EP01. 異世界への出発 - #4 今回は合ってる
#4 今回は合ってる
「うん。あなたが望むスキルを一つ、グランドマスターにしてあげる」
廊下に静かな沈黙が降りた。
今回はジヒョもすぐには答えられなかった。
グランドマスター。
言葉の重さは分からなかったが、響きは大きかった。
会社で言えば、新入社員にいきなり役員権限を一つ与えるようなものだった。
いや、それより大きいかもしれなかった。
「グランドマスターとは、どの程度なんですか?」
「そのスキルの最高点。100.0」
数字が出た。
ジヒョは数字が出ると、ずいぶん気が楽になった。
数字は信じられた。
もちろん、この女神が言う数字なので完全に信用できるわけではなかったが、それでも言葉よりはましだった。
「スキルにはどんなものがありますか?」
「たくさん。見る?」
女神が手を振った。
虚空に数多くの名前が浮かび上がった。
《ソードマンシップ(Swordsmanship)》スキル。
《アーチェリー(Archery)》スキル。
《メイジリー(Magery)》スキル。
《ヒーリング(Healing)》スキル。
《ハイディング(Hiding)》スキル。
《アルケミー(Alchemy)》スキル。
《クッキング(Cooking)》スキル。
《フィッシング(Fishing)》スキル。
《ロックピッキング(Lockpicking)》スキル。
《アニマルテイミング(Animal Taming)》スキル。
《カートグラフィー(Cartography)》スキル。
そのほかにも、見慣れない名前がびっしり続いた。
ジヒョはその一覧をしばらく見てから、だんだん顔をこわばらせた。
多すぎた。
そして、知らないものが多すぎた。
《ソードマンシップ(Swordsmanship)》スキルを選べばいいのだろうか。
だが、体が弱ければ、剣を持っても死ぬことはありえた。
《メイジリー(Magery)》スキルを選べばいいのだろうか。
だが、マナのようなものがなければ何もできないかもしれなかった。
《クッキング(Cooking)》スキルを選べば、食堂への就職は楽かもしれなかった。
だが、魔王が目の前に来た時、チャーハンで解決することはできなかった。
ジヒョは少しだけ《フィッシング(Fishing)》スキルを見た。
「《フィッシング(Fishing)》スキルにもグランドマスターがあるんですか?」
「あるよ」
「《フィッシング(Fishing)》スキルのグランドマスターだと、何がいいんですか?」
「魚がよく釣れる」
「それは分かりました」
「大きい魚も釣れる」
「それも分かりました」
「たまに変なものも上がる」
ジヒョはそれ以上聞かないことにした。
聞いてはいけない気がした。
今は何でも適当に選んではいけなかった。
人生を丸ごとやり直す状況だった。
何の説明も聞かずに契約書へサインするようなことは、会社でもしなかった。
しかもこれは、契約書より大きかった。
選び間違えれば、一生が台無しになる可能性があった。
ジヒョはゆっくりと言った。
「あとで選ぶことはできますか?」
女神がまばたきした。
「あとで?」
「はい。今は異世界のスキル体系を知りません。何がいいのか、何で金を稼げるのか、何が生き残るために必要なのか、何も分かりません」
「それで?」
「見てから選びます」
女神はしばらくジヒョをじっと見た。
「慎重だね」
「死んでみたので」
「それは説得力がある」
「それに、あなたを信じてすぐ選ぶには、前例が少しあります」
「その言い方、少し傷つくんだけど」
「事実です」
女神は唇を尖らせてから、うなずいた。
「いいよ。あとで選んでもいい。その代わり、一回だけ」
「スキルを一つ」
「うん。あなたが本当に必要だと思った瞬間、私を呼べば、その時に聞いてあげる」
「呼べば?」
「これで」
女神は手を差し出した。
彼女の手のひらの上に、小さな物が一つ置かれていた。
ハート型だった。
ピンク色。
きらきらしていた。
玩具みたいだった。
ジヒョはそれを受け取って、しばらく見つめた。
「これは何ですか?」
「私を呼ぶ物」
「これがですか?」
「うん」
「すごく軽そうに見えるんですが」
「かわいいでしょ」
「信頼感はありません」
「でも作動するよ」
ジヒョはハート型の物を指の間に挟んで回してみた。
安物のアクセサリーのようでもあり、子供の玩具のようでもあった。
「どう使うんですか?」
「壊せばいい」
「壊せば現れるんですか?」
「うん」
「もし壊したのに来なかったら?」
「そんなはずない」
「さっきも、すぐ戻るとおっしゃいました」
女神が静かになった。
