EP01. 異世界への出発 - #3 どなたですか?
#3 どなたですか?
ジヒョは空っぽの部屋に一人残された。
女神は、ちょっとだけ待っていてと言った。
すぐ戻ると言った。
ジヒョは最初、その言葉を信じた。
部屋の中には何もなかった。
椅子もなく、時計もなく、窓もなかった。
壁と床と天井。
そして、部屋の片側へ続く廊下が一つ。
ジヒョは廊下のほうを見た。
「すぐ、か」
彼は腕を組んだ。
「会社でも『すぐ戻ります』って言う人は、だいたい戻ってこないんだけどな」
話しかける相手はいなかった。
それでも言葉は出た。
じっとしているほうが、もっと変だった。
勇者。
魔王。
転生。
単語たちが頭の中でばらばらに遊んでいた。
かっこよくて素敵な体に生まれ変わらせてくれるという話は悪くなかった。
正直、よかった。
問題はその後だった。
「報告書だけでもきついのに」
ジヒョは廊下のほうを見ながらつぶやいた。
「魔王本体を相手にしろって?」
彼は少し考えた。
魔王報告書。
魔王週間業務計画書。
魔王討伐推進スケジュール表。
そういう形なら、どうにかできるかもしれなかった。
だが、魔王を直接倒せというのは話が違った。
「戦闘は外注に出しちゃだめなのか」
当然、答えはなかった。
ジヒョはため息をついた。
そして待った。
どれくらい時間が過ぎたのかは分からなかった。
腹も減らなかった。
喉も渇かなかった。
眠くもなかった。
それは楽という意味ではなかった。
待つことから逃げる口実がないという意味だった。
その間、他の魂たちが部屋に入ってきた。
最初は一人、二人だった。
後になると、何人かずつ入ってくることもあった。
彼らはたいてい、きょとんとした顔で周囲を見回してから、廊下の向こうから聞こえる呼び声に従い、順番に消えていった。
「次」
「こちらへどうぞ」
「転生手続きを進めます」
魂たちは入ってきて、出ていった。
また入ってきて、また出ていった。
ジヒョより遅く来た魂が先に呼ばれた。
さらに遅く来た魂も、先に廊下の向こうへ渡っていった。
ジヒョだけが残った。
最初は、そういうものかと思った。
勇者に転生させると言っていたのだから、普通の魂たちより準備に時間がかかるのかもしれなかった。
ものすごくかっこよくて素敵な体に生まれ変わらせてくれると言っていたのだから、外見調整のようなものが必要なのかもしれなかった。
だが、魂たちが通り過ぎ続けるうちに、考えは少しずつ変わった。
これは準備に時間がかかっているのではなかった。
処理漏れだった。
会社で先に受け付けた仕事が後ろに回され、あとから入った仕事が先に処理される状況。
担当者が、ちょっとだけ待っていてくださいと言っておきながら、チャットを既読無視する状況。
ジヒョは廊下のほうをにらんだ。
「異世界も業務プロセスがこんな有様なのか」
答えはなかった。
廊下の向こうからは、たまに声だけが聞こえた。
「次」
「確認しました」
「こちらへどうぞ」
ジヒョは手を上げた。
「あの。僕も手続きを進めたいんですけど」
答えはなかった。
「僕、勇者だそうなんですけど」
静かだった。
「魔王を倒せって言われたんですけど」
やはり静かだった。
ジヒョは手を下ろした。
どれくらい時間が過ぎたのかは分からなかった。
ただ、ジヒョの中で忍耐がすり減っていることだけは確かだった。
その時だった。
廊下のほうを誰かが通り過ぎた。
ジヒョは何気なく顔を向けた。
女神だった。
間違いなく女神だった。
冥府の門の前で自分をさらってきたあの女。
勇者に転生させてくれると言ったあの女。
すぐ戻ると言って消えたあの女。
その女が廊下を通り過ぎていた。
ジヒョは一瞬、ぽかんとした。
待っていた人が戻ってきたのではなかった。
ただ通りかかった人だった。
まるでジヒョを知らない人のように。
まるでジヒョがここにいることも知らなかったかのように。
ジヒョは廊下のほうへ歩いて出た。
「あの」
女神は止まらなかった。
ジヒョの眉がぴくりと動いた。
彼は少し声を高くした。
「おい」
女神の足が止まった。
ジヒョは廊下の真ん中に立って言った。
「そこの女神」
女神はゆっくりと顔を向けた。
目が合った。
ジヒョは待った。
女神が自分を覚えている素振りを見せることを。
遅くなってごめんと言うことを。
準備に時間がかかったと言い訳でもすることを。
だが、女神は首をかしげた。
「ところで、あなた……」
女神はジヒョをじっと見つめた。
「どなたですか?」
ジヒョはしばらく口を閉じた。
女神は自分の周囲を一度見回した。
廊下には、彼女以外に女神らしい存在はいなかった。
それでも彼女は、不思議そうな顔をしていた。
ジヒョはゆっくりと廊下へ出た。
「僕はいつまで待てばいいんですか?」
「何を?」
