表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/15

EP03. そのスクロールはどうやって手に入れるのですか? - #2 じゃあ、長い付き合いになるな

#2 じゃあ、長い付き合いになるな


ハン・ジヒョはその場で固まった。


言葉は軽かった。

あまりにも軽かった。


けれど、中身はまったく軽くなかった。


死ぬまで働いても足りない。

それは、ほとんど一生という意味だった。


ジヒョは帳簿を見た。


勇者になったわけじゃない。

冒険者になったわけでもない。

貴族になったわけでもない。


食堂の借金持ち。

しかも、命に値札が付いた借金持ちだ。


脇腹はずきずき痛む。

腕にはまだうまく力が入らない。

頭もぼんやりしていた。


ついさっきまで死んでいた体なのだ。


食堂の店主は帳簿をもう一度、自分のほうへ向けた。

ペンを持ち、名前の欄に手を置く。


「そういや、お前の名前」


ジヒョは顔を上げた。


「僕の名前ですか?」


「帳簿に書かないとな。いつまでも借金持ちって書いておくわけにもいかないだろ」


ジヒョは少し考えた。


この世界に来てから、自分の名前をまともに言ったことがあっただろうか。


冥界でも、女神の前でも、路地でも、この食堂でも。

ずっと慌ただしく引きずり回されていた。


名前を言う暇より、死ぬか生きるかの問題が先だった。


ジヒョはゆっくり言った。


「ハン・ジヒョです」


食堂の店主が止まった。


「ハン・ジオ?」


「ジヒョです」


「ハン・ジヨ?」


「ジヒョです。ジ、ヒョ」


食堂の店主は、羽根ペンの先を帳簿に当てたまま、もう一度聞いた。


「ハン・ジホ?」


「違います。ハン・ジヒョです」


「なんでそんなに発音が滑るんだ」


「僕の名前がおかしいんじゃなくて、店長が言えてないだけじゃないですか?」


食堂の店主はジヒョをじっと見た。


「おかしい名前なのはお前のほうだ」


ジヒョは何も言えなかった。


この世界の人間にとって、ハン・ジヒョという名前は聞き慣れないらしい。

ジヒョもまだ食堂の店主の名前を知らなかったので、どちらがおかしいとは言い切れなかった。


食堂の店主は帳簿に何かを書こうとして、また止まった。


「もう名前を新しく付けよう」


ジヒョは即答した。


「嫌です」


「ここじゃ不便だぞ」


「それでも嫌です」


「ハン・ジオくらいなら似てるだろ?」


「似てません」


「ジオ」


「さらに遠ざかりました」


食堂の店主は面倒くさそうに羽根ペンを置いた。


「異邦人っぽさを減らすなら、名前も少し合わせたほうがいい。変な名前は覚えられるからな」


ジヒョはその言葉を聞いて、少し黙った。


名前を変えれば楽なのかもしれない。


この世界でハン・ジヒョという名前は珍しい。

発音しにくい。

記憶にも残る。


逃げたり隠れたりするには、不利かもしれなかった。


それでも、ジヒョは首を横に振った。


「それでも、名前は変えたくないです」


食堂の店主が聞いた。


「なんでだ」


ジヒョはすぐには答えられなかった。


大げさな理由があるわけではない。

けれど、名前まで変えたくはなかった。


体も変わった。

世界も変わった。

死んで、生き返るところまでやった。


持っている金もない。

知っている人もいない。

返さなければならない借金だけができた。


そのうえ名前まで変えたら、本当に何も残らない気がした。


ジヒョはゆっくり言った。


「体まで変わったのに、名前まで変えたら、僕が本当にいなくなる気がするので」


食堂の店主は、しばらく何も言わなかった。


ジヒョはなんとなく視線をそらした。


言ってから、少し恥ずかしくなった。

この食堂の店主に言うようなことではなかった気がした。


相手はついさっきまで、命の値段を帳簿に書いていた男なのだ。


けれど、食堂の店主は笑わなかった。


彼はもう一度、羽根ペンを持った。