ジヒョはハート型の物を慎重に握った。
信用はできなかったが、今はこれが唯一の呼び出し手段だった。
いい体。
二十歳。
女神の祝福。
スキル一つのグランドマスター選択権。
そして、女神呼び出し用のハート型の玩具。
ジヒョは頭の中で条件を整理した。
勇者の席は飛んだ。
だが、手ぶらで行くわけではなかった。
「分かりました」
ジヒョが言った。
「その条件なら、ひとまず受け入れます」
女神の顔が明るくなった。
「本当?」
「ひとまずです。問題が起きたらまた問い詰めます」
「あなた、すごく長く問い詰めるんだね」
「会社員でした」
「それと関係あるの?」
「大いにあります」
女神はそれ以上聞かなかった。
彼女は廊下のほうを指差した。
「じゃあ行こう」
ジヒョはハート型の物を手に握ったまま、廊下の前に立った。
廊下の向こうは相変わらず静かだった。
その先にどんな世界があるのかは分からなかった。
だが、もう選択肢はなかった。
冥府に戻るつもりはなかった。
女神を信じるつもりも、あまりなかった。
ただ、取れるものは取った。
その程度なら、今の状況では最善だった。
ジヒョは廊下の奥を見つめながらつぶやいた。
「よし」
そして小さく付け加えた。
「今度の人生は、契約書からきっちり見る」
廊下の奥へ足を踏み入れると、ジヒョの前に何かが浮かび上がった。
四角い窓だった。
半透明の窓。
会社で使っていたプログラムの通知ウィンドウに似ていたが、ずっと妙だった。
マウスもなく、キーボードもなく、モニターもなかった。
それなのに文字ははっきり見えた。
[異世界転生手続きを開始します。]
ジヒョは目を細めた。
「本当にシステムウィンドウが出るんだな」
女神は横でうなずいた。
「うん。便利でしょ?」
「便利かどうかは分かりませんが、少なくとも案内文はあなたより親切ですね」
「その話、ずっと続けるの?」
「たぶん」
女神は唇を尖らせたが、反論はできなかった。
システムウィンドウの文字が変わった。
[女神の要請により、転生対象者の外見が再構成されます。]
[現在の魂の記憶は維持されます。]
[基本肉体年齢は20歳に設定されます。]
ジヒョは最後の行を長く見た。
「20歳」
口に出すと、さらに気に入った。
30歳から20歳。
残業にやつれた体でもなく、酒でだらけた体でもなく、フグの内臓の汁を食べて死んだ体でもなかった。
新しい体。
新しい始まり。
その部分だけは悪くなかった。
[外見確認を進行します。]
その瞬間、ジヒョの目の前に自分の姿が映った。
鏡はなかった。
それなのに、自分がどんな姿をしているのか分かった。
背が高かった。
肩はほどよく広く、体は細めだが貧弱ではなかった。
顔は整っていた。
目元ははっきりしていて、鼻筋と顎の線はすっきりしていた。
妙に気品もあった。
会社近くのカフェでこんな顔を見たなら、ジヒョは心の中で思ったはずだった。
あの人は生まれた時から融資限度額が高そうだな。
女神がそっと尋ねた。
「どう?」
ジヒョは慎重に答えた。
「気に入りました」
女神の顔がぱっと明るくなった。
「でしょ?」
「これは認めます」
「やっと褒められた」
「褒めてはいません。結果の確認です」
ジヒョはもう一度、自分の新しい姿を見た。
勇者の体ではないと言っていた。
だが、このくらいなら普通の人としては過剰に良かった。
かっこよく、背も高く、若かった。
ジヒョはほんの少しだけ、これなら人生がまたうまくいくかもしれないと思った。
もちろん、その考えのすぐ後ろを魔王という単語が通り過ぎたが、ひとまず今は知らないふりをすることにした。
システムウィンドウがまた変わった。
[女神の祝福が適用されます。]
[転生後の世界適応補正が付与されます。]
[保留されたグランドマスタースキル報酬1回が登録されました。]
ジヒョは一行目を見た。
「女神の祝福」
「うん」
「効果は?」
「いいよ」
ジヒョは女神を見つめた。
「具体的に」
「ただ、いいの」
「それが説明ですか?」
「いいものはいいものだよ」
ジヒョはさらに聞きたかったが、我慢した。
どうせまともな説明は出てこなさそうだった。
彼は最後の行を見て、指で虚空を指した。
「これは重要です」
「分かってる」
「本当に保留されたんです。あとで僕が選びます。勝手に適当なスキルを入れないでください」
女神は少し心外そうな顔をした。
「私、そんなに適当にしないよ」
ジヒョは黙って女神を見た。
女神は視線をそらした。
「今回はしない」
「今回はという言葉も不安ですね」
システムウィンドウはまだ浮かんでいた。
[転生を進行しますか?]