「何を、じゃないですよ。僕をここへ連れてきたじゃないですか」
女神はジヒョを観察した。
初めて見る人を確認するように、顔を見て、肩を見て、また顔を見た。
その視線があまりにも他人行儀だった。
ジヒョはその瞬間、確信した。
この女神は覚えていない。
いや。
完全に忘れていた。
ジヒョは歯を食いしばった。
「勇者」
女神がぎくりとした。
「勇者?」
「はい。僕がその勇者だと言ったじゃないですか」
女神の顔に、ごく小さなひびが入った。
「あなたが?」
「はい」
「おかしいな」
「何がですか?」
「勇者はもう送ったんだけど」
ジヒョはそのまま固まった。
短い沈黙が廊下に落ちた。
「何ですって?」
「勇者はもう転生したよ」
「だから、その勇者が僕だって話じゃないんですか」
「違うけど」
女神はあまりにも自然に言った。
ジヒョはその自然さのせいで、さらに腹が立った。
「ちょっと待ってください。整理しましょう」
ジヒョは手で額を押さえた。
「あなたが僕を冥府の門の前から連れてきました」
「そうだった?」
「そうでした」
「うーん」
「そして、僕を勇者に転生させると言いました」
「私が?」
「はい」
「そうだったんだ」
「そうだったんだ、じゃなくてですね」
女神は目を泳がせた。
それから虚空を見始めた。
まるで見えない帳簿を開いたように、視線があちこち動いた。
最初は大したことではないという顔だった。
しかし、眉が少し下がった。
唇がわずかに開いた。
そして表情が固まった。
ジヒョはその変化を見逃さなかった。
「何か出てきたみたいですね」
女神は答えなかった。
虚空を見る目だけが、どんどん忙しくなっていった。
「本来の勇者の魂」
彼女が小さくつぶやいた。
「待機室」
ジヒョは目を細めた。
「はい。待機室」
「転生完了」
「誰が完了したんですか?」
女神はジヒョを見た。
今度は本当に困った顔だった。
ジヒョはその顔を見ると、むしろ心が冷たく沈んでいった。
よくない顔だった。
会社でもそういう顔を見たことがあった。
ミスをした人間が、まだミスを認める前の顔。
「まさか」
ジヒョが低く言った。
「僕じゃない別の人を送ったんですか?」
女神は答えなかった。
沈黙は答えより正確だった。
ジヒョは乾いた笑いを漏らした。
「わあ」
女神が小さく言った。
「あ」
「あ?」
「勇者が入れ替わったの?」
「それを今知ったんですか?」
女神は独り言のようにつぶやいた。
「どうりで、魔王を殺せと言ったら逃げて隠れてしまったわけだ」
ジヒョは顔を上げた。
「何ですって?」
「勇者じゃなかったんだ」
「今そこを納得するところですか?」
女神は指で虚空の何かを何度かめくった。
「つまり、本来はあなたが入るはずだった体があったんだけど、そこに別の魂が入って、その魂が勇者として転生して、あなたはここに残っていたんだね」
ジヒョは女神をじっと見た。
「整理がお上手ですね」
「うん」
「褒めてません」
女神は少し申し訳なさそうな顔をした。
本当に少しだけだった。
「じゃあ、仕方ないね」
ジヒョは不吉さを感じた。
「何が仕方ないんですか?」
「勇者の席はもう埋まっちゃった」
「それで?」
「あなたはまた冥府へ戻ればいいと思う」
ジヒョはしばらく何も言えなかった。
廊下は静かだった。
どこか遠くで、他の魂を呼ぶ声が聞こえた。
「次」
ジヒョはその声を聞いて笑った。
笑いが出たから笑ったのではなかった。
あまりにも呆れて、口が勝手に動いた。
「何だって?」
女神が慎重に言った。
「もう一度並べばいいんじゃないかな?」
「ふざけてるのか?」
女神がまばたきした。
「怒ってる?」
「怒らないと思いますか?」
ジヒョは一歩前に出た。
「フグの内臓を食べて死にました。冥府の門の前で列に並びました。あなたが連れてきました。勇者に転生させると言いました。待てと言いました。そしてすっかり忘れました」
女神の視線が少し横へ流れた。
ジヒョは指で床を指した。
「僕はここでどれくらい過ごしたのかも分からないまま待っていました。みんな呼ばれていくのに、僕だけここに残っていました。なのに今さら、間違えたから冥府へ戻れと?」
「もう勇者がいるから」
「その勇者も間違えて送ったんじゃないですか」
「そうだね」
「そうだね?」
ジヒョは呆れて、しばらく言葉を失った。
女神はその隙に小さく言った。
「でも、もう転生しちゃったから、引き抜くのは難しいよ」
「それが僕の事情ですか?」
「うーん」
「あなたの事情でしょう」
女神は口を閉じた。
ジヒョは女神をにらんだ。
冥府の門の前で見た時は、輝く存在だった。
今はただ、仕事を大きく台無しにした担当者に見えた。
神聖さはまだあった。
問題は、神聖さと業務能力は別だという点だった。
「僕は戻りません」
女神が顔を上げた。
