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7. 触れないもの

その日の充希は、いつもより少しだけ遅れて来た。


待ち合わせは、表参道のカフェだった。


白い壁。細い階段。


入口の横には背の高い観葉植物が置かれていて、葉の先に昼の光が引っかかっていた。


瑞希は奥の席に座っていた。

入口が見える席。


もう、それを選ぶことにも慣れていた。


待っている自分を認めることにも、少しずつ慣れてしまっていた。


スマホを見る。


約束の時間を五分過ぎている。


遅れる、という連絡はない。


けれど、連絡がないことに不安になる資格が、自分にはないような気がした。



そういう関係だった。



心配していい距離ではない。



怒っていい距離でもない。



それでも、入口のドアが開くたびに、瑞希は顔を上げた。


三度目のドアの音で、充希が入ってきた。


「ごめんなさい、遅れました」


息を少し弾ませて、笑っていた。


「全然」


瑞希はそう言った。


本当は、全然ではなかった。


でも、全然と言うしかなかった。


「電車、遅れてて」


「うん」


「ほんとに?」


「ほんとに」


「顔、ちょっと怒ってますよ」


「怒ってない」


「怒ってる人の言い方です、それ」


充希は向かいに座りながら、楽しそうに笑った。


その笑い方を見ただけで、瑞希の中にあった小さな棘が、少しだけ丸くなる。


悔しいくらい簡単だった。



充希はコートを脱いで、椅子の背に掛けた。


薄いベージュのニット。


袖口が少し長くて、指の付け根まで隠れている。



その手でメニューを開く。


「今日、ケーキ食べたい気分です」


「毎回食べてない?」


「毎回じゃないです」


「この前も食べてた」


「この前は、瑞希さんが頼んだから一口もらっただけです」


「あれは一口じゃなかった」


「細かいですね」


「営業だから」


「関係あります?」


「たぶんない」


充希はまた笑った。



その声が、テーブルの上に柔らかく落ちる。


瑞希はコーヒーを頼み、充希は紅茶とチーズケーキを頼んだ。


注文を終えて、店員が離れる。


いつものように、少しだけ静かになる。


その静けさも、もう知っているものだった。


「最近、忙しいですか」


充希が聞く。


「まあまあ」


「まあまあって、便利ですよね」


「本当にまあまあだから」


「営業って大変そう」


「大変そうに見える?」


「見えます。なんか、いつも少し疲れてる」


「それは営業のせいじゃないかも」


言ってから、少しだけ後悔した。



充希が、一瞬だけ黙った。



ほんの少しだけ。


けれどすぐに、いつもの顔に戻る。


「ちゃんと寝てくださいね」


そう言って、紅茶のカップに手を伸ばした。



そのときだった。



瑞希は、充希の左手を見た。



指輪が、なかった。



いや、なかったというより、

指輪のあった場所だけが、残っていた。



左手の薬指。



そこだけ、皮膚の色が少し違って見えた。



細く、薄く、輪の形に。



日焼けの跡みたいな。



あるいは、長いあいだ何かに守られていた場所だけが、急に外気に触れているみたいな。



瑞希は、それを見てしまった。


見てはいけないものではない。


でも、見てしまったと思った。


充希は気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、いつも通りだった。


カップを持つ。


ケーキを一口食べる。


「おいしい」と小さく言う。


その左手に、指輪はない。


なのに、指輪よりもはっきり、夫の存在が見えた。



「どうしました?」


充希が言った。


瑞希は視線を上げる。


「何が?」


「今、ぼーっとしてました」


「してたかな」


「してました」


「寝不足かも」


「だから、ちゃんと寝てって言ったのに」


充希は呆れたように笑う。


その笑顔が優しくて、瑞希は少し苦しくなる。



指輪を外して来た理由を聞きたかった。



今日だけなのか。


いつもそうなのか。


瑞希と会うときだけなのか。


外すとき、何を考えたのか。


外したあとを、本人は知っているのか。


聞きたいことはいくつもあった。


でも、どれも言葉にすると、自分が惨めになる気がした。


だから、聞かなかった。


聞かない代わりに、別のことを言った。


「今日、このあとどうする?」


充希は少しだけ考えて、


「歩きたいです」


と言った。


「どこを?」


「どこでも」


「それ、一番困るやつだよ」


