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直線659  作者: 伊野部俊
5R【"妹"、戦う】
53/61

【チューリップ賞②】咲いた、咲いた




2026年3月1日(日)。

花は桜木、駆けるは乙女。3歳牝馬の花形が集う晴れ舞台——桜花賞。そのトライアルレース、チューリップ賞(G2)のパドックはいつもより多くの観客で埋め尽くされていた。重賞ということを考慮しても明らかに熱が違う。その理由は……


④ドンナモンジャイ 1.1

⑨スターフィーユ  8.6

⑪リリーバカラ   11.3


デビューから牡馬を蹴散らし無傷の3連勝をきめた怪物牝馬、ドンナモンジャイ。2月の共同通信杯で男馬をなぎ倒したにも関わらず、中2週でこのチューリップ賞にまで参戦してきた。案の定、オッズは1倍台でぶっちぎりの1番人気である。


大きく離されてはいるものの一応2番人気につけたのは、阪神JF3着のスターフィーユ。突出した強みはないが、3歳春で既に6戦目と経験豊富なことや阪神1600mを一度走っていること、それに鞍上共々"善戦マン"なことが評価され、とりあえず買っときゃ金は増えるだろう的な理由で支持されていた。



◆◆◆


《全国の競馬ファンの皆様、お待たせいたしました。阪神競馬場、本日のメインレースは桜花賞トライアル、第33回チューリップ賞(G2)です。実況は私三角(みすみ)、解説は元JRA騎手で2007年にレッドファントム号と桜花賞を制されました、円山周二(まるやましゅうじ)さんにお越しいただいています。円山さん、よろしくお願いします》


《はいはい、よろしくお願いします。いやぁ、G2とはいえなかなかのお客さんが来てるようですね。今日の阪神は何人くらい入ってるんでしょう》


《手元の情報によりますと……15時現在、約3万人のお客様が来場されているようです。これはもうG1並みですよ》


《やっぱり皆さんのお目当てはあの馬ですか?ほら、あのドヤ顔のお嬢さん》


《そのようですね。現在単勝1番人気はドンナモンジャイで1.1倍、その後2番人気に昨年の阪神JF3着の実力派、スターフィーユが8.6倍で続いています。ただ円山さん、このオッズの差がもう……物語っていますよねぇ》


《うーむ、スターフィーユとて決して悪い馬では無いんですがね。これまでの5戦で全て馬券に絡んでいますし、レースの上手さはドンナモンジャイにも負けていないと思います。ただ、どうしても器用貧乏というのが気になります。惜しい馬ですよね》


《確かに。惜しいといえば、春本番への収得賞金という点を考えると……実はこの馬、結構危ない状況だったりしますが》


《ええ、ええ。そうなんですよ。去年からクラシックのボーダー賞金に、新馬戦や未勝利戦の金額が含まれなくなりましたから。現時点でスターフィーユが勝っているのは未勝利戦だけで、あとはアルテミスステークスで2着ですか。他に重賞で3着が2回ありましたけど、3着だと収得賞金が出ないんですね。ですから、実質アルテミスステークスの2着でしか賞金を積めていない状況です》


《となると、今回のトライアルレース……陣営としては、何としても優先出走権を取りたいところでしょう》


《そうでしょうね。来週のフィリーズレビューは千四ですし、さすがにこの馬には短い。まあ、阪神の千六は去年走ってますから大丈夫ですよ。1着は厳しくても3着以内には必ず来ます。何たって、鞍上が安定感の鬼ですから》



◆◆◆


10Rの口取りを終えて取材対応を済ませた柚木慎平(ゆのきしんぺい)は、クロノレーシングの勝負服に着替えながら必死で考えた。レースまではあと30分しかない。


(どうしたら優一に勝てる?)

(どうしたらあのドヤ顔の馬を倒せる?)


