EP01. 異世界への出発 - #2 見つけた。しっかりつかまって。逃げるよ
#2 見つけた。しっかりつかまって。逃げるよ
ジヒョは家に着くなり、靴を適当に脱いだ。
ビニール袋は食卓の上に置いた。
酒の回り具合はちょうどよかった。
正気を失うほどではなかった。
ほどよく酔っていて、面倒なことは明日に回したくなるくらいだった。
ジヒョは鍋を取り出した。
「フグちり。フグちり」
一人で口ずさむと、それだけでもう胃が少し楽になる気がした。
彼は袋を開け、材料を適当に鍋へ入れた。
何が何なのか、詳しく見るつもりはなかった。
水を注ぎ、火をつけた。
鍋の底から小さな泡が上がり始めた。
その間に携帯電話が鳴った。
友人だった。
ジヒョは出なかった。
「明日にしよう、明日」
今は体を洗って、汁を飲んで、寝たかった。
携帯電話を置くと、恋人と交わしたメッセージの通知が目に入った。
最後のメッセージは短かった。
一か月だけ考えてみよう。
ジヒョはその文をじっと見た。
寂しくないわけではなかった。
それでも、人生が終わったような気分ではなかった。
「俺も忙しかったしな」
それは認めた。
平日は残業。
週末は睡眠。
デートしようと言われれば仕事が入り、約束は延び、延びた約束はまた延びた。
けれどジヒョにも悔しいところはあった。
「金を稼がなきゃ、結婚もできないだろ」
家も金だった。
式も金だった。
新婚生活の家具も金だった。
近いうちに昇進できれば、少しはましになるはずだった。
給料も上がるし、残業手当も付く。
そうすれば、金が貯まる速度も今より速くなるはずだった。
ジヒョは箸で鍋の中をかき混ぜた。
「もう少しだけ耐えればいいのに」
鍋が沸いた。
熱い湯気が上がった。
酒の回った顔に汁の匂いが触れると、頭の中の複雑な考えが少し押しのけられた。
携帯電話がまた鳴った。
今回も友人だった。
ジヒョは画面を見て目を細めた。
「あいつ、今日はなんでこんなに電話してくるんだ」
出ようかと思ったが、やめた。
どうせ明日、店に寄ればいい。
袋を持っていったことで何か言おうとしているのだろう。
ジヒョは携帯電話を裏返して置き、スプーンを持った。
汁をひとさじすくって口に入れた。
熱くて、すっきりした。
酒が抜けるようだった。
複雑だった頭も、恋人との通話も、会社の仕事も、しばらくぼやけた。
ジヒョは目を閉じ、小さく言った。
「ああ……生き返る」
彼は一杯を空にした。
そして、そのままベッドに横になった。
洗わなければならないとは思った。
アラームを合わせなければならないとも思った。
友人に明日連絡しなければとも思った。
だが、考えは考えで終わった。
今日は長かった。
残業もしたし、振られもしたし、タダ酒も飲んだし、フグちりも食べた。
悪くない締めくくりだと思った。
彼はそうして眠った。
ジヒョは、誰かに足先をつつかれる感覚で目を開けた。
最初は夢だと思った。
もう一度。
つん。
ジヒョは目もろくに開けられないまま、顔をしかめた。
「ああ、なんで触るんだよ……」
寝ぼけてそうつぶやいてから、急に意識がはっきりした。
ここは自分の家だった。
一人暮らしの家。
誰かが入ってきて足を触るわけがない。
ジヒョはがばっと体を起こした。
「どなたですか?」
目の前に、黒い服を着た男が二人立っていた。
二人とも表情がなかった。
泥棒にしてはあまりにも堂々としていて、警察にしてはあまりにも静かだった。
一人が言った。
「行くぞ」
「どこへですか?」
もう一人が面倒くさそうに言った。
「どこって。冥府だ」
ジヒョは少し笑おうとした。
だが、笑いは出なかった。
「冥府ですか?」
「ああ」
「僕がですか?」
「じゃあ俺たちが何をしに来たと思う」
その時、下のほうに妙なものが見えた。