「瑞希さん、いつも言ってますよ」


「だから困らせてる側の気持ちがわかった」


「じゃあ、おあいこですね」


充希は、そう言って笑った。



おあいこ。



その言葉だけが、妙に残った。


何がおあいこなのか、瑞希にはわからなかった。



***


カフェを出ると、空は曇っていた。


雨が降りそうで降らない、灰色の午後だった。


二人は特に目的もなく歩いた。


表参道から少し外れて、静かな道へ入る。


小さなギャラリーや、閉まっている店の前を通り過ぎる。


充希はよく歩く人だった。


ヒールでも、スニーカーでも、歩く速度があまり変わらない。


瑞希はその少し横を歩く。


手は繋がない。


人通りがあるから、ではなかった。


人通りがなくても、たぶん繋がなかった。


繋いでしまうと、何かを期待している自分が見えるから。


「こういう道、好きです」


充希が言う。


「何もないよ」


「何もないからいいんじゃないですか」


「そういうもの?」


「そういうものです」


充希は、道沿いの小さな花屋の前で立ち止まった。


店先に、名前の知らない花が並んでいた。


白い花。黄色い花。


少しだけ紫がかった、薄い色の花。


「花、好きなんだ」


「詳しくはないです」


「でも見てる」


「綺麗なものは、詳しくなくても見ますよ」


その言い方が少しだけ充希らしくて、瑞希は笑った。


「何ですか」


「いや」


「今、馬鹿にしました?」


「してない」


「怪しい」


「本当にしてない」


充希は少しだけ頬を膨らませるような顔をして、それからまた笑った。


その全部が、どうしようもなく近かった。



近いのに、触れない。



触れられる距離にあるのに、触れてはいけない。



いや、触れてはいけないというより、

触れたところで何も変わらない。


そのことが、瑞希にはわかり始めていた。



夕方になって、充希は「そろそろ」と言った。


その一言で、今日の終わりが決まる。


いつもそうだった。


始まりは充希からで、終わりも充希からだった。


瑞希はそれを受け入れるしかない。


「駅まで送るよ」


「大丈夫ですよ」


「近いし」


「じゃあ、お願いします」


充希は軽く笑う。


お願いします。


その言葉が、妙に他人行儀に聞こえた。


さっきまで隣にいたのに。


何時間も一緒に歩いていたのに。


急に、ちゃんと帰る人の顔になる。


瑞希はその変化が苦手だった。



駅までの道で、充希はいつも通り話した。


仕事であった小さな失敗。


会社の先輩の癖。


最近コンビニで買ったお菓子。


瑞希も相槌を打つ。


でも、視線は何度も左手に落ちそうになった。



指輪の跡。



そこには、ないものがあった。


ないことで、あることを証明していた。


瑞希は、自分の手をコートのポケットに入れた。


何かを握っていないと、うっかり触れてしまいそうだった。



改札の前で、いつものように足が止まる。


「今日はありがとうございました」


充希が言う。


「うん」


「また、連絡します」


「うん」



また。



その言葉は、いつも瑞希を少しだけ救って、同じくらい苦しめた。


「瑞希さん」


急に名前を呼ばれて、顔を上げる。


「何?」


充希は少しだけ迷うような顔をした。


それは本当に一瞬だった。


「……ちゃんと寝てくださいね」


言いたかったのは、それだけではなかった気がした。


でも、充希はそれ以上言わなかった。


瑞希も、それ以上聞かなかった。


「うん」


「またね」


そう言って、充希は改札の向こうへ行った。


左手を小さく振る。



指輪のない手。



指輪の跡だけがある手。



瑞希はそれを見送った。


改札の向こうで、充希は一度も振り返らなかった。



***


その夜、瑞希は悠斗と飲んだ。


急に連絡したのに、悠斗は「いいよ」とだけ返してきた。


場所は、新宿の小さな居酒屋だった。


金曜日ではなかったから、店は空いていた。


瑞希はビールを頼んで、半分も飲まないうちに黙り込んだ。


悠斗は、そういう沈黙に慣れている。


「会ってきたの?」


唐突に聞かれた。


瑞希は頷く。


「うん」


「そっか」


悠斗は枝豆をひとつ口に入れる。


「楽しかった?」


「楽しかった」


「ならいいじゃん」


「そうかな」


「違うの?」


瑞希は答えなかった。


店の壁に貼られた古いポスターを見ていた。



知らない酒の名前。



少し剥がれた角。


「指輪、してなかった」


ぽつりと言う。


悠斗は瑞希を見る。