「そうか」


ジヒョは少し驚いて、彼を見た。


食堂の店主は帳簿を見下ろしながら言った。


「じゃあ、帳簿に書きやすい生き方をしろ。毎回聞くのは面倒だからな」


「それが理解した人の反応ですか?」


「十分理解した」


「今、かなり雑に流したように見えましたけど」


「俺が雑に流してたら、お前の名前はジオって書いてただろ」


ジヒョは帳簿をちらりと見た。

食堂の店主は本当に何かを書いていた。


ジヒョは目を細めた。


「ちょっと待ってください」


「なんだ」


「今、何て書きました?」


食堂の店主は帳簿を少し自分のほうへ引いた。


「名前」


「見せてください」


「借金持ちが帳簿を勝手に見るな」


「僕の名前じゃないですか」


食堂の店主は面倒くさそうに、帳簿を少しだけ回して見せた。


そこには、歪んだ文字で名前が書かれていた。


ハン・ジオ。


ジヒョは即座に言った。


「間違ってるじゃないですか。ジオって書いてただろ、じゃなくて、本当にジオって書いてるじゃないですか」


「似てる」


「似てません」


食堂の店主は舌打ちした。


「面倒なやつだな」


「僕の名前です」


「わかった。もう一回言え」


ジヒョは一文字ずつ区切って言った。


「ハン。ジ。ヒョ」


食堂の店主は書き直した。


今回も完璧ではなかった。

けれど少なくとも、ジオでも、ジヨでも、ジホでもなかった。


ジヒョはその程度で妥協することにした。


食堂の店主は帳簿を閉じないまま言った。


「よし。ハン・ジヒョ」


今度は、少しだけ発音が近かった。


ジヒョはうなずいた。


「はい」


「これからそう呼べばいいんだな?」


「はい」


「借金持ちよりはましだな」


「比較対象が低すぎます」


食堂の店主は答えず、帳簿の片隅に名前をもう一度書いた。


ジヒョはその手元を見て、すぐに聞いた。


「今、何を書いたんですか?」


「名前の確認」


「それも費用ですか?」


食堂の店主は少しジヒョを見た。

そして、ごく短く笑った。


「まだな」


ジヒョはその言葉のほうが不安だった。


まだ。


この食堂では、その言葉が一番怖かった。


食堂の店主は羽根ペンを置いた。


名前を一つ書くのにも時間がかかった。

何度も間違えた末に、ようやくハン・ジヒョに近くなった。


ジヒョは帳簿に書かれた文字を見て、胸の奥が少し妙な感じになった。


完璧な表記ではない。

けれど、この世界で初めて自分の名前がどこかに書かれた。


問題は、そこが借金帳簿だということだった。


食堂の店主は帳簿を閉じて言った。


「じゃあ、みんなにも言っておくか」


ジヒョが聞いた。


「誰にですか?」


「ここで働いてる連中だ」


食堂の店主はカウンターから出て、厨房のほうへ歩いていこうとした。

ジヒョはついていこうとして、ふと止まった。


考えてみれば変だった。


自分はさっき、何度も名前を言った。

なのに、肝心のこの人の名前をまだ知らない。


ジヒョが聞いた。


「ところで、店長の名前は何ですか?」


食堂の店主が振り返った。


「俺の名前?」


「僕の名前は帳簿に書いたじゃないですか」


食堂の店主は少しジヒョを見てから言った。


「ロレンツォ・エルベリア・バルディ」


ジヒョは心の中で名前を繰り返した。


ロレンツォ・エルベリア・バルディ。


「名前、長いですね」


「どこの都市の出身かが重要になったからな」


ロレンツォが何でもないように言った。


「フルネームには出身都市を入れるようになったんだ。俺の場合はエルベリアだな」


「必要があってできた形式なんですね。できたのは最近なんですか?」


「いや。歴史で見れば千年以上は前だろうな」


ジヒョは少しロレンツォを見た。


「千年以上前のことを、なんで昨日できたみたいに言うんですか?」


「重要なのはそこじゃない」


ロレンツォは帳簿を指先で叩いた。


「問題は、お前の名前がおかしいってことだ」


