9. 雪の日
その年、初めて雪が降った。
天気予報では、昼過ぎから雨が雪に変わると言っていた。
東京で雪が降るたびに、ニュースは少し大げさになる。
交通機関に乱れが出るかもしれません。
路面の凍結にご注意ください。
不要不急の外出は控えてください。
そんな言葉を朝のニュースで聞きながら、瑞希はネクタイを締めていた。
不要不急。
その言葉が、少しだけ引っかかった。
今日、充希が来る。
それは瑞希にとって、必要なことだった。
でも、急ぎではなかった。
急ぎではないのに、一日中そのことだけを考えていた。
仕事中、顧客に電話をかけながら、何度も窓の外を見た。
午前中はまだ雨だった。
冷たい雨。
ビルの窓ガラスに細い線を作って流れていく。
午後三時を過ぎた頃、雨粒の落ちる速度が少し変わった。
最初は気のせいかと思った。
でも、よく見ると、雨の中に白いものが混じっている。
雪だ。
瑞希はデスクの上の資料に視線を戻した。
数字が並んでいる。
顧客名、見込み額、訪問予定、進捗。
どれも大事なはずなのに、その日は全部が遠かった。
スマホはデスクの引き出しに入れていた。
普段なら仕事中に何度も見たりしない。
けれど、その日は引き出しの中にあるだけで、ずっと存在を主張していた。
夕方、トイレに立ったついでにスマホを確認する。
充希からメッセージが来ていた。
『雪、すごくなってきましたね』
それだけ。
瑞希はしばらく画面を見る。
来るのをやめる、という言葉はなかった。
ほっとした。
そのあとすぐ、そんな自分が嫌になった。
雪で電車が止まればいい。
そう思う自分がいた。
充希が帰れなくなればいい。
そんなことを、ほんの一瞬でも考えてしまった自分を、瑞希は見てしまった。
返信欄を開く。
『無理しなくていいよ』
そう打った。
本心ではなかった。
でも、それ以外に送れる言葉がなかった。
少しして、返信が来た。
『大丈夫です。行きます』
瑞希は画面を閉じた。
その短い言葉だけで、胸の奥が熱くなった。
大丈夫です。
行きます。
それは、会いに来るという意味だった。
ただ、それだけの意味だったはずなのに。
***
定時を少し過ぎて会社を出る頃には、雪は本格的に降っていた。
傘に当たる音は、雨よりもずっと静かだった。
街の輪郭が白く滲んで、いつもの東京が少しだけ知らない街みたいに見える。
瑞希は駅まで急いだ。
足元が滑りそうになるたびに、少しだけ笑いそうになった。
何を浮かれているんだろうと思う。
二十八歳にもなって。
人の妻を待っているくせに。
それでも、体は正直だった。
改札を抜け、電車に乗り、最寄り駅まで帰る。
駅前のスーパーで、惣菜と少しだけいいワインを買った。
充希はワインをたくさん飲まない。
少し飲んで、すぐ頬を赤くする。
それを知っていることが嬉しかった。
知っていることが少しずつ増えていく。
でも、それは月に一度の充希についてだけだった。
瑞希は、充希の家の冷蔵庫に何が入っているか知らない。
朝、どんなカップでコーヒーを飲むのか知らない。
雪の日に、夫が傘を持って迎えに来る人なのかも知らない。
知らないことの方が、ずっと多い。
なのに、自分は知っている気でいる。
そのことに気づくたび、瑞希は少しだけ息が苦しくなった。
***
部屋に着いて、まず暖房をつけた。
散らかっているものを片付ける。
ベッドの上の服をクローゼットに押し込み、洗面台の水滴を拭き、テーブルの上の郵便物をまとめる。
充希が来る日は、部屋が少しだけ他人行儀になる。
誰かを迎えるための部屋。
でも、充希が帰ると、その形だけが残る。
それを知っているのに、瑞希は毎回きちんと片付ける。
コートを脱ぎ、シャツを着替える。
鏡の前で、自分の顔を見る。
疲れている。
でも、少しだけ期待している顔だった。
