8. 街灯の下で
充希から連絡が来たのは、十一月の終わりだった。
『来週、少しだけ会えますか』
少しだけ。
その言葉を見て、瑞希はしばらくスマホを持ったまま動けなかった。
少しだけ、という言い方は、ずるいと思う。
それは時間の長さを示しているようで、実際には距離を示している。
長くは一緒にいられない。
深くは踏み込めない。
でも、まったく会えないわけではない。
瑞希は返信欄に指を置いた。
『会いたい』
そう打って、消した。
いつものことだった。
会いたいなんて、そんなことは言わなくてもわかっている。
わかっているのに言えないのは、言ったところで何も変わらないからだ。
結局、
『大丈夫だよ』
とだけ返した。
すぐに既読がつく。
少し遅れて、返事が来た。
『よかった』
その四文字だけで、瑞希の一週間は決まってしまった。
***
待ち合わせは、いつものカフェだった。
大きな通りから一本入ったところにある、白い壁の店。
窓際には小さな丸テーブルが並んでいて、休日の午後には決まって若い客で埋まっている。
瑞希は、少し早く着いた。
早く着くつもりはなかった。
でも、充希と会う日はいつもそうだった。
電車を一本早くして、店の前で少し時間を潰して、
まだ早いとわかっていても入ってしまう。
待つことは苦手だった。
でも、充希を待つ時間だけは、嫌いになりきれなかった。
入口が見える席に座り、コーヒーを頼む。
カップの縁から立ち上る湯気を見ていると、ドアベルが小さく鳴った。
顔を上げる前に、わかった。
充希だった。
「お待たせしました」
コートの襟に、外の冷たい空気が残っている。
「ううん」
瑞希は首を振る。
「寒かった?」
「寒いです。もう冬ですね」
そう言って、充希は両手をこすり合わせた。
その左手には、指輪がなかった。
ただ、薄い跡だけがあった。
瑞希は、それを見ないようにして、見た。
充希はいつものように紅茶を頼み、いつものように迷った末にケーキも頼んだ。
「今日は我慢しようと思ってたんですけど」
「毎回言ってる」
「毎回じゃないです」
「毎回だよ」
「じゃあ、今日で最後にします」
「絶対うそ」
「ばれました?」
充希は笑う。
その笑い方があまりに変わらないので、瑞希は少しだけ安心する。
変わらないものがあることに安心して、
変わらないからこそ苦しくなる。
不思議だと思った。
人の心は、どうして同じものに救われて、同じものに傷つくのだろう。
***
カフェを出たあと、二人は美術館に行った。
充希が「ここ、気になってたんです」と言ったからだった。
瑞希は絵に詳しくなかった。
証券会社の営業で使う数字や資料の方が、ずっと見慣れている。
けれど充希が絵の前で立ち止まるたびに、瑞希も隣で立ち止まった。
何を見ているのかはわからない。
でも、充希が何かを見ている横顔を見るのは好きだった。
「この絵、好きです」
充希が言う。
「どこが?」
「うーん……寂しいのに、明るいところ」
瑞希は絵を見る。
淡い色の風景画だった。
人のいない道。
遠くに小さな家。
空は晴れているのに、どこか冷たい。
「わかるような、わからないような」
「瑞希さんっぽい答え」
「俺っぽい?」
「うん。ちゃんとわかろうとしてくれるけど、わかったふりはしないところ」
充希はそう言って笑った。
瑞希は返事に困った。
褒められたのかどうか、よくわからなかった。
ただ、その言葉をもらって嬉しいと思った。
嬉しいと思ったあとで、そんなふうに思う自分が少し嫌になった。
***
夕方になって、二人は夕食を食べた。
小さなイタリアンだった。
狭い店内にテーブルがいくつか並び、隣の席の会話が少し聞こえるくらいの距離だった。
充希はワインを少しだけ飲んだ。
頬がほんのり赤くなる。
「酔った?」
「酔ってないです」
「酔ってる人って、だいたいそう言うよ」
「じゃあ、酔ってます」
「急に認めるんだ」
「瑞希さん、今日なんか楽しそうですね」
「そう?」
「うん」
充希はフォークでパスタを巻きながら言った。
「いいことありました?」
瑞希は少し考える。
いいこと。
仕事で大きな契約が取れたわけでもない。
給料が上がったわけでもない。
何かがうまくいっているわけでもない。
ただ、目の前に充希がいる。
ただ、ただそれだけだった。
「今が楽しいからじゃない」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
充希は一瞬だけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「そういうこと、急に言いますよね」
「言わなきゃよかった」
「言っていいですよ」
言っていいですよ。
その言葉は優しかった。
でも、どこまで言っていいのかは教えてくれなかった。