部屋の床に、誰かが横たわっていた。
自分だった。
間違いなく自分の顔だった。
自分の服で、自分の部屋だった。
ジヒョは自分の顔と自分の手を交互に見た。
「ちょっと待ってください」
黒い服の男が言った。
「待つ時間はない。死んだ」
「いや、なんで僕が死ぬんですか?」
その時、携帯電話が鳴った。
床に置かれた携帯電話の画面に、友人の名前が浮かんでいた。
同時に、玄関の扉がどんどん叩かれた。
「ジヒョ!」
友人の声だった。
「おい! 電話に出ろ!」
ジヒョは反射的に携帯電話をつかもうとした。
手が画面を通り抜けた。
「あれ?」
もう一度つかもうとしても同じだった。
扉の外で友人がさらに大きく叫んだ。
「お前、材料を間違えて持っていったぞ!」
ジヒョはぴたりと止まった。
「え?」
「それ食うな! おい、ジヒョ! 扉を開けろ! 家にいるのか? この野郎、電話にも出ないし!」
ジヒョは黒い服の男二人を見た。
「ちょっと待ってください。あの扉を……」
「開けられない」
「どうしてですか?」
「死んだから」
あまりにも簡単な答えだった。
扉の外で、友人が息を整える音が聞こえた。
そして、ほとんど叫ぶように言った。
「お前が持っていったの、内臓だ!」
ジヒョは固まった。
「え?」
「フグの内臓だって! 触っちゃだめなやつだ!」
ジヒョはゆっくりと食卓の上の器を見た。
自分がさっき食べた汁。
熱くて、すっきりすると感じたあの汁。
「ああ……生き返る」
そうまで言ったあの汁。
頭の中で、欠片が遅れてつながった。
友人がフグちりを作ってくれると言った。
自分は待つのが面倒で、厨房から適当に持ってきた。
友人は扉の外で食べるなと叫んでいる。
そして自分はもう死んでいる。
ジヒョがゆっくりと言った。
「つまり……」
黒い服の男二人は静かにジヒョを見ていた。
「俺が持ってきて」
誰も答えなかった。
「俺が煮て」
扉の外では、友人がずっと扉を叩いていた。
「ハン・ジヒョ! 扉を開けろ!」
ジヒョは力なく笑った。
「俺が食って、俺が死んだってこと?」
黒い服の男の一人が言った。
「正確だな」
「正確だな、じゃないですよ」
ジヒョは自分の体をもう一度見た。
さっきまでは、人生は悪くないと思っていた。
会社もよかったし、残業手当もよかったし、昇進ももうすぐできそうだった。
それなのに、フグの内臓のせいで死んだ。
「ああ。これから運が開けるところだと思ってたのに」
ジヒョは床に横たわる自分の体を見ながらつぶやいた。
「悔しいな」
黒い服の男が言った。
「悔しくても、死んだものは死んだんだ」
もう一人の男が玄関のほうをあごで示した。
「行くぞ」
「ちょっと待ってください。友人が外にいるんですけど」
「生きている人間のことは、生きている人間が勝手にやる」
「僕もさっきまでは生きていたんですけど?」
「今は違うだろ」
反論する言葉がなかった。
扉の外では、友人がまだ扉を叩き続けていた。
「おい! 119呼んだぞ!」
「扉を開けろ、この野郎!」
ジヒョはその声を聞きながら、黒い服の男たちに引かれるように部屋を出た。
扉は開かなかった。
携帯電話は鳴り続けた。
友人の声は、だんだん遠ざかっていった。
* * *
ある瞬間、ジヒョは暗い道の上に立っていた。
道の先には大きな門があった。
門の前には人々が列を作っていた。
寝巻き姿。
スーツ姿。
病院着姿。
登山服姿。
ジヒョはそこでようやく、自分の格好も見下ろした。
パンツ一枚だった。
寝る前に服くらい着ておけばよかった。
そんな考えがよぎったが、すぐに意味がないと気づいた。
列に並んだ魂たちはみんなぼんやりしていた。
服装は見えるが、詳しく見ようとすると霧のようににじんだ。
つまり、パンツ一枚でも大きな問題はなかった。
問題は、死んだという事実だった。