それが恥ずかしくて、洗面所の電気を消した。
インターホンが鳴ったのは、八時を少し過ぎた頃だった。
画面を見る前に、わかった。
「はい」
『私です』
その声だけで、部屋の温度が少し変わる。
エントランスのロックを開ける。
数分後、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、充希が立っていた。
肩に雪を少し乗せて、息を白くしている。
「こんばんは」
いつも通りの声。
でも、頬も鼻の先も少し赤かった。
「寒かったでしょ」
「寒かったです」
そう言って笑う。
瑞希は慌てて道をあける。
「入って」
「お邪魔します」
充希は靴を脱いで、きちんと揃える。
コートを脱ぐと、肩のあたりに残っていた雪が、床に小さく落ちた。
「雪、すごいですね」
「うん」
「電車、ちょっと遅れてました」
「大丈夫だった?」
「大丈夫です」
その「大丈夫」が、今日は少しだけ特別に聞こえた。
瑞希はタオルを持ってきて、充希に渡す。
「髪、濡れてる」
「ありがとうございます」
充希はタオルで毛先を押さえる。
その仕草を、瑞希は見ていた。
見ているだけで、何かが満たされていく。
それなのに、同時に、もっと欲しくなる。
人間は面倒だと思った。
自分は特に。
部屋に入ると、充希は暖房の前で両手を広げた。
「生き返る」
「大げさ」
「本当に寒かったんです」
「だから無理しなくていいって言ったのに」
瑞希がそう言うと、充希は振り返った。
「来たかったんです」
言い方は、驚くほどまっすぐだった。
瑞希は一瞬、言葉を失った。
充希はそれを見て、少しだけ笑う。
「何ですか、その顔」
「いや」
「変なこと言いました?」
「言ってない」
「じゃあ、いいじゃないですか」
充希はそう言って、ソファに座った。
当たり前みたいに。
その当たり前が、瑞希には眩しかった。
夕食は、買ってきた惣菜を皿に移しただけだった。
それでも充希は、「おいしそう」と言った。
「作ったわけじゃないけど」
「お皿に移したら料理です」
「そういうもの?」
「そういうものです」
充希は箸を持って、小さく手を合わせる。
「いただきます」
瑞希も同じように手を合わせる。
部屋の外では、雪が降り続いている。
窓の向こうの街灯に照らされて、白いものが斜めに流れていた。
テレビはつけていたけれど、音は小さかった。
ニュースでは、雪による交通情報が流れている。
いくつかの路線で遅延。
一部区間で運転見合わせ。
明朝の通勤にも影響の可能性。
「明日、大丈夫かな」
充希がテレビを見ながら言った。
瑞希の手が一瞬止まる。
明日。
その言葉には、当然のように帰る予定が含まれていた。
「朝、早いの?」
「うーん、普通です。でも会社あるし」
「そっか」
「瑞希さんもですよね」
「うん」
会話としては何もおかしくなかった。
おかしくないから、余計に苦しかった。
ワインを少しだけ飲んだ。
予想通り、充希の頬はすぐに赤くなった。
「弱いなら飲まなきゃいいのに」
「飲みたいときもあります」
「今日は?」
「今日は、飲みたい日です」
充希はグラスを持ったまま、窓の外を見る。
「雪の日って、変な感じがしますね」
「変?」
「いつもと同じ場所なのに、違う場所みたいに見える」
瑞希も窓を見る。
確かに、外の景色はいつもと違っていた。
音が少ない。
光がやわらかい。
街の雑な部分が、白で隠されている。
「全部、少しだけ許されてるみたいに見える」
充希がぽつりと言った。
瑞希はその横顔を見る。
「何が?」
聞いた瞬間、少しだけ後悔した。
充希は答えなかった。
ただ、グラスの中のワインを小さく揺らした。
「なんでもないです」
そう言って笑った。
瑞希は、その笑顔の奥に何があるのか知りたかった。