「外してたってこと?」


「たぶん」


「ふうん」


責めるでも、興味本位でもない相槌。


それが逆に、瑞希には言いやすかった。


「跡があった」


「跡?」


「薬指に。指輪の」


悠斗は少しだけ黙る。


「それ見て、どう思ったの」


どう思ったのか。


瑞希は、考える。


嬉しかったのかもしれない。


自分と会うために外してきたのだとしたら。


でも、同時に苦しかった。



外しても、跡は残る。


外しても、消えない。


充希の生活も、夫も、帰る場所も。


「わかんない」


瑞希は言った。


「わかんないけど、見なきゃよかった」


悠斗はグラスを置いた。


「見えちゃうもんは、しょうがないだろ」


「そうだけど」


「続ける理由って、あるの?」


その声は、静かだった。


責めているわけではなかった。


ただ、そこにあるものを、テーブルの上に置くみたいな言い方だった。



瑞希は答えようとして、やめた。


理由。



会いたいから。



好きだから。



一緒にいると幸せだから。



いくつも浮かぶ。



でも、どれも理由というより、言い訳に近かった。


「ないのかも」


そう言うと、悠斗は頷いた。


「そっか」


「でも、会いたい」


「うん」


「やめた方がいいのは、わかってる」


「うん」


「でも、無理なんだよ」


言ってから、瑞希は少しだけ笑った。


情けない笑い方だった。


悠斗は何も笑わなかった。


「正解はないって前に言ったけどさ」


「うん」


「間違いがない、とは言ってないからな」


その言葉は、思ったより深く刺さった。


瑞希はグラスの中の泡を見る。


消えかけている泡。


「うん」


そう答える。



わかっている。



ずっと、わかっている。



わかっているから、苦しかった。



***


家に帰ると、部屋は静かだった。


充希がいたわけでもないのに、

充希がいないことだけが、妙にはっきりしていた。


瑞希はコートを脱いで、ソファに座る。


スマホを見る。


通知はない。


当たり前だった。


普段は連絡しない。


会えるときだけ、充希から連絡が来る。


それが約束だった。


その約束は、優しかった。


充希の生活を守るためのものだったから。


そして同時に、残酷だった。


瑞希の待つ時間だけが、そこに置き去りにされるから。


スマホを伏せる。



しばらくして、また見る。



何もない。



わかっている。



でも、見てしまう。



あの指輪の跡みたいに。



ないものほど、目につく。



ない連絡。



ない約束。



ない未来。



そして、触れないもの。



充希の左手。



充希の生活。



充希の本心。



瑞希はそのどれにも、手を伸ばせなかった。



伸ばしたら、何かが壊れる。



たぶん、自分が。



布団に入っても、なかなか眠れなかった。


目を閉じると、今日の充希が浮かぶ。


カフェで笑った顔。


花屋の前で足を止めた横顔。


改札で振った左手。


指輪のない薬指。


その跡。


瑞希は寝返りを打つ。



悠斗の言葉が、耳の奥で繰り返される。




続ける理由って、あるの?




理由はなかった。



でも、会いたい気持ちはあった。



たぶん、その二つは別の場所にある。



理由は頭の中にあって、

会いたい気持ちは、もっと体の奥にある。



だから、頭でいくら考えても、勝てない。



瑞希は、そう思った。


情けないほど、そう思った。




翌朝、目が覚めると、スマホに通知が一件あった。


充希からだった。


『昨日はありがとうございました。ちゃんと寝ました?』


ただそれだけのメッセージ。



何でもない言葉。



優しい言葉。



ずるい言葉。



瑞希はしばらく画面を見ていた。


返事を打つ。


『寝たよ』


嘘だった。


少し考えてから、そのあとに一言だけ足す。


『またね』


送信して、画面を伏せる。


すぐに既読はつかなかった。


それでいいと思った。


そう思おうとした。


窓の外では、朝の光が淡く広がっている。


今日も仕事に行く。


電話をかけて、資料を持って、頭を下げて、

いつも通りの日常を過ごす。



その中に、充希はいない。



でも、いないことで、ずっといる。



瑞希はベッドから起き上がる。



洗面所に向かいながら、左手を見る。



自分の薬指には、何の跡もなかった。



それが少しだけ、悲しかった。




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