死んだ人間は思ったより多かった。
黒い服の男がジヒョを列の最後に立たせた。
「ここに立て」
ジヒョは門の向こうを見た。
「あそこに入ったら終わりですか?」
「入ってみれば分かる」
「その言い方、一番嫌いなんですけど」
黒い服の男は答えなかった。
ジヒョは列の最後に立って、小さくつぶやいた。
「フグちり一つ食べて冥府の列かよ」
前の人がジヒョをちらりと見た。
ジヒョはため息のように言った。
「いや、正確にはフグちりでもなかったけど」
冥府の門の前の列は長かった。
長すぎた。
ジヒョは前の人の後頭部を見ながらつぶやいた。
「死んでも列か」
前の人が振り返った。
ジヒョはすぐに視線をそらした。
列はほんの少しずつ進んだ。
一人が入って。
また一人が入って。
冥府の門は人々をゆっくり飲み込んでいた。
携帯電話もなく、水もなく、やることもなかった。
ジヒョは退屈で周りを見回した。
すると、妙なものを見つけた。
遠くに岩が一つあった。
そして、その岩の横に女が隠れていた。
正確に言えば、隠れていると主張しているように見えた。
体の半分は岩の外に出ていて、髪はうっすら光り、視線は堂々と列のほうを見ていた。
ジヒョは目を細めた。
「いや、あれで隠れて見てるつもりなのか?」
隠れるならちゃんと隠れるべきだった。
あの程度なら金魚でも見つける。
だが、妙なのはそれだけではなかった。
列に並んだ人々はみんなぼんやりしていた。
ところが、その女は違った。
一人だけはっきりしていた。
色も鮮やかで、輪郭もはっきりしていた。
服まで無駄に派手だった。
死者たちの中に、生きている人間が一人だけ間違って紛れ込んだようだった。
その時、女と目が合った。
女がぎくりとした。
ジヒョもぎくりとした。
短い静寂。
そして女が突然、岩の横から飛び出した。
「え?」
ジヒョが反応する前に、女は列を横切って走ってきた。
死んだ人々が驚いて横に避けた。
女はジヒョの前に着くなり、彼の手首をつかんだ。
そしてにっこり笑った。
「見つけた」
「はい?」
「しっかりつかまって。逃げるよ」
答える隙もなかった。
女はすぐに走った。
ジヒョはそのまま引きずられた。
「ちょっと待ってください! 僕、列に並んでたんですけど!」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない気がするんですけど!」
「大丈夫だってば」
「どなたですか!」
後ろのほうで、冥府の使者たちの怒鳴り声が弾けた。
「止まってください!」
「女神様!」
ジヒョは引きずられながら女を見た。
「女神様?」
女は答えなかった。
むしろさらに速く走った。
冥府の使者たちが後ろから追いかけながら叫んだ。
「今回は絶対だめです!」
「私たち、叱られますって!」
ジヒョはその言葉を聞いて、さらに不安になった。
「今回は?」
その言葉は、前にもこういうことがあったという意味だった。
ジヒョは自分の手首をつかんだ女を見ながら言った。
「あの。今、冥府の使者たちが女神様って言った気がするんですが」
「うん」
「うん、じゃなくてですね」
「私、女神で合ってるよ」
ジヒョは一瞬、言葉に詰まった。
フグの内臓を食べて死んだだけでも悔しいのに、今度は冥府の門の前で女神に拉致されていた。
「僕はどこへ連れていかれているんですか?」
「別の世界」
「別の世界ですか?」
「うん。異世界」
足が地面を踏む感覚はほとんどなかった。
体があまりにも軽かった。
引きずられていたジヒョは、そこでようやく気づいた。
自分は死んだ。
今は魂だった。
「ああ。俺、魂なんだっけ?」
少し納得できた。
体が軽いのではなく、そもそも体と呼べるものがなかった。
「俺、軽いんだな」
女神がちらりと振り返った。
