EP02. 1億ゴールドの命 - #3 僕の声、聞こえますか?
#3 僕の声、聞こえますか?
ジヒョの表情が固まった。
「何?」
文章は消えなかった。
冷たく、はっきりと虚空に打ち込まれていた。
[30分以内に復活できなければ、魂は消滅します。]
ジヒョはゆっくりと文章を読み直した。
復活。
消滅。
30分。
冥府へ行くのではなかった。
冥府の使者が迎えに来るのでもなかった。
もう一度列に並ぶのでもなかった。
ただ消えるという意味だった。
ジヒョは慌てて自分の体のほうへ近づいた。
「ハート」
ハート型の物は死体の服の裾の近くに落ちていた。
強盗たちが玩具だと言って捨てていった物。
ジヒョはそれへ向かって手を伸ばした。
指がそのまま通り抜けた。
彼は止まった。
もう一度つかもうとした。
また通り抜けた。
「……死んだら使えない物だったのか?」
ジヒョは歯を食いしばり、何度も手を伸ばした。
指はハート型の物を通り過ぎ、床まで抜けていった。
感触もなかった。
つかめもしなかった。
押すこともできなかった。
当然、壊すこともできなかった。
「いや」
ジヒョの声が震えた。
「壊せば来るって言っただろ」
彼は虚空を見上げた。
「壊せば来るって言っただろ!」
返事はなかった。
ハート型の物はすぐ目の前にあった。
それなのに触れなかった。
ジヒョはその時ようやく、本当に危険なのだと気づいた。
死んだだけで終わりではなかった。
今回は消えるかもしれなかった。
ジヒョは自分の死体を見下ろした。
「だめだ。ここで終わるわけにはいかない」
彼は路地の外へ体を向けた。
市場の音が聞こえた。
人がいる。
誰かは自分を見えるかもしれない。
誰かは自分の声を聞けるかもしれない。
ジヒョは路地の外へ飛び出した。
正確には、走っている感覚だった。
足が地面を踏んでいるわけではなかった。
体が前へ押し出されるように動いた。
それでも気持ちだけは全力疾走だった。
大通りの近くへ出ると、人々が見えた。
荷物を持った商人。
パンの籠を抱えた女。
荷車を引く男。
剣を下げた冒険者のように見える人。
ジヒョは一番近い人へ駆け寄った。
「すみません!」
商人は止まらなかった。
「すみません! 人が死んでいます!」
商人はジヒョのいる場所をそのまま通り過ぎた。
肩が触れそうだった。
だが、触れなかった。
商人の体がジヒョを通り抜けた。
ジヒョはその場で凍りついた。
商人は何も感じていない顔で通り過ぎていった。
「……見えない?」
ジヒョはもう一度叫んだ。
「僕はここにいます!」
誰も振り返らなかった。
「路地で人が死んでるんです!」
通りかかった女が子供の手を握り、市場のほうへ歩いていった。
荷車引きは馬に悪態をつきながら車輪を押した。
パン売りは値段を叫んだ。
「焼きたてのパン二つで1ゴールド!」
ジヒョはその声に一瞬止まった。
「二つ?」
あの世への路銀みたいに口の中へ押し込まれた自分の全財産が思い浮かんだ。
女神は言った。
何でも買えると。
ジヒョは乾いた笑いを飲み込んだ。
今はそれを問い詰めている場合ではなかった。
その時、目の前に文字が浮かび上がった。
[残り時間:25分]
数字が減っていた。
ジヒョは虚空の文字をにらんだ。
「教えてくれるなら、方法も一緒に教えてくれよ」
システムウィンドウは答えなかった。
ただ冷たく浮かんで、それから消えた。
ジヒョは道端を見回した。
「衛兵」
彼はつぶやいた。
「衛兵がいるはずだ。街なんだから」
幸い、遠くに槍を持った男が見えた。
革鎧の上に、街の紋章が入った布をかけていた。
衛兵のように見えた。
ジヒョはそちらへ走っていった。
「衛兵さん!」