馬主(うまぬし)・黒木渉からの要望は、誠を通じて事前に聞かされている。何が何でも3着までに入れ、とのこと。ここで優先出走権を取れなければ、賞金が足りず桜花賞に出られない。


複勝率50%、掲示板率驚異の80%を誇るこの男にとって、2番人気を馬券圏内に入れるなど、余程のことが無い限り失敗することはない。陣営も今回は安心して見ているようだが、柚木だけはどこかモヤモヤしていた。3着までという甘い基準が不満なのである。


(フィーユは2番人気なんだぞ?それなら、1着か2着じゃなきゃダメだろう)

(いや——2着でもダメだ。1着しかない。ここで負けたらこの先ずっと惰性で走ってしまう)

(だけど、優一とあのドヤ顔の馬がいる……)


頭に浮かぶのは、誠に並ぶもう一人の親友のゆるい表情。初見では到底勝負師に見えない、ふわふわしたお人好しな男。柚木はパドック裏に向かいながら、必死に頭の中で条件を整理した。


(①優一は牝馬の扱いがめちゃくちゃ上手い)

(今日のレースは牝馬限定戦=優一は多分勝つ)

(②優一は阪神と京都に強い)

(今日のレースは阪神芝1600=優一は多分勝つ)

(…………)

(あれ?詰んだ?)


一瞬思考が止まりかけたが、柚木はぶんぶんと頭を振る。どんなことでもいいからあのコンビの弱点を探し、何とか勝つ方法を考えなければ。自分たちにあり、あのコンビには無い強みが必ず何かあるはずだ。……多分。


柚木は一息つくと、5枠・黄色のジョッキーヘルメットをかぶった。



◆◆◆


スターフィーユは、厩務員の桃田に引かれながらパドックを歩いていた。1ヶ月の放牧を挟んだものの、体調はすこぶる良く重さも感じさせない。ドンナモンジャイという圧倒的な存在がいるので目立っていないが、状態はこれまでの中で最も良かった。


放牧中に"お兄ちゃん"ことクロノドラクロワと駆けっこをしていたおかげで、何となく走りに軽さが出てきた気がする。得意のピッチ走法にも磨きがかかり、自在にギアを切り替えられるようになった。


(うわぁ、沢山お客さんがいる)

(でも緊張しないや。見てるの、私じゃないみたいだし)


観客の目は、悠々と歩く1頭に向けてせわしなく動いている。自分は2番人気とはいえ、どうせいつものように複勝やワイドばかり買われているのだろう。所詮はヒモ扱いである。そんな立場だから、リラックスしてパドックを周回できていた。


「止まーれー」


発走係の合図がかかると、一斉に騎手たちがパドックに入ってきた。フィーユも歩みを止めて静かに柚木が来るのを待つ。新馬戦の時はさすがにそわそわしていたが、早いものでもう6戦目だ。重賞にも出たし、G1の舞台にだって立った。もっとも勝つことはできなかったけれど……


実はその"勝てない"ことについて、以前から引っ掛かっていることがあった。


普通負ければ、観客は少なからず罵りの言葉を吐く。しかし自分に賭けてくれた人たちは、なぜか胸を撫で下ろすのである。2着になっても3着になっても、あまり落胆されることが無かった。暮れのG1で敗れたときは悔しくてたまらなかったのに、観客の表情は決して曇っていなかった。「こんなもんだろう」「よくやった」とでも言いそうな、あの顔……


(負けてお客さんが怒るのは、期待を裏切ったから)

(じゃあ、負けても怒られない私は期待されてない……?)


自分が"惜しい馬"なことは知っている。そして自分の背に乗るものが、輪をかけて"惜しい男"なことも……


「あ、柚木さん。よろしくお願いします」

「ああ」

「フィーユ、絶好調ですよ。お客さんたちはドヤ顔の馬に夢中みたいですけど……勘弁してほしいっすよね。賞金あるのにトライアル出てくるとか」

「何か考えがあるんだろ。優一の親父さんだって、馬の力を見せつけたくてわざわざ連戦させるような人じゃない」

「ええ?そうかな。一発やっちゃってくださいよ」


桃田の言葉に無言で頷くと、柚木はフィーユの背に跨がる。目線が一気に高くなる。


パドックの反対側では、小森優一がドンナモンジャイに騎乗していた。競馬学校時代から変わらない柔らかな笑みを浮かべ、馬の首を撫でている。こちらに気づいたのか、軽く会釈をしてきた。


「うわ、何なんですかあの平和主義。ああいう"みんな頑張りましょう"みたいなの、八方美人で好きじゃないんですよねぇ。どうせ勝つくせに」

「……おい。あまり言うなよ、俺の同期だぞ」


たしなめながらも、柚木の目には力が篭っていた。

この一強ムードに切り込めるとしたら自分たちしかいない。フィーユも相棒の覚悟のようなものを感じ取ったのか、より一層踏み込みに力をこめる。乙女たちの姿は、地下馬道へと消えていった。