「僕の名前にはもう触れないでください」


ジヒョは心の中で名前を繰り返した。


ロレンツォ・エルベリア・バルディ。


すぐ口に馴染む名前ではなかった。

けれど、ハン・ジヒョをハン・ジオと呼ぶよりは簡単そうだった。


食堂の店主が付け加えた。


「ロレンツォって呼べばいい」


「店長って呼んでもいいですか?」


「そっちが楽ならそうしろ」


ジヒョはうなずいた。


ロレンツォ・エルベリア・バルディ。

この食堂の店主。

そして、ジヒョの借金を帳簿に書く人。


ジヒョは、その二つのうち最後のほうが大事だと思った。


ロレンツォはジヒョを連れて厨房へ向かった。


厨房はホールよりずっと忙しかった。


大きな鍋ではシチューが煮えていて、片側ではパンが切られている。

棚には玉ねぎ、ジャガイモ、干し肉、ハーブの束が置かれていた。


その中で一番目立つのは料理長だった。


体が大きく、腕が太い。

料理長は、言葉より先に目が動く人だった。


誰がどこで何を間違えたのか。

包丁の音を聞いただけでもわかりそうな顔をしていた。


ロレンツォが言った。


「ブルン」


料理長は首だけを向けた。


「なんだ」


「新しく働くやつだ」


料理長はジヒョを見た。

視線が上から下へ降りていく。


服。

腕。

手。

脚。

そして、また顔。


短い評価が終わった。


「あの腕で?」


ジヒョは自分の腕を見下ろした。

間違ったことは言われていなかった。


ロレンツォが言った。


「借金がでかい」


料理長はすぐに理解したようにうなずいた。


「なら長く使えるな」


ジヒョはそれが褒め言葉なのか呪いなのか判断できなかった。


料理長は手に持っていたジャガイモを置いた。


「ブルンガル・カルドゥム・ドルハイムだ。ブルンでいい」


ジヒョが言った。


「ハン・ジヒョです」


ブルンが目を細めた。


「ハン・ジオ?」


「ジヒョです」


「ジヨ?」


「ジヒョです。ジ、ヒョ」


ブルンは少し考え、うなずいた。


「そうか。ジオ」


「違います」


ロレンツォが横で言った。


「俺もそう聞こえる」


ジヒョはロレンツォを見た。


「一緒に間違えないでください」


ブルンはジヒョの反応にあまり興味がなさそうだった。


彼はまたジャガイモを取りながら言った。


「名前はゆっくり覚える。材料はすぐ覚えろ。ここで駄目にしたら、全部金だ」


ジヒョは厨房の材料をもう一度見た。


さっきまでは、ただの食材だった。

今は全部に値札が付いているように見えた。


ブルンが言った。


「ジャガイモ一個も金だ。玉ねぎの皮を厚くむくのも金だ。肉を切り間違えるのも金だ」


ジヒョはうなずいた。


「わかりました」


ロレンツォが横で言った。


「ブルンの前で材料を無駄にするな」


ジヒョが小さく聞いた。


「したらどうなるんですか?」


ブルンが答えた。


「まな板の上に、お前を乗せることになるだろうな」


ジヒョはそれ以上聞かなかった。


その言葉だけで、説明は十分だった。


厨房を出てホールに戻ると、盆を持った女性がテーブルの間を通っていた。


彼女は客の顔を素早く見て、空いた皿を確認し、次の注文を覚えている。

足は速く、手は安定していた。

テーブルの間を抜けても、盆はほとんど揺れない。


ロレンツォが彼女を呼んだ。


「ミユ」


女性が振り返った。


「はい、店長」


「新しく来た借金持ちだ」


ミユがジヒョを見た。


「お名前は?」


ジヒョは慎重に言った。


「ハン・ジヒョです」


ミユは少しも迷わず、すぐに繰り返した。


「ハン・ジヒョさんですね?」


ジヒョは目を少し大きくした。


「はい。合ってます」


ロレンツォがミユを見た。


「ミユ、お前は発音うまいな」


ミユが笑って言った。


「バラハン王国の名前みたいです。あちらの人たちもよく来るじゃないですか」


「そうなのか?」


