6. ひとつきに一度
結婚した、という報告のあとも、何かが変わることはなかった。
変わるべきだったのかもしれない。
たぶん、普通ならそうだった。
けれど、普通というものがどこにあるのか、瑞希にはよくわからなかった。
電話の最後に、充希が言った。
「...また、会えますか」
その声だけが、しばらく耳の奥に残っていた。
その一言だけで、瑞希はもう、十分だった。
十分すぎるくらいだった。
次に会ったのは、それから一か月ほど経った頃だった。
連絡は、充希からだった。
『来週の土曜日、少しだけ時間あります』
それだけの短いメッセージ。
普段は連絡しない。
そういう約束になっていた。
誰が決めたのかは、はっきり覚えていない。
たぶん、言葉にする前からそうなっていた。
充希には充希の生活があって、
瑞希はその生活の中に、勝手に入り込んではいけなかった。
だから瑞希は、返信する前に何度か文章を打ち直した。
『会いたい』
最初にそう打って、消した。
『大丈夫』
そう打って、それも少し違う気がして消した。
結局、
『空いてるよ』
とだけ返した。
すぐに既読がついた。
返信は、少し遅れて来た。
『よかった』
その四文字を見て、瑞希はしばらく画面を閉じられなかった。
***
待ち合わせは、東京のカフェだった。
白い壁と、少し高い天井。
休日の午後で、人は多かったけれど、ざわめきは不思議とうるさくなかった。
瑞希が先に着いて、奥の席に座る。
入口が見える場所を選んだ。
自分でも、待っているんだなと思った。
しばらくして、充希が入ってきた。
髪を少し切っていた。
それだけのことで、胸の奥が小さく動いた。
「お待たせしました」
「ううん」
「髪、気づきました?」
ショートカットの髪を触りながら、充希は座る前にそう聞いた。
「気づいた」
「ほんとに?」
「うん」
「適当に言ってない?」
「言ってないよ」
そう答えると、充希は少しだけ満足そうに笑った。
その笑い方を見て、瑞希は思う。
あぁ、好きだな。
言葉にはしなかった。
言葉にしたら、その瞬間から何かが壊れそうだった。
充希の左手には、指輪があった。
細くて、控えめな銀色。
瑞希は見ないようにした。
見ないようにする、ということは、見ているのと同じだった。
カップを持つとき。
髪を耳にかけるとき。
スマホを裏返すとき。
そのたびに、光が小さく反射する。
充希はいつも通りだった。
仕事の話をして、
最近見たドラマの話をして、
この店のケーキが思ったより甘いと言って笑った。
瑞希も笑った。
笑いながら、自分がどこにいるのか、ときどきわからなくなった。
目の前にいるのは充希で、
左手に指輪をしているのも充希で、
「また会えますか」と言ったのも充希だった。
全部、同じ人だった。
***
カフェを出たあと、二人で少し歩いた。
このあとどうするかは、特に決めていなかった。
「映画でも観る?」
充希が言う。
「いいよ」
「何観ます?」
「何でもいい」
「またそれ」
充希は呆れたように笑った。
瑞希は、その声を聞いているだけでいいと思った。
映画館に入って、時間が合う作品を選んだ。
内容はあまり覚えていない。
暗い席で、隣に充希が座っていた。
肘掛けに置いた手が、何度か触れそうになった。
触れなかった。
その距離が、妙に苦しかった。
映画が終わると、外は夕方になっていた。
「瑞希さんの家、近いんでしたっけ」
充希が何気なく言った。
本当に何気なく。
それなのに、瑞希には、その一言だけで心臓の音が変わるのがわかった。
「まあ、そんなには」
「行ってもいいですか」
軽い声だった。
でも、軽いはずがなかった。
瑞希は一瞬だけ黙る。
「いいよ」
答えは、いつも簡単だった。
***
部屋に着くと、充希は「お邪魔します」と言って靴を揃えた。
初めて来た場所ではないみたいに、自然に。
ソファに座って、コートを畳んで、
テーブルの上に置いてあった雑誌を手に取る。
「意外と片付いてますね」
「意外とって何」
「男の人の一人暮らしって、もっとこう……」
「偏見」
「ごめんなさい」
そう言って笑う。
冷蔵庫から飲み物を出して、グラスに注ぐ。
テレビをつけたけれど、誰も見ていなかった。
画面の中で誰かが笑っている。
部屋の中では、別の沈黙が流れている。
その沈黙は、カフェのそれとも、映画館のそれとも違った。
もっと近くて、
もっと逃げ場がなくて、
それでも、不思議と落ち着く沈黙だった。
充希がソファの端に座っている。
瑞希は隣に座る。
最初は少し距離があった。
でも、いつの間にかその距離はなくなっていた。
肩が触れる。
今度は、離れなかった。
充希が、テレビの方を向いたまま言う。
「こういう時間、好きです」