◆◆◆


15時30分。


《さあ——各馬、ゲートインを終え……華の戦は桜花賞、その舞台に駒を進めるのはどの馬でしょうか。一強か、それとも反撃ののろしを上げるか——第33回チューリップ賞、スタートしました!!》


《大本命④ドンナモンジャイ、スムーズにゲートを出ました!!2番人気⑨スターフィーユも問題ありません。しかし④ドンナモンジャイ、緩やかに下げます。やはりここは最初控える作戦か。⑨スターフィーユも中団で一度様子を見る、が……》


その時、柚木はスタートからいきなり出鞭(でむち)を使い前へ前へ行くよう促した。3ヶ月前、馬群に控えて敗れた阪神JFの時とはまるで違っていた。


(えっ?いきなり飛ばすの!?)

(何で?まだレース始まったばかりだよ?慎平さん)

(ど、どうしよう……)


フィーユは一瞬迷った。周りの馬は大きくペースをあげることなく、固まりになって走っている。早めに行こうと言いたいのだろうか。


だが相棒はさらにプレッシャーをかけてくる。今度は顔の横で鞭をヒュンヒュンと鳴らし、馬を鼓舞する——見せ鞭をしてきた。この気迫からすると、どうも"念のため早めに行こう"ではないらしい。"行け!!今行け!!"と伝えている。


(……わかった)

("今行け!!"なんだね)


フィーユは迷いを捨て、素早く、細かくターフを蹴り上げた。犬のように全身を伸び縮みさせて走る——回転襲歩(かいてんしゅうほ)と呼ばれる、瞬発力とスピードに秀でた走り方である。


《あ!?あっと!!⑨スターフィーユ今日は積極的に行った!!先頭は⑦アマルトゥブシンですが、それに続いて早め2番手に付けた⑨スターフィーユ!!》



◆◆◆


馬群は先頭から最後方まで、20馬身ほどの長い固まりになって走る。縦長になっている影響で、先頭集団と後方集団では明らかにペースが違っていた。


《さて先頭からみていきましょう。単独1番手は⑦アマルトゥブシン、そのあと半馬身離れて⑨スターフィーユ。差がなく3番手集団は外に①フレンチダイナー、真ん中⑧マリアグローブ、内⑪リリーバカラと続きます。前はちょっと速いか、ただ今600mを通過しましたが——34.2秒!!やはりハイペースです》


先頭集団はスターフィーユの仕掛けもあってか徐々にスピードを上げている。


《対して後方集団はどうでしょうか。最後方は⑬ダンスバレリーナ、1馬身前は②ダイススタッキング、そして後方3番手、1番人気④ドンナモンジャイはまだ仕掛けない!!鞍上牝馬マイスター小森優一、まだ行くなと相棒をなだめます。前半800mを過ぎましたが——先頭集団とは15馬身ほどの差!!これは大……丈夫でしょうか?間に合うのか?》


後方集団はゆったり、淡々とレースを進めている。だが決して遅いペースではない。馬群が長く前が飛ばしているためスローに見えるが、十分届く位置なことを小森優一は知っている。


(前、結構飛ばしてるやん)

(このままやと坂のところでバテてまう)


このコースの終盤には、400mの直線に加えて高低差1.8mの急坂が待ち受けている。単にスピードに秀でるだけでは、パワーが足りずゴール前で止まってしまうのだ。


(前走っとる馬たち、ほぼスピード型の子やからな。マイルやし、最後まで粘りそうなパワータイプの子、おらんなぁ)

(あ……ちゃうわ。1頭おる)

(慎平ちゃんが乗ってる、ちっさくて白い子。あの子は割と根性ありそうやな……レースも上手いし)


2番人気のスターフィーユ。優一の方でも、死角無しと評判のドンナモンジャイに一矢報いるならこの馬だろうと踏んでいた。とにかくレースに無駄がなく、上手い。馬だけで走らせたら、恐らくドンナモンジャイは負けるだろう。突出した強みがないと言われているが、あの抜群の安定感と器用さこそ天性の才能だと優一は考えていた。


(慎平ちゃん、早めに仕掛けて他の馬をバテさせるつもりなんやろな……)

(けど、引っ掛からへんよ。仕掛けるのは4コーナー過ぎてからや)

(坂のところで——一騎討ちといこか!!)