でも、聞けなかった。
聞いたところで、答えをもらえる気がしなかった。
食事を終えて、二人でソファに座った。
テレビでは、古い映画が流れていた。
内容は頭に入ってこない。
充希は瑞希の隣にいる。
近い。
肩が触れている。
瑞希は、その距離に慣れてしまった自分が怖かった。
最初は、隣にいるだけで十分だった。
今も十分なはずだった。
でも、今はもう、隣にいるだけでは足りない。
一緒にいられる時間が長くなるほど、
その先にある別れがはっきり見える。
充希は瑞希の肩に頭を預けた。
自然に。
まるで、そこが最初から決まっていた場所みたいに。
瑞希は動けなくなる。
髪の匂い。
体温。
左手は膝の上に置かれていた。
指輪は、なかった。
でも、跡はあった。
薄く、白く、消えない線。
瑞希はそれを見た。
見たくないのに、見てしまう。
外しているのに、残っている。
雪が街を白く隠しても、明日の朝には溶ける。
指輪を外しても、跡は残る。
同じだと思った。
何も消えていない。
ただ、見え方が変わっているだけだ。
「瑞希さん」
充希が小さく言った。
「ん?」
「眠くなってきました」
「早くない?」
「雪のせいです」
「何でも雪のせいにするね」
「便利なので」
充希は目を細めて笑った。
その顔が、どうしようもなく好きだった。
好きだと思った瞬間、胸の奥が苦しくなる。
この人は、明日の朝、帰る。
それは決まっている。
どんなに雪が降っても、
どんなに今が穏やかでも、
この人には帰る場所がある。
瑞希の部屋は、立ち寄る場所でしかない。
その事実が、急に耐えられなくなった。
「充希」
名前を呼んだ。
充希が顔を上げる。
「はい」
瑞希は、少しだけ息を吸う。
言葉にするつもりはなかった。
今まで、ずっと飲み込んできた。
困らせたくなかった。
壊したくなかった。
嫌われたくなかった。
でも、その夜は雪が降っていた。
外の音が遠くて、部屋の中だけが現実みたいで、
瑞希は自分の中の醜さを、もう隠しきれなかった。
「俺たちって、何なんだろうね」
言ってしまった。
充希の表情が、少しだけ止まる。
テレビの音だけが小さく続いている。
瑞希は自分の声が思ったより静かなことに驚いた。
怒鳴っているわけではない。
責めているつもりもない。
でも、責めているのと同じだった。
「どうしたんですか、急に」
充希は柔らかく言った。
いつもの声。
その声が優しくて、瑞希は余計に苦しくなる。
「急じゃないよ」
「……うん」
「ずっと思ってた」
充希は何も言わない。
瑞希は続ける。
「会いたいって言えないし、連絡もできないし、次いつ会えるかもわからない。会ってるときは楽しいけど、帰ったあと、何も残らない」
言葉が一度出ると、止まらなかった。
「いや、残るんだけど。残るから、余計にしんどい」
充希は膝の上で手を重ねている。
左手の薬指に、指輪の跡。
瑞希はそれを見てしまう。
「指輪、外してるのも」
言った瞬間、空気が変わった。
充希の指がわずかに動く。
「……気づいてたんですね」
「気づくよ」
瑞希の声が少しだけ硬くなる。
「気づかないふりしてただけ」
充希は目を伏せる。
「ごめんなさい」
また、その言葉だった。
瑞希は首を振る。
「謝ってほしいわけじゃない」
でも、本当はわからなかった。
謝ってほしかったのかもしれない。
謝らないでほしかったのかもしれない。
「じゃあ、どうしたいですか」
充希が聞いた。
静かな声だった。
どうしたい。
その問いは、あまりにも残酷だった。
瑞希はすぐには答えられない。
どうしたいかなんて、決まっている。
一緒にいたい。
普通に連絡したい。
何も隠さず会いたい。
朝、駅まで送って、また夜に会いたい。
充希の生活を知りたい。
充希の全部がほしい。