瑞希はグラスの水を飲んだ。
喉の奥に、言えない言葉がずっと残っていた。
***
店を出る頃には、夜になっていた。
駅まで歩けば十分ほどの距離だった。
それなのに、充希は「少し遠回りしませんか」と言った。
瑞希は頷いた。
住宅街の方へ入ると、人通りが急に少なくなる。
大通りの音が遠ざかり、街灯の白い光だけが道に落ちている。
家々の窓から、生活の明かりが漏れていた。
どこかの家から、夕食の匂いがした。
自転車のブレーキ音が遠くで鳴った。
犬が一度だけ吠えて、すぐ静かになった。
充希は少し前を歩いていた。
瑞希はその横に並ぼうとして、少し遅れた。
隣に立つのが、急に怖くなった。
今日が終わってしまう。
そう思った。
いつものように、駅に着いて、
いつものように「またね」と言われて、
いつものように充希は帰っていく。
そして瑞希は、何も言えないまま部屋に戻る。
今日楽しかったぶんだけ、帰ったあとの部屋は広くなる。
それがもうわかっていた。
わかっているのに、どうすることもできなかった。
「瑞希さん?」
充希が振り返る。
街灯の下で、少しだけ首を傾げている。
「どうしました?」
「いや」
瑞希は首を振る。
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃないです」
充希はそう言って、少しだけ歩く速度を落とした。
二人の距離が近づく。
肩が並ぶ。
手が、少し触れた。
偶然だった。
でも、偶然のままにできなかった。
瑞希は、充希の手を握った。
充希の手は少し冷たかった。
ほんの一瞬だけ、充希の指が強張る。
それから、ゆっくりと力が抜ける。
握り返してくれたわけではなかった。
離さなかっただけだった。
それでも瑞希には十分だった。
十分だと思おうとした。
帰ってほしくない。
喉元まで、その言葉が出かかった。
言ってしまえばよかったのかもしれない。
言えば、何かが変わったのかもしれない。
でも、変わるものがあるとしたら、それはたぶん、二人の関係ではなく、充希の表情だった。
困らせる。
瑞希にはそれがわかっていた。
充希は優しいから、きっと笑ってごまかす。
それでも無理なら、謝る。
それでも足りなければ、抱きしめる。
そして帰る。
そこまで想像できてしまった。
だから言えなかった。
言葉の代わりに、手に少しだけ力を込める。
充希は何も言わない。
ただ、少しだけ困った顔をした。
その顔を見て、瑞希は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
ああ、やっぱり困らせている。
それでも、手を離せなかった。
しばらく、そのまま立っていた。
住宅街の静かな道。
街灯の下。
誰かの家の窓から漏れる明かり。
遠くを通る車の音。
二人だけが、そこに取り残されたみたいだった。
充希が、空いている方の手を伸ばす。
そして、瑞希を抱きしめた。
静かに。
強くもなく、弱くもなく。
ただ、そこにいることを伝えるみたいに。
瑞希は充希の肩に顔を近づける。
コート越しに、体温がある。
髪から、いつもの匂いがした。
泣きたくなった。
泣かなかった。
泣いてしまえば、何かを要求しているみたいになる。
瑞希は、充希を困らせたくなかった。
でも、本当は困らせたいのかもしれないとも思った。
困ってほしい。
迷ってほしい。
帰らないでほしい。
そんな醜い気持ちが、自分の中にあることを、瑞希はもう知っていた。
充希の手が、瑞希の背中に添えられている。
ほんの少しだけ、撫でるように動いた。
「瑞希さん」
小さな声だった。
「うん」
「……ごめんね」
その一言は、予想していたのに、思ったより痛かった。
何に対する謝罪なのかは、わからなかった。
帰ること。
続けていること。
好きでいること。
選ばないこと。
選べないこと。
たぶん、全部だった。
瑞希は首を振った。
「ううん、ごめん」
言った瞬間、自分の声が少し掠れていることに気づく。
充希は謝らなくていい。
本当にそう思っていた。
でも、謝られないと、もっと苦しかったかもしれない。
充希はゆっくり離れた。
離れるとき、少しだけ瑞希の袖を掴んだ。
その仕草が、ずるいと思った。
帰るのに。
離れるのに。
まだ少しだけ、ここにいるみたいな顔をする。
瑞希はそれを責められなかった。
責める資格がないからではなく、
その仕草まで好きだったからだ。
「駅、行きましょうか」
充希が言う。
いつもの声に戻っていた。
瑞希は頷く。
「うん」
手は、もう繋がなかった。
駅までの道は、さっきより短く感じた。
会話はほとんどなかった。
それでも沈黙は、完全に悪いものではなかった。
言えなかった言葉が、二人の間に浮いている。
見えているのに、誰も触れない。
そういう沈黙だった。