「え?」
「冥府には行かないと言っているんです」
「どうして?」
「あなたが連れてきたから。あなたが約束したから」
「勇者の席はないよ」
「なら補償してください」
女神はジヒョを見つめた。
ジヒョも退かなかった。
空っぽの部屋と廊下の間。
忘れられた勇者と、忘れた女神が向かい合って立った。
ジヒョは一語一語はっきりと言った。
「僕はここで退けません」
女神はしばらく沈黙した。
彼女の顔から、明るい笑みが少しずつ消えていった。
今度は本当に考えている顔だった。
ジヒョはその顔を見ながら、心の中でつぶやいた。
今回は絶対に、そのまま流されない。
女神はしばらくジヒョを見ていた。
ジヒョも退かなかった。
廊下の真ん中で、二人は向かい合っていた。
片方は、人を連れてきておきながら忘れた女神。
もう片方は、忘れられた勇者候補。
沈黙が長くなると、女神が先に口を開いた。
「とりあえず落ち着いて」
ジヒョはすぐに答えた。
「嫌です」
「どうして?」
「落ち着いたら流されそうだからです」
女神は口を閉じた。
ジヒョは女神をにらんだ。
「僕が今、落ち着く理由は一つもありません」
「でも、怒っても解決しないでしょ」
「怒らなくても解決してなかったじゃないですか」
女神は少し視線をそらした。
それは認めているという意味に見えた。
「もう勇者の体には別の魂が入っているの。引き抜くのは難しい」
「では、そちらは勇者で、僕は?」
女神は少し考えた。
その短い沈黙が、ジヒョには答えのように聞こえた。
ない。
席がない。
処理方法もない。
ジヒョは乾いた笑いを漏らした。
「僕を魂の記録上の迷子にしたわけですね」
「迷子とまでは言わないけど」
「では何ですか?」
「待機処理漏れ?」
「もっと嫌なんですが」
女神は手を上げて、ジヒョをなだめるように振った。
「だから補償をあげるよ」
その言葉に、ジヒョの目つきが少し変わった。
怒りが収まったわけではなかった。
ただ、計算が始まった。
「補償というと?」
「勇者ではないけど、別の体に転生させることはできる」
「別の体?」
「うん。普通の人として」
「普通の人ですか」
ジヒョは眉間にしわを寄せた。
冥府の門の前で拉致され、待機室で忘れられ、勇者の席を奪われたのに、普通の人として送ってやるという話は、どこか損をする感じがした。
女神はその表情を見て、慌てて付け加えた。
「もちろん、ただ適当に送るんじゃないよ。いい体にしてあげる」
「いい体というのは、どの程度ですか?」
「かっこよくて、背が高くて、体も健康で、気品も少しあって」
ジヒョは少し腕を解いた。
「気品ですか?」
「うん。ぱっと見ただけで、人が簡単には見下せない顔」
「それは気に入りました」
女神の表情が少し明るくなった。
ジヒョはそれを見て、すぐに線を引いた。
「まだ許したわけではありません。条件を聞いている最中です」
「細かいね」
「やられたことがありますから」
女神は不満そうな顔をしたが、反論はできなかった。
ジヒョは考えた。
勇者ではないが、生まれ変わることはできる。
かっこよくて、背が高くて、健康で、気品のある体。
悪くはなかった。
正直に言えば、かなりよかった。
その時、重要な条件が一つ浮かんだ。
「年齢は?」
「望めば調整できるよ」
ジヒョの目が少し光った。
「二十歳は可能ですか?」
女神は大したことではないようにうなずいた。
「可能だよ。望めば一歳でも」
「それは結構です」
返事は早かった。
女神がまばたきした。
「どうして?」
「おむつからやり直す気はありません」
「かわいいと思うけど」
「残念がらないでください」
二十歳。
いい外見。
健康な体。
そのくらいなら、基本的な補償は確保したと言えた。
だが、まだ足りなかった。
ジヒョは女神を見た。
「それで終わりですか?」
「ううん。私の祝福もあげる」
「女神の祝福」
「うん」
「効果は?」
女神は少し止まった。
「いいよ」
ジヒョの目が細くなった。
「具体的に」
「運がよくなって、体が安定して、システム適応も早くなって、まあ、そういう方面?」
「まあ、そういう方面という言葉が一番不安です」
「いいものだってば」
「さっきも、いい体で勇者になるとおっしゃいました」
女神はまた口を閉じた。
ジヒョは心の中で条件をもう一つ確保した。
女神の祝福。
効果は不明。
だが、無料なら受け取っておく価値はあった。
「他にはありますか?」
女神が少し戸惑った顔で言った。
「他?」
「僕は勇者の席を失ったんですよ。元々はかっこよくて強くて、みんなが仰ぎ見る英雄だと言っていたじゃないですか。今はかっこよくて背の高い一般人です。差が大きいです」
女神は少し考えてから言った。
「じゃあ、スキルを一つ」
ジヒョが止まった。
「スキルですか?」