でも、それを言えば終わる。
言わなくても、もう終わりに近づいているのかもしれない。
瑞希は笑った。
自分でも情けない笑い方だと思った。
「正しい形にしたい」
それは、ずっと言えなかった言葉だった。
充希は顔を上げた。
「正しい形?」
「うん」
「正しいって、何ですか」
その声に責める色はなかった。
本当にわからないみたいだった。
瑞希は、胸の奥に少しだけ怒りが湧くのを感じた。
「わからないの?」
言ってから、しまったと思った。
でも遅かった。
「俺だけなのかな、こういうの考えてるの」
充希は少しだけ目を伏せる。
「そんなことないです」
「じゃあ、どうするの」
言葉が尖る。
「俺は、ずっと待つだけ? 充希が連絡できるときだけ会って、帰る時間になったら帰って、またねって言われて、それで終わり?」
充希は何も言わない。
瑞希は止まれなかった。
「夫と別れる気はないんでしょ」
その言葉を言った瞬間、自分が一番触れてはいけないところに触れたのがわかった。
部屋の空気が、少しだけ冷えた気がした。
充希は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ないです」
短い答えだった。
ごまかさなかった。
その正直さが、瑞希には痛かった。
「そっか」
「ごめんなさい」
「だから、謝らないでって」
声が少しだけ荒くなる。
充希はびくりとはしなかった。
ただ、瑞希を見ていた。
まっすぐに。
その目が優しいことに、瑞希はまた傷つく。
「ずるいよ」
瑞希は言った。
ついに、言ってしまった。
「そうやって、優しくするの」
充希の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「私、ずるいですか」
瑞希は答えなかった。
答えられなかった。
ずるいと思っている。
でも、ずるいと言い切ってしまえば、自分が好きだった充希まで汚してしまう気がした。
「……わかんない」
それが精一杯だった。
「わかんないけど、苦しい」
子どもみたいな言葉だと思った。
二十八歳の男が、こんなことを言うなんて。
でも、それ以上うまく言えなかった。
「会いたいのに、会うと苦しくなる」
充希は何も言わない。
「会えないともっと苦しい」
瑞希は、膝の上で拳を握った。
「どうしたらいいのか、わかんないんだよ」
最後の言葉は、もうほとんど独り言だった。
長い沈黙があった。
窓の外では、まだ雪が降っている。
テレビの中で、誰かが笑っていた。
その笑い声が場違いで、瑞希はリモコンを取ってテレビを消した。
部屋が急に静かになる。
充希はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと瑞希の方へ体を向けた。
「瑞希さん」
名前を呼ぶ声は、いつもと同じだった。
優しくて、少しだけ困っていて、逃げない声。
瑞希は顔を上げられなかった。
「こっち見てください」
瑞希は首を振る。
見たら、きっとまた何も言えなくなる。
充希は少しだけ近づいた。
そして、瑞希の手に触れた。
冷たい指だった。
「ごめんね」
また謝った。
でも今度は、その言葉が少し違って聞こえた。
「困らせたいわけじゃないんです」
瑞希は黙っている。
「でも、困らせてますよね」
充希の声は震えていなかった。
泣いてもいなかった。
だから余計に、瑞希にはその言葉の奥が見えなかった。
「私、瑞希さんといる時間、好きです」
その言葉に、瑞希は少しだけ息を止めた。
「本当に」
充希は続ける。
「楽しいし、落ち着くし、来たいと思って来てます」
瑞希は、やっと顔を上げた。
充希は瑞希を見ていた。
「でも」
その先を、瑞希は聞きたくなかった。
でも、充希は言った。
「それ以上を、ちゃんと言えない」