改札の前で、充希が立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
いつもの言葉。
「うん」
「楽しかったです」
「俺も」
充希は少しだけ笑った。
それから、左手を小さく振る。
指輪はなかった。
跡だけがあった。
「またね」
その言葉は、いつも通りだった。
あまりにも、いつも通りだった。
瑞希は、うまく笑えなかった。
「またね」
返事はできた。
それだけで精一杯だった。
充希は改札を通る。
一度も振り返らない。
瑞希はその背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。
電車の発車ベルが鳴る。
人が流れていく。
瑞希だけが、少し遅れているみたいだった。
ポケットの中で、さっきまで握っていた手の感触が残っている。
冷たくて、柔らかかった。
離さなかっただけの手。
抱きしめてくれた腕。
ごめんね、という声。
またね、という声。
どちらも充希だった。
優しくて、ずるくて、どちらも本当だった。
***
家に帰ると、部屋は暗かった。
電気をつけると、何も変わっていない部屋がそこにあった。
ソファ。
テーブル。
閉じたままのカーテン。
昨日脱いだままのジャケット。
充希がいないだけで、部屋はただの部屋に戻る。
瑞希はコートを脱がずに、床に座った。
背中をベッドに預ける。
スマホを取り出す。
連絡はない。
来るはずがない。
充希は帰っている途中かもしれない。
もう家に着いたかもしれない。
誰かと「ただいま」を交わしているかもしれない。
瑞希はそこから先を考えるのをやめた。
考えたところで、何も知れない。
瑞希は、充希の普段の生活を知らない。
朝、何時に起きるのか。
休日に何を食べるのか。
家ではどんな声で笑うのか。
夫を何と呼ぶのか。
何も知らない。
知っているのは、月に一度、自分の前に現れる充希だけだった。
その充希だけを、好きになった。
いや。
その充希だけしか知らないのに、好きになってしまった。
しばらくして、スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
充希からだった。
『今日はありがとう。寒いから、ちゃんとあったかくして寝てくださいね』
瑞希は画面を見つめる。
優しい。
あまりにも優しい。
そして、あまりにも遠い。
返信欄を開く。
『帰ってほしくなかった』
そう打つ。
しばらく見つめる。
送らなかった。
消した。
『こちらこそ。気をつけて帰ってね』
それだけ打って、送る。
すぐに既読がつく。
返信はなかった。
瑞希はスマホを伏せる。
天井を見る。
さっき、言えなかった言葉がまだ胸に残っている。
帰ってほしくない。
言わなかったから消えるわけではなかった。
むしろ、言わなかったぶんだけ、体の奥に沈んでいく。
その夜、瑞希はなかなか眠れなかった。
目を閉じると、住宅街の街灯が浮かぶ。
充希の困った顔。
抱きしめてくれた腕。
ゆっくり離れるときの袖を掴む指。
ごめんね。
またね。
どちらの言葉も、優しかった。
優しい言葉は、時々、ひどく残酷だ。
それでも瑞希は、充希をずるいとは思えなかった。
思いたくなかった。
自分にとっての充希は、最後まで優しい人でいてほしかった。
そうじゃないと、好きでいた時間まで、違うものになってしまう気がした。
***
翌朝、瑞希はいつもより早く目が覚めた。
窓の外は曇っていて、まだ薄暗い。
スマホを見る。
通知はない。
当たり前だ。
当たり前のことに、いちいち傷つくのは疲れる。
それでも、傷ついてしまう。
瑞希は起き上がり、洗面所へ向かう。
鏡に映る自分の顔は、少しだけ老けて見えた。
二十八歳。
東京の小さな証券会社で働く営業マン。
スーツを着て、電話をかけて、数字を追いかけて、
誰かの資産の話をしながら、自分の心ひとつうまく扱えない。
情けないと思った。
でも、その情けなさも含めて、昨日の充希は抱きしめてくれた。
そう思うと、また会いたくなった。
会えば苦しくなるとわかっていても。
会社へ向かう電車の中で、瑞希はスマホを開いた。
充希とのトーク画面。
最後のやり取りは、昨日の夜のままだった。
『こちらこそ。気をつけて帰ってね』
自分の送った無難な言葉。
その下に、返信はない。
瑞希は画面を閉じる。
窓に映る自分を見る。
帰ってほしくない。
その言葉を、昨日も言えなかった。
たぶん、次も言えない。
言えないまま、また会う。
会えない時間を過ごして、
連絡を待って、
来たら喜んで、
会ったら苦しくなって、
別れ際にまた同じ言葉を飲み込む。
それでもきっと、会ってしまう。
瑞希は吊り革を握る手に力を込めた。
電車は何事もなかったように進んでいく。
朝の東京は、誰の恋にも構わずに動いていた。




