようやく大きな勲章に手が届いたと思えば、同時に戦友を失った……
「ちょっと報告がありましてね」
渉は無理に明るい笑顔をつくると、シャツの胸ポケットから1枚の航空券を取り出す。そして単刀直入に——
「今年、うちの牧場からクラシックに出走する馬がいます。馬主として一緒に現地に行ってください」
息子の言葉に、勇は一瞬ぎょろりと目をむいたように見えた。精力的で馬一筋で、おっかない——昔の父に戻った気がして、思わず渉は目をそらす。
だがその目の光は、すぐにふっと消えてしまった。
「何で俺が行くんだ。今の黒木牧場はお前たちのものだろ。行くなら徹と行ってこい」
「徹も行きますよ。その上であなたも行くんです」
「俺が?こんな枯れたジジイがかい」
「そうです。何たってクラシックですから……一生に一度の晴れ舞台です、見に行ってやってください」
勇はそれでも、まだ決心が付かないようだった。もう自分には関係ないことだと言いたげに目を伏せる。
「オドリコの玄孫が出ますよ」
勇の目が、再びぎらりと光る。
「あなたが生産した、クロノオドリコの玄孫です。クロノドラクロワにスターフィーユ。牧場に初めての勲章をもたらした馬の子孫が、クラシックに出るんですよ」
父の目の光は、今度はすぐには消えなかった。渉はしめたとばかりにさらに続ける。
「片方がね、似てるんですよ。オドリコに」
「直線で躍動する黒い馬です。オドリコのような馬——見たくありません?」
勇の脳裏に、38年前の記憶が鮮明に映し出される。
当時25歳の若手騎手・栗林康成を背に、旧・新潟競馬場の直線を駆け抜けた一頭の黒い馬。"スーパーカー"と異名をとった母父Dancing Heroのように、軽やかに気品ある走りを見せてくれた愛馬。
それは同時に忘れたい記憶でもあった。だが悲しいことにホースマンとしての性なのか、勇の心は間逆のことを呟いている。
勇はタンスに向かって歩き出した。もうさっきのような弱々しい歩様ではなかった。
「……パスポートはどこだったかな」
「ちょっと、ボケてるんじゃないでしょうね。国内なんだからいらないでしょ」
「わかってるよ、冗談だよ」
父の言葉に、渉は「これは失礼しました」と言いながら軽く拳を握った。
クロノオドリコ(Chrono Odoriko)
1983年生 牝 青毛
父:ダンスインザムーン
母:ダンシングクロノ
母父:Dancing Hero
生産牧場:黒木牧場(浦河町)
馬主:クロノレーシング
勝負服:黒、白二本輪、白袖灰一本輪
戦績:22戦5勝(5-2-4-11)
主な勝ち鞍:88'新潟大賞典(G3)