「ホールに立つなら、名前はちゃんと発音できないと。お客さんの名前を間違えると、チップも減りますから」


ロレンツォはうなずいた。


「現実的だな」


ジヒョはミユを見て、少し感動した。


この世界に来て初めて、自分の名前を一度でちゃんと呼ばれた。


ミユが少し首を傾げた。


「でも、お名前はジヒョさんなんですか?」


ジヒョはすぐに言った。


「いえ。ハン・ジヒョです」


「あ」


ミユは少し考えてから言った。


「名前がジヒョで、名字がハンですか?」


ジヒョは少し遅れて答えた。


「はい。そんな感じです」


ロレンツォがジヒョを見た。


「そんな感じ?」


ジヒョは視線をそらした。


「事情があります」


ミユは特に不思議がっていない顔だった。


「たぶん、王国の都市じゃなくて、小さな村で生まれたからかもしれません。村の人たちはミドルネームをあまり使いませんから」


ジヒョは静かにうなずいた。


何を言っているのか、全部理解したわけではない。

けれど今は、うなずいておくほうが安全そうだった。


ミユは帳簿のほうをちらりと見て言った。


「ジヒョさんもフルネームで書くなら、ジヒョ・バラハン・ハンって書けばいいと思います」


ジヒョは瞬きをした。


「ジヒョ・バラハン・ハンですか?」


「はい。普段はジヒョさんでいいですし」


ジヒョは、自分の名前が妙な方向に伸びていくのを感じた。


ハン・ジヒョ。

ジヒョ・バラハン・ハン。


どちらのほうがおかしいのか、判断しにくかった。


「帳簿にはやっぱりジオって書いたほうがよさそうだな」


ジヒョはすぐに言った。


「いいえ。僕の名前はハン・ジヒョです」


「ジヒョ・バラハン・ハンは?」


「それはもっと違います」


ミユが笑った。


「じゃあ、私が覚えておきますね。ハン・ジヒョさん」


ジヒョは小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


ミユは盆を持ち直しながら言った。


「私はミレーユ・リラハイム・ロベルです。ミユって呼んでください。ホールの接客を担当しています」


「ハン・ジヒョです」


「はい、ハン・ジヒョさん」


今回も正確だった。


ジヒョはほんの少しの間、この食堂で初めて人間になった気がした。


ロレンツォが言った。


「ホールで働く時はミユの様子を見ろ。客の流れはあいつが一番よくわかってる」


ジヒョはうなずいた。


ミユはもう別のテーブルへ体を向けていた。

客が手を上げると、返事をするより先にそちらへ動いていく。


ジヒョはその姿を見た。


ミユはホール全体を見ていた。


皿が空いた客を見る。

追加注文しそうな人を見る。

金を払おうとしている人も見逃さない。

声が大きくなりかけた席には、先に視線を送る。


それを全部やりながら、動き続けていた。


その時、ホールの奥から水桶を持った獣人が入ってきた。


彼は両手に水桶を一つずつ持っていた。

背は高く、体つきは細い。

けれど、足取りはしっかりしていた。


水がいっぱい入った桶を持っているのに、足は揺れない。

水もほとんど揺れていなかった。


彼は水桶を厨房の横に置いた。


どん。


重い音がした。


ロレンツォが彼を呼んだ。


「タウロ」


獣人が顔を上げた。


「はい、店長」


「新しく来たやつだ」


タウロはジヒョを見ると、顎を軽く上げた。


「タウロ・アロヌイ・ワカ。タウロでいい。雑用をやってる」


ジヒョもすぐに言った。


「ハン・ジヒョです」


タウロは少し聞いて、うなずいた。


「ハン・ジ……うん」


ジヒョは目を少し開いた。


「最後、なんで濁したんですか」


タウロは何でもないように言った。


「借金?」


ジヒョは少し止まった。


この食堂では、身分確認が名前より先らしい。


「はい」


タウロはすぐにうなずいた。


「じゃあ、長い付き合いになるな」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