衛兵はあくびをしていた。
「衛兵さん! 路地に死体があります!」
衛兵は反応しなかった。
「僕が死にました!」
言ってから、自分でも変だと思った。
だが事実だった。
ジヒョは自分の胸を指した。
「僕がたった今死んだんです!」
衛兵は別の通行人に言った。
「今日は市の日だから人が多いな」
通行人が答えた。
「スリに気をつけないといけませんね」
「路地のほうは避けるように言っておけ。最近あの辺りが騒がしい」
ジヒョはぎくりとした。
「路地のほうは避けるように?」
それを知っていたなら、どうして誰も路地を見ないのか。
どうして誰も自分を助けなかったのか。
ジヒョは衛兵の前で手を振った。
「ここです。ここ! まさにその路地です!」
衛兵は何も見えていない顔で、通り過ぎる人々を見ていた。
ジヒョはもどかしさに声を張り上げた。
「まだ消えてないんだって!」
声は虚空に散った。
誰にも届かなかった。
ジヒョは再び人々の間へ飛び込んだ。
「僕を見てください!」
誰も止まらなかった。
「聞こえる人はいませんか?」
肩が通り抜けた。
腕が通り抜けた。
荷車の取っ手も、荷物の包みも、人々の服の裾も、全部ジヒョを通り抜けた。
ジヒョは道の真ん中に立った。
市場の音はすべて生きていた。
値を呼ぶ声。
値切る声。
笑い声。
足音。
そのたくさんの音の中に、ジヒョの声だけがなかった。
「僕はここにいるのに」
その時、システムメッセージがまた浮かび上がった。
[残り時間:20分]
ジヒョはしばらく何も言えなかった。
ついさっきまでは、誰かが聞いてくれると思っていた。
商人も聞かなかった。
通行人も聞かなかった。
衛兵も聞かなかった。
人々は生きている人間の言葉だけを聞いた。
死んだ人間の言葉は、どこにも届かなかった。
ジヒョはゆっくりと路地のほうを振り返った。
あの奥に自分の体があった。
ハート型の物もあった。
口の中には1ゴールドがあった。
死んだ人間がもう一度生き返るなんてありえるのか?
異世界なら復活する方法があるのかもしれなかった。
だが体に触れられなかった。
ハートを壊せなかった。
人々に知らせることもできなかった。
「終わりなのか」
言葉が口から出ると、さらに怖くなった。
ジヒョは虚空に浮かぶ自分の手を見下ろした。
手はぼんやりしていた。
さっきよりもっと薄くなったような気がした。
彼はもう一度叫んだ。
「誰でもいいから、お願いだから聞いてくれ!」
誰も振り返らなかった。
ジヒョは歯を食いしばった。
「聞こえたふりだけでもしてくれ!」
子供が一人、ジヒョを通り抜けていった。
子供は何も感じず、母親の手を握って走っていった。
ジヒョはその場に立ち止まった。
「本当に誰にも聞こえないんだな」
聞こえること自体が、ありえないことだった。
その言葉を最後に、力が抜けた。
死んだ時より、誰にも自分の声が届かないという事実のほうが冷たかった。
その時、大通りの向こうから二人が歩いてきていた。
前には体の大きな男がいた。
肩幅が広く、腹も厚かった。
髭はぼさぼさに伸び、顎と頬を覆っていた。
腰には古びたエプロンを巻いていて、エプロンには小麦粉の跡と油の染みがついていた。
片手には紙包みを持ち、もう片方の手には大きな買い物籠を持っていた。
どう見ても食堂関係の人だった。
その横には、小さく素早そうな人がついてきていた。
体は小さかったが、足取りは軽かった。
荷物を持っているのに、足音がほとんどしなかった。
ジヒョは何気なくそちらを見て、目を止めた。
耳が違った。
人間の耳があるはずの場所に、尖って毛の生えた耳が上へ伸びていた。
動きも不思議だった。
人間の耳のようにくっついているのではなく、周囲の音に合わせて少しずつ向きを変えていた。