それは、優しい嘘よりずっと残酷な本当だった。
瑞希は視線を落とす。
「うん」
声がかすれる。
「わかってる」
わかっている。
ずっとわかっていた。
充希が夫と別れる気がないことも。
この関係に未来がないことも。
自分がどれだけ願っても、充希の生活には入れないことも。
全部、わかっていた。
だから苦しかった。
充希は瑞希の手を両手で包んだ。
指輪の跡のある左手もそこにあった。
瑞希はそれを振り払えなかった。
振り払いたくなかった。
「怒っていいですよ」
充希が言った。
「怒ってない」
「怒ってます」
「……怒ってるかも」
「うん」
「でも、充希に怒ってるのか、自分に怒ってるのかわからない」
充希は少しだけ頷いた。
「うん」
「ごめん」
今度は瑞希が謝った。
「当たった」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ」
「大丈夫です」
充希はそう言って、少し笑った。
また、大丈夫。
瑞希はその言葉に救われたくなかった。
でも、救われてしまった。
充希が両腕を伸ばした。
「来てください」
瑞希は少しだけ迷ってから、近づいた。
充希が抱きしめる。
住宅街の夜と同じように。
でも、今度は外ではなかった。
誰にも見られない部屋の中だった。
雪の日の、暖房の効いた、小さな部屋。
瑞希は充希の肩に顔を埋めた。
「ごめん」
もう一度言う。
「うん」
「好きなんだよ」
言うつもりはなかった。
でも、出てしまった。
充希の腕に、少しだけ力が入った。
「うん」
それだけだった。
好き、とは返ってこなかった。
それでも、瑞希は不思議と傷つかなかった。
いや、傷ついていた。
でも、その傷ごと抱きしめられている気がした。
「わかってます」
充希は小さく言った。
「わかってるなら」
その先は言わなかった。
わかってるなら、どうして。
その問いに、答えがないことを知っていたから。
充希は瑞希の背中をゆっくり撫でた。
「ごめんね」
その言葉は、雪みたいに静かに落ちた。
積もって、消えなかった。
しばらくして、二人は少しだけ落ち着いた。
どちらからともなく、ソファに並んで座り直す。
瑞希は目元を手で覆った。
泣いたわけではない。
たぶん、泣いていない。
でも、何かがこぼれそうだった。
充希はキッチンへ行き、水を二つ持ってきた。
「飲んでください」
「ありがとう」
グラスを受け取る。
充希の動きはいつも通りだった。
いつも通りすぎて、さっきのやり取りが夢だったように思える。
でも、夢ではなかった。
言ってしまった言葉は、もう戻らない。
「怒ってない?」
瑞希が聞く。
「怒ってないです」
「嫌になった?」
充希は少しだけ首を傾げる。
「嫌になってたら、今ここにいないです」
その言い方が優しくて、ずるかった。
瑞希は笑ってしまう。
「そういうところだよ」
「どこですか」
「わかんないならいい」
「教えてください」
「いや」
「意地悪」
「そっちでしょ」
充希は少しだけ笑った。
その笑いで、部屋の空気が少し戻る。
完全には戻らない。
でも、戻ったふりはできた。
たぶん、二人ともそれを選んだ。
夜は更けていった。
雪はまだ降っていた。
二人はベッドに入った。
電気を消すと、カーテンの隙間から白い光が入ってくる。
外が明るい。
雪の日の夜は、暗いのに明るい。
充希は瑞希の隣で、静かに横になっていた。
最初は、二人とも何も言わなかった。
布団の中で、充希の足が少しだけ瑞希に触れる。
冷たかった。
「冷たい」
瑞希が言う。
「外寒かったんです」
「いつまで冷えてるの」
「知りません」
「こっち来れば」
言ってから、少しだけ照れる。
充希は小さく笑って、少し近づいた。
体温が触れる。
瑞希は充希を抱き寄せた。