「今それに感心してる場合?」
「初めての経験なので」
後ろでは冥府の使者たちがまだ追いかけていた。
「女神様!」
「お願いです、止まってください!」
「今回は本当にだめです!」
女神は聞こえないふりをした。
冥府の門も、列に並ぶ人々も、冥府の使者たちの叫びも、だんだん遠ざかっていった。
ジヒョはどこか分からない場所へ吸い込まれるように離れていった。
* * *
ジヒョが気がついた時、見知らぬ部屋の中に立っていた。
何もない部屋だった。
椅子もなく、窓もなく、飾りもなかった。
部屋の片側には廊下が続いていた。
ジヒョは女神につかまれていた手首を見下ろした。
「ここはどこですか?」
女神は何でもないように答えた。
「待機室」
「何の待機室ですか?」
「異世界に入る前の待機室」
ジヒョは一度目を閉じ、また開けた。
「さっき、異世界に行くっておっしゃいましたよね」
「うん」
「僕、さっき死にましたよね」
「知ってる」
「冥府の列に並んでいましたよね」
「見た」
「なのに、どうしてもう異世界の待機室にいるんですか?」
女神は明るく笑った。
「勇者に転生しなきゃいけないから」
ジヒョは言葉に詰まった。
「僕がですか?」
「うん」
「どうしてですか?」
「魔王を倒さなきゃいけないから」
女神はあまりにも平然としていた。
まるで昼食のメニューを言うように、魔王の話をしていた。
「魔王ですか?」
「うん」
「それを僕がですか?」
「うん」
「僕、大企業の事務職なんですけど」
「もう違うでしょ」
ジヒョは反論しようとして止まった。
確かにそうではあった。
死んだから。
女神は廊下のほうを指差した。
「あっちに入ると、私が治める世界だよ。そこで生まれ変わることになるの」
「勇者として?」
「うん。ものすごくかっこよくて、素敵で、強くて、みんなに仰ぎ見られる英雄」
「強いのはいいんですけど」
ジヒョは慎重に尋ねた。
「その英雄って、結局は戦えってことですよね?」
「そうだね」
「魔王と?」
「最終的には?」
「最終的には、って何ですか」
「途中にモンスターもいるし、部下もいるし、まあ色々あるでしょ」
ジヒョは額を押さえた。
「僕は残業ならしたことがあります」
「うん」
「報告書も書いたことがあります」
「うん」
「上司に怒られたこともたくさんあります」
「それは気の毒だね」
「でも魔王は倒したことがありません」
女神はうなずいた。
「初めては誰にでもあるよ」
「そういう言葉で済む話ではない気がするんですが」
「大丈夫。いい体に転生させてあげる」
「体だけよければいいんですか?」
「だいたいは何とかなるんじゃない?」
ジヒョは、この女神が本当に大丈夫な存在なのか疑い始めた。
女神はそんなジヒョの表情をあまり気にしていなかった。
「とりあえず、ここでちょっとだけ待ってて」
「どうしてですか?」
「準備することがあるの」
「何を準備するんですか?」
「勇者転生」
女神はもう廊下のほうへ歩いていた。
ジヒョが慌てて言った。
「ちょっと待ってください。説明が短すぎます」
女神は振り返って手を振った。
「すぐ戻るよ」
「すぐってどれくらいですか?」
「すぐ」
その短い答えとともに、女神は廊下の奥へ消えた。
ジヒョは空っぽの部屋に一人残された。
静かだった。
あまりにも静かだった。
ついさっきまで冥府の門の前で列に並んでいたのに、今は何もない部屋の中に一人で立っていた。
ジヒョは廊下のほうを見てから、床に座り込んだ。
「フグの内臓を食べて死んだだけでも悔しいのに」
彼はつぶやいた。
「今度は魔王を倒しに行くことになりそうだな」
ちょっとだけ待っていろと言った。
女神はすぐ戻ると言った。
ジヒョはその言葉を信じて待つことにした。
まだ、それがどれほど危険な言葉なのかは知らなかった。