動物の耳だった。
犬に似た耳。
「獣人?」
ジヒョが小さくつぶやいた。
小さく素早そうな獣人は、大柄な男の横で荷物を持ち直した。
その時、大柄な男が足を止めた。
彼は市場のほうではなく、ジヒョが死んだ路地の奥を見ていた。
「おい、タウロ」
小さく素早そうな獣人が顔を上げた。
「はい、ボス」
「あの奥で光るもの、見えなかったか?」
タウロが路地のほうを見た。
耳が少し動いた。
「いいえ。僕は見ていません」
「そうか?」
大柄な男は目を細めた。
「何か奥にある気がするんだが」
タウロが男をじっと見た。
「ボス、またお金の匂いを嗅ぎつけたんですか?」
「金の匂いって何だ」
「この前もそうおっしゃって、ゴールドをたくさん拾ってきました」
「運がよかっただけだ」
「行ってきてください。僕はここで荷物を見ています」
大柄な男は紙包みをタウロに渡した。
「ちょっと見てくる」
ジヒョはその言葉を聞いた瞬間、頭がはっきりした。
あの路地の中には自分の体があった。
そしてあの男は何かを見た。
光るもの。
1ゴールドなのか、血のついた服のボタンなのかは分からなかった。
だが初めてだった。
誰かが路地の奥を見ようとしていた。
ジヒョはほとんど飛びつくように男へ近づいた。
「そうです! そっちです!」
男はジヒョを見ないまま、路地の入口へ歩いていった。
ジヒョはその横で叫んだ。
「奥に僕の体があります! 人が死んでいます!」
男は止まらなかった。
聞こえていないようだった。
ジヒョの顔が崩れた。
大柄な男はそのまま路地の中へ入っていった。
タウロは大通りに残り、荷物を守っていた。
路地の中は外よりずっと静かだった。
市場の音は壁にぶつかってぼやけ、人々の足音も遠ざかった。
大柄な男は路地の奥へゆっくりと歩いていった。
ジヒョはその後ろをついていった。
「そこです」
大柄な男は答えなかった。
「もう少し奥です」
やはり返事はなかった。
男の視線は路地の地面のほうに固定されていた。
光るもの。
それはジヒョの口元にかかった1ゴールドだった。
男はその前で足を止めた。
そして、その時ようやく見た。
金色の硬貨の下。
血に濡れた服。
動かない若い男の体。
大柄な男の表情から、緩みが消えた。
「何だ」
彼は低くつぶやいた。
「誰か死んでるのか?」
ジヒョは男の前へ駆け寄った。
「僕です! 僕です! 僕はまだここにいます!」
大柄な男は答えなかった。
彼はジヒョの死体の横に膝をついた。
指先を首の近くへ持っていった。
少しして、男の表情が固まった。
「まだ魂の消滅前か?」
ジヒョはその言葉を聞いた瞬間、その場で固まった。
今、何て言った。
魂。
消滅。
この人は知っていた。
ジヒョはほとんどすがるように男へ叫んだ。
「はい! まだ魂は残っています! もうすぐ消滅するそうです!」
その時、システムメッセージがまた浮かび上がった。
[残り時間:15分]
ジヒョは虚空の文章を見て、さらに焦った。
「15分残っています! 僕、本当にもうすぐ消えるんです!」
大柄な男が頭をほんの少し上げた。
正確にジヒョを見ているわけではなかった。
だが、たしかに止まった。
何かを聞いた人のように。
大柄な男が低く言った。
「ん。そうか?」
ジヒョは息を止めた。
男は虚空のどこかへ向かって言葉を続けた。
「まだ残ってるってことか?」
ジヒョの目が大きくなった。
「え?」
彼は男の前で手を振った。
「見えますか? 僕が見えますか?」
男は目を細めた。
「見えはしない」
ジヒョの顔が崩れた。
「あ」
「だが聞こえる」
男が指で自分の耳の横をとんと叩いた。
「かすかにな」