充希は抵抗しなかった。
その時間だけは、何も考えないようにした。
正しいかどうか。
未来があるかどうか。
明日の朝、充希が帰ること。
全部、雪の下に埋めるみたいに。
今だけ。
そう思った。
今だけでいい。
でも、本当は今だけでは足りないことも、もう知っていた。
「瑞希さん」
暗い中で、充希が言った。
「ん?」
「さっき、言ってくれてよかったです」
「何を」
「苦しいって」
瑞希は黙った。
「言わない方がよかったかも」
「そんなことないです」
「困ったでしょ」
「困りました」
あまりにも正直で、瑞希は少し笑った。
「言うんだ」
「でも、言ってくれなかったら、もっと困ったかもしれない」
「どういう意味」
「わからないです」
充希はそう言った。
わからないことを、わからないまま差し出す声だった。
瑞希は、それ以上聞かなかった。
「そっか」
「はい」
少し沈黙。
そのあと、充希が小さく続けた。
「瑞希さん、優しいから」
「優しくないよ」
「優しいです」
「今日、当たった」
「それでも」
「それでも?」
「それでも、優しいです」
瑞希は何も言えなくなった。
その言葉が嬉しかった。
嬉しいのに、どこかで、もう許されてしまったような気がした。
許されたいわけじゃない。
怒ってほしかったのかもしれない。
最低だと言ってほしかったのかもしれない。
そしたら、少しは終われたのかもしれない。
でも充希は、最後まで優しかった。
瑞希の情けなさも、醜さも、困らせたことも、全部受け止めるみたいに。
その優しさから、瑞希は逃げられなかった。
充希の呼吸が少しずつゆっくりになる。
眠りに落ちかけているのがわかった。
瑞希は、暗闇の中で目を開けていた。
天井は見えない。
ただ、白い光だけがぼんやり部屋に滲んでいる。
隣に充希がいる。
それだけで、今はまだ幸せだった。
本当に幸せだった。
たとえ明日の朝、終わるとしても。
いや、終わると決めているわけではない。
まだ何も決めていない。
でも、どこかでわかっていた。
今日、言ってしまった。
正しい形にしたい、と。
充希はそれに答えなかった。
答えられないと、言った。
それで十分だった。
十分すぎるほど、答えだった。
瑞希は、充希を起こさないように少しだけ体勢を変えた。
充希の髪が、枕の上に広がっている。
毛先がまだ少しだけ湿っている気がした。
雪に濡れたからかもしれない。
シャワーのあと、乾かしきれていないだけかもしれない。
どちらでもよかった。
瑞希は、その横顔を見ていた。
ずっと見ていた。
忘れないように。
いや、忘れるために。
どちらなのか、自分でもわからなかった。
夜のどこかで、瑞希も少し眠った。
夢は見なかった。
目が覚めたとき、部屋は静かだった。
朝だった。
カーテンの隙間から差し込む白が、部屋の輪郭をやわらかくぼかしている。
雪はまだ少し残っているらしい。
隣で、充希が眠っていた。
小さく、規則正しい呼吸。
触れていないのに、すぐそこにいるとわかる距離。
瑞希は、目を閉じたまま、その気配だけを確かめた。
腕を伸ばせば届く。
でも伸ばさない。
触れたら起きてしまうかもしれない。
起きてしまったら、この時間は終わる気がした。
だから、ただ横にいた。
それだけでよかった。
それだけで、もう十分だった。
十分だと、自分に言い聞かせた。
窓の外で、遠く車の音がする。
世界がゆっくり動き始めている。
今日も、誰かが仕事へ行く。
誰かが電車に乗る。
誰かが家に帰る。
充希も、きっと帰る。
それでも今だけは、まだ隣にいる。
瑞希は、その事実だけを抱いて、静かに息をした。
このまま、もう少しだけ。
そう思った。
そして、その“もう少しだけ”が、いつだって一番ほしかったものなのだと、ようやく気づいた。