瑞希は答えなかった。
答えたら、きっと「俺も」と言ってしまう。
それだけならいい。
でも、そのあとに続く言葉まで出てしまいそうだった。
ずっとこうしていたい。
帰らないでほしい。
連絡したい。
もっと知りたい。
指輪を外してほしい。
どの言葉も、言ってはいけない気がした。
だから、瑞希は黙っていた。
***
夜になって、充希は帰った。
泊まる日は、まだ先だった。
玄関で靴を履きながら、充希は言う。
「今日はありがとうございました」
いつもと同じ言葉。
「こっちこそ」
「また、連絡します」
瑞希は頷いた。
「うん」
また、という言葉は便利だった。
何も約束していないのに、
何かが続く気がした。
充希はドアを開ける前に振り返った。
「またね」
その言い方が、あまりにも普通だった。
普通すぎて、瑞希は少しだけ苦しくなった。
「またね」
同じように返す。
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
それから、エレベーターの音がした。
部屋に戻ると、まだ充希のいた形が残っていた。
ソファのクッションが少し沈んでいる。
グラスに口紅の跡がついている。
テーブルの上に、充希が一度手に取った雑誌が斜めに置かれている。
瑞希はそれらを片付けなかった。
片付けてしまうと、本当に終わったみたいだった。
スマホを見る。
連絡は来ていない。
来るはずがない。
普段は連絡しない。
そういう約束だから。
瑞希はスマホを伏せる。
それでも、数分後にはまた手に取っていた。
もちろん通知はない。
わかっている。
わかっていても、見てしまう。
それから、そんな日が何度か続いた。
ひとつきに一度。
充希から連絡が来る。
瑞希が答える。
カフェで会って、
少しだけ出かけて、
時々、瑞希の部屋に来る。
充希はいつも楽しそうだった。
それは嘘ではないと思った。
少なくとも、瑞希にはそう見えた。
瑞希といるときの充希はよく笑った。
くだらない話で笑って、
お菓子をこぼして笑って、
瑞希の言い間違いをいつまでもからかった。
その全部が、瑞希には大切だった。
大切で、同時に、少しずつ苦しかった。
充希が帰ったあとの部屋は、いつも広かった。
一人で暮らすには十分な広さなのに、
充希が帰ると、急に余る。
空気も、音も、夜も。
瑞希はそのたびに思った。
何かを失ったわけではない。
そもそも、最初から持っていなかった。
それなのに、なぜこんなに足りないのだろう。
***
翌朝、仕事に向かう電車の中で、瑞希はいつも通りスーツを着ていた。
証券会社の営業マンとして、
顧客に電話をかけ、資料を持って歩き、
上司に詰められ、同僚と昼を食べる。
誰も知らない。
昨夜、充希がこの部屋にいたことも。
彼女の左手に指輪があったことも。
その指輪を見ないふりしていたことも。
知られなくていいと思った。
でも、誰にも知られないということは、
誰にも本当のことを言えないということだった。
***
その夜、親友の悠斗と飲んだ。
大学時代からの友人で、東京に出てからもたまに会う。
悠斗は昔から、余計なことを言わない男だった。
だから瑞希も、全部を話したわけではない。
でも、充希のことは知っていた。
「まだ会ってんの」
ビールを半分ほど飲んだあと、悠斗が言った。
「...うん」
「そっか」
それだけ。
責めるでもなく、呆れるでもなく。
瑞希はそれに少しだけ救われて、少しだけ腹が立った。
「何も言わないんだ」
「言ってほしいの?」
「わかんない」
悠斗はグラスを置いて、少しだけ考える。
「お前が好きなようにしたらいいよ」
「それ、投げてない?」
「投げてるかもな」
そう言って、笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、オレはそこに正解はないと思うけどな」
瑞希は何も言えなかった。
正解がない。
それは優しい言葉のようで、
どこにも逃げ場がない言葉だった。
***
ひとつきに一度。
それは、少なすぎて、多すぎた。
会えない時間に諦めかけて、
会うたびにまた戻される。
月の満ち欠けみたいに、
瑞希の気持ちは同じことをぐるぐる繰り返していた。
次はいつ会えるのか。
その問いを、瑞希から送ることはできなかった。
だから待つしかない。
待っているつもりはなかった。
でも、カレンダーの空白を見るたびに、
心のどこかが勝手に数えていた。
充希からの連絡まで、あとどれくらいかを。
そして、連絡が来るたびに思う。
これでまた、一か月生きられる。
そんなふうに思ってしまう自分が、少しだけ嫌だった。
でも、それでも会いたかった。
それだけは、どうしても変わらなかった。