下には二つの選択肢があった。
[承諾]
[拒否]
ジヒョは拒否のほうを少し見た。
「拒否したらどうなりますか?」
女神が答えた。
「冥府に戻らなきゃいけないんじゃないかな?」
ジヒョはすぐに承諾のほうを見た。
「承諾します」
「早いね」
「選択肢がゴミなので」
「言い方がちょっとひどいよ」
「状況のほうがもっとひどいです」
ジヒョは虚空に手を伸ばした。
指先が[承諾]に触れた瞬間、システムウィンドウが明るく光った。
[転生手続きが承認されました。]
[対象者をエルヴェリア王国首都エルヴェリアへ転送します。]
「エルヴェリア?」
ジヒョが尋ねた。
「うん。エルヴェリア王国。首都の名前もエルヴェリアだよ」
「王国名と首都名が同じなんですか?」
「うん。名前、きれいでしょ? 私が作ったの」
ジヒョは少しだけ女神を見た。
「安全ですか?」
女神はしばらく沈黙した。
ジヒョはその沈黙を見て、すぐ不安になった。
「どうしてすぐ答えないんですか?」
「おおむね安全だよ」
「おおむね」
「人が住んでいる場所だから」
「人が一番危険な時もあります」
「それはそうだね」
「同意しないでください」
ジヒョは額を押さえた。
転生前から何かすっきりしなかった。
だが、今さら止めることもできなかった。
その時、女神が突然手を叩いた。
「あ、そうだ」
ジヒョの体が固まった。
「また何を忘れていたんですか?」
「お金」
「お金ですか?」
「初めて行くならお金が必要でしょ」
ジヒョはしばらく女神を見つめた。
それは正しい話だった。
世界が変わっても金は必要だった。
その点だけは、女神が初めて現実的なことを言った。
「いくらくださるんですか?」
女神は手のひらを開いた。
その上に小さな硬貨が一つ載っていた。
金色の硬貨だった。
輝いていた。
ジヒョは硬貨と女神を交互に見た。
「一つですか?」
「うん。1ゴールド」
ジヒョは硬貨を受け取った。
虚空にメッセージが浮かび上がった。
[1ゴールドを獲得しました。]
ジヒョはそのメッセージを見て尋ねた。
「これはどのくらいのお金ですか?」
女神は何でもないように言った。
「大事なお金だよ」
「大事なお金というのは説明ではありません」
「初めて持つお金でしょ」
「感性ではなく相場を聞いています」
女神は少し考えた。
「何でも買えるよ」
ジヒョはまばたきした。
「何でも?」
「うん。何でも」
ジヒョは手に持った金貨を見下ろした。
金色の硬貨一つ。
小さいが、不思議とずっしりしていた。
何でも買える。
言葉だけ聞けば、ありえない話だった。
だが、異世界の物価はまだ分からなかった。
それに金貨だった。
金色に輝く硬貨。
少なくとも、最初の出発が完全な手ぶらではないという意味だった。
ジヒョは金貨を慎重に握った。
少し前まで床に敷かれていた不安が、ごく薄く落ち着いた。
女神を完全に信じるのは危険だった。
それはもう十分に学んだ。
だが金は違った。
金は手でつかめた。
金貨は手のひらの中で、確かな重さを持っていた。
最初の資金。
最初の財産。
二度目の人生の初期資金。
ジヒョはほんの少し気分がよくなった。
「大事に使ってね」
女神が言った。
ジヒョはうなずいた。
「それは自信があります」
「本当?」
「金を節約するのは会社員の基本です」
「それと関係あるの?」
「大いにあります」
その時、システムウィンドウの文字が再び光った。
[転生が開始されます。]
廊下の光が広がった。
空っぽの部屋も、壁も、天井も、女神も少しずつぼやけていった。
ジヒョは手の中の1ゴールドをぎゅっと握った。
20歳の体。
女神の祝福。
保留されたグランドマスタースキル選択権。
呼び出し用のハート型の物。
そして1ゴールド。
それがジヒョが異世界へ持っていく全てだった。
女神の声が遠ざかった。
「いってらっしゃい。またね」
ジヒョはぼやけていく視界の中で答えた。
「お願いですから、今回はちゃんと送ってください」
「うん。今回は合ってる」
女神はふと何かを思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ」
ジヒョの眉がぴくりと動いた。
「また何ですか?」
「異世界に降りたら、むやみに言っちゃだめだよ」
「何をですか?」
「私に会ったとか、女神の祝福があるとか、別の世界から来たとか、転生したとか」
女神は指を一本ずつ折りながら言った。
「そういうの」
ジヒョは一瞬、言葉を失った。
「どうしてですか?」
「間違えると、神への冒涜で死ぬこともあるから」
「はい……?」
その答えとともに、ジヒョは光の中へ吸い込まれていった。
そして最後に思った。
今回は合ってるという言葉が、どうしてこんなに不安なんだろう。