◆◆◆


4コーナーを過ぎて、各馬は200mの下り坂を勢い良く駆け下りる。ここで弾みをつけておき、最終関門の急な上り坂に備える算段だった。後続馬も一気にギアを上げ、20馬身ほどの長い馬群がどんどん縮んでいく。ドンナモンジャイも優一の鞭を合図に、ついに動きだした。


《さあ——残り400を切って先頭⑦アマルトゥブシンはちょっと失速気味、その後ろ2番手⑨スターフィーユ、①フレンチダイナーに⑪リリーバカラと続くが……ここで⑨スターフィーユ、じわりじわりと差を詰め⑦アマルトゥブシンを抜いた!!現在先頭⑨スターフィーユ!!このまま押しきるか、後方集団とはまだ余裕がある!!》


(抜いた!!)

(あとちょっと!!)


残り200mで、フィーユは先頭に立つ。だがここからが本番である。後ろから割れんばかりの歓声とともに、親友を乗せた怪物牝馬がやってきた。下り坂の恩恵があったとは言え、一瞬で15頭をごぼう抜き。さらに急坂も難なく駆け上がり、あっという間に先頭のフィーユに並ぶ。そして次の瞬間、わずかに前に立った。


(うそ!?速い速い速い)

(何で!?さっきまで後ろにいたのに)

(どうしよう、慎平さん)


絶体絶命だ。頼れるのは柚木しかいない。きっと彼なら、奇策を考えているのだろう。この怪物牝馬と牝馬の達人を破れる、とんでもない作戦を……


と思ったが、柚木はそんなことは考えていなかった。鞭で気合いを入れ、少しでも走りやすく手綱をさばいてくれるものの、たったこれしか言わない。


「フィーユ!!頑張れ!!」

「お前は勝てる!!いいから走れ!!」

「悔しいだろ!!その悔しさをぶつけろ!!」


(えーーーっ!!!)

(それだけ!?根性論!?)


だが実際、悔しさと場数だけは誰にも負けていない。敗者としての苦い経験こそ、ドンナモンジャイには無いスターフィーユの強みだったのだ。


フィーユはただひたすら、ひたすら大地を蹴り上げ首を伸ばした。疲れはてた自分の体に、理屈では説明できない最後の底力が宿ることを信じて。


まだ差せない。まだ差せない——差せる。差し返せる!!——差した!!フィーユは、ゴール板を駆け抜けていた。


《やりました!!悔しさバネに驚異の差し返し!!勝ったのは⑨スターフィーユ、無敗の女傑に土をつけ、嬉しい嬉しい重賞初制覇!!勝ちタイムは1分33秒5、上がり3Fは34秒1、上がり4Fは45秒8という結果になりました……》



◆◆◆


(勝っ……た)

(え?勝った?)

("お兄ちゃん"が負けた馬に、私が勝った)


息を整えながら周りを見渡す。耳をつんざくような悲鳴と歓声をあげるスタンド、「おめでとう」と手を差しのべてくる他のジョッキーたち。その中に、たった数十秒前まで死闘を繰り広げていた小森優一もいた。興奮した様子で、競馬学校時代のルームメイトに声をかける。


「慎平ちゃん!!おめでとさん」

「あ、ああ……」

「息上がっとるやないか。水飲んだ方がエエよ」

「あとで飲む」

「いやー、差し返されるとは思わんかった。強いなぁ!!あのままイケると思ったんやけどな。府中の坂に比べたら阪神はきついねん、さすがにこの子も堪えたみたいやね」


ドンナモンジャイもいつもより発汗している。それは単なる疲れか、初めて負けたことへの悔しさと戸惑いか……


「でもこれで、この子もコースを覚えたな。本番では負けへんよ——うちの子が咲かすのはチューリップやない。桜や、桜。覚えとき?」


そういうと牝馬マイスターは、いつも通りのふわふわ笑顔で引き揚げていった。


お待たせして申し訳ございません。

次回は4/7頃に投稿します。

ストックが無いので出来次第アップしていきます

